黒死館殺人事件

小栗虫太郎




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  序篇 降矢木一族釈義
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 セントアレキセイ寺院の殺人事件に法水のりみずが解決を公表しなかったので、そろそろ迷宮入りのうわさが立ちはじめた十日目のこと、その日から捜査関係の主脳部は、ラザレフ殺害者の追求を放棄しなければならなくなった。と云うのは、四百年の昔から纏綿てんめんとしていて、臼杵耶蘇会神学林うすきジェスイットセミナリオ以来の神聖家族と云われる降矢木ふりやぎの館に、突如真黒い風みたいな毒殺者の彷徨ほうこうが始まったからであった。その、通称黒死館と呼ばれる降矢木の館には、いつか必ずこういう不思議な恐怖が起らずにはいまいと噂されていた。勿論そういう臆測を生むについては、ボスフォラス以東にただ一つしかないと云われる降矢木家の建物が、明らかに重大な理由の一つとなっているのだった。その豪壮を極めたケルト・ルネサンス式の城館シャトウを見慣れた今日でさえも、尖塔や櫓楼の量線からくる奇異ふしぎな感覚――まるでマッケイの古めかしい地理本の插画でも見るような感じは、いつになっても変らないのである。けれども、明治十八年建設当初に、河鍋暁斎かわなべぎょうさい落合芳幾おちあいよしいくをしてこの館の点睛てんせいに竜宮の乙姫を描かせたほどのきらびやかな眩惑は、その後星の移るとともに薄らいでしまった。今日では、建物も人も、そういう幼稚な空想の断片ではなくなっているのだ。ちょうど天然の変色が、荒れびれたまだらを作りながら石面をむしばんでゆくように、いつとはなく、この館を包みはじめた狭霧さぎりのようなものがあった。そうして、やがては館全体を朧気おぼろげな秘密の塊としか見せなくなったのであるが、その妖気のようなものと云うのは、実を云うと、館の内部に積り重なっていった謎の数々にあったので、勿論あのプロヴァンス城壁を模したと云われる、周囲の壁廓ではなかったのだ。事実、建設以来三度にわたって、怪奇な死の連鎖を思わせる動機不明の変死事件があり、それに加えて、当主旗太郎はたたろう以外の家族の中に、門外不出の弦楽四重奏団ストリング・カルテットを形成している四人の異国人がいて、その人達が、揺籃の頃から四十年もの永い間、館から外へは一歩も出ずにいると云ったら……、そういう伝え聞きの尾にひれが附いて、それが黒死館の本体の前で、鉛色をした蒸気の壁のように立ちはだかってしまうのだった。まったく、人も建物も腐朽しきっていて、それが大きながんのような形で覗かれたのかもしれない。それであるからして、そういった史学上珍重すべき家系を、遺伝学の見地から見たとすれば、あるいは奇妙な形をしたきのこのように見えもするだろうし、また、故人降矢木算哲さんてつ博士の神秘的な性格から推して、現在の異様な家族関係を考えると、今度は不気味な廃寺のようにも思われてくるのだった。勿論それ等のどの一つも、臆測が生んだ幻視にすぎないのであろうが、その中にただ一つだけ、今にも秘密の調和を破るものがありそうな、妙に不安定な空気のあることだけは確かだった。その悪疫のような空気は、明治三十五年に第二の変死事件が起った折からきざしはじめたもので、それが、十月ほど前に算哲博士が奇怪な自殺を遂げてからというものは――後継者旗太郎が十七の年少なのと、また一つには支柱を失ったという観念も手伝ったのであろう――いっそう大きな亀裂になったかのように思われてきた。そして、もし人間の心の中に悪魔が住んでいるものだとしたら、その亀裂の中から、残った人達を犯罪の底に引き摺り込んででもゆきそうな――思いもつかぬ自壊作用が起りそうな怖れを、世の人達はしだいに濃く感じはじめてきた。けれども、予測に反して、降矢木一族の表面には沼気ほどの泡一つ立たなかったのだが、恐らくそれと云うのも、その瘴気しょうきのような空気が、未だ飽和点に達しなかったからであろうか。否、その時すでに水底では、静穏な水面とは反対に、暗黒の地下流に注ぐ大きな瀑布が始まっていたのだ。そして、その間に鬱積していったものが、突如凄じく吹きしく嵐と化して、聖家族の一人一人に血行を停めてゆこうとした。しかも、その事件には驚くべき深さと神秘とがあって、法水麟太郎のりみずりんたろうはそれがために、狡智きわまる犯人以外にも、すでに生存の世界から去っている人々とも闘わねばならなかったのである。ところで、事件の開幕に当って、筆者は法水の手許に集められている、黒死館についての驚くべき調査資料のことを記さねばならない。それは、中世楽器や福音書写本、それに古代時計に関する彼の偏奇な趣味が端緒となったものであるが、その――恐らく外部からは手を尽し得る限りと思われる集成には、検事が思わず嘆声を発し、唖然となったのも無理ではなかった。しかも、その痩身的な努力をみても、すでに法水自身が、水底のとどろきに耳を傾けていた一人だったことは、明らかであると思う。
 その日――一月二十八日の朝。生来あまり健康でない法水は、あのみぞれの払暁に起った事件の疲労から、全然恢復かいふくするまでになっていなかった。それなので、訪れた支倉はぜくら検事から殺人という話を聴くと、ああまたか――という風ないやな顔をしたが、
「ところが法水君、それが降矢木家なんだよ。しかも、第一提琴ヴァイオリン奏者のグレーテ・ダンネベルグ夫人が毒殺されたのだ」と云った後の、検事の瞳に映った法水の顔には、にわかにまんざらでもなさそうな輝きが現われていた。しかし、法水はそう聴くと不意に立って書斎に入ったが、間もなく一抱えの書物を運んで来て、どかっと尻を据えた。
「ゆっくりしようよ支倉君、あの日本で一番不思議な一族に殺人事件が起ったのだとしたら、どうせ一、二時間は、予備智識にかかるものと思わなけりゃならんよ。だいたい、いつぞやのケンネル殺人事件――あれでは、支那古代陶器が単なる装飾物にすぎなかった。ところが今度は、算哲博士が死蔵している、カロリング朝以来の工芸品だ。その中に、あるいはボルジアの壺がないとは云われまい。しかし、福音書の写本などは一見して判るものじゃないから……」と云って、「一四一四年サンガル寺発掘記」の他二冊を脇に取り除け、綸子りんず尚武革しょうぶがわを斜めに貼り混ぜた美々しい装幀の一冊を突き出すと、
「紋章学※(感嘆符疑問符、1-8-78)」と検事は呆れたように叫んだ。
「ウン、寺門義道てらかどよしみちの『紋章学秘録』さ。もう稀覯本きこうぼんになっているんだがね。ところで君は、こういう奇妙な紋章を今まで見たことがあるだろうか」と法水が指先で突いたのは、FRCOの四字を、二十八葉橄欖かんらん冠で包んである不思議な図案だった。
「これが、天正遣欧使の一人――千々石ちぢわ清左衛門直員なおかずから始まっている、降矢木家の紋章なんだよ。何故、豊後ぶんご普蘭師司怙フランシスコ休庵シヴァン(大友宗麟)の花押かおうを中にして、それを、フィレンツェ大公国の市表章旗の一部が包んでいるのだろう。とにかく下の註釈を読んで見給え」
 ――「クラウディオ・アクワヴィバ(耶蘇ジェスイット会会長)回想録」中の、ドン・ミカエル(千々石のこと)よりジェンナロ・コルバルタ(ヴェニスの玻璃ガラス工)に送れる文。(前略)その日バタリア僧院の神父ヴェレリオは余を聖餐式エウカリスチヤに招きたれど、姿を現わさざれば不審に思いいたる折柄、扉を排してたけ高き騎士現われたり、見るに、バロッサ寺領騎士の印章をけ、雷の如き眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりて云う。フランチェスコ大公妃ビアンカ・カペルロ殿は、ピサ・メディチ家において貴下のたねを秘かに生めり。その女児に黒奴ムールの乳母をつけ、刈込垣の外に待たせ置きたれば受け取られよ――と。余は、おどろけるも心中覚えある事なれば、そのむねを承じて騎士を去らしむ。それより悔改コンチリサンをなし、贖罪符しょくざいふをうけて僧院を去れるも、帰途船中黒奴ムールはゴアにて死し、嬰児えいじすぐせと名付けて降矢木の家をおこしぬ。されど帰国後吾が心には妄想もうぞう散乱し、天主デウス、吾れを責むる誘惑テンタサン障礙しょうげを滅し給えりとも覚えず。(以下略)
「つまり、降矢木の血系が、カテリナ・ディ・メディチの隠し子と云われるビアンカ・カペルロから始まっていると云うことなんだが、その母子おやこがそろって、怖ろしい惨虐性犯罪者ときている。カテリナは有名な近親殺害者で、おまけにセントバルテルミー斎日の虐殺を指導した発頭人なんだし、また娘の方は、毒のルクレチア・ボルジアから百年後に出現し、これは長剣の暗殺者とうたわれたものだ。ところが、その十三世目になると、算哲という異様な人物が現われたのだよ」と法水は、さらにその本の末尾に挾んである、一葉の写真と外紙の切抜を取り出したが、検事は何度も時計を出し入れしながら、
「おかげで、天正遣欧使の事は大分明るくなったがね。しかし、四百年後に起った殺人事件と祖先の血との間に、いったいどういう関係があるのだね。なるほど不道徳という点では、史学も、法医学や遺伝学と共通してはいるが……」
「なるほど、とかく法律家は、詩に箇条を附けたがるからね」と法水は検事の皮肉に苦笑したが、「だが、例証がないこともないさ。シャルコーの随想の中には、ケルンで、兄が弟に祖先は悪竜を退治した聖ゲオルクだと戯談じょうだんを云ったばかりに、尼僧の蔭口をきいた下女をその弟が殺してしまった――という記録が載っている。また、フィリップ三世が巴里パリー中の癩患者を焚殺ふんさつしたという事蹟を聞いて、六代後の落魄したベルトランが、今度は花柳病者に同じ事をやろうとしたそうだ。それを、血系意識から起る帝王性妄想と、シャルコーが定義をつけているんだよ」と云って、眼で眼前のものを見よとばかりに、検事を促した。
 写真は、自殺記事に插入されたものらしい算哲博士で、胸衣チョッキの一番下のぼたんを隠すほどに長い白髯はくぜんを垂れ、魂の苦患くげんが心の底で燃えくすぶっているかのような、憂鬱そうな顔付の老人であるが、検事の視線は、最初からもう一枚の外紙の方に奪われていた。それは、一八七二年六月四日発行の「マンチェスター郵報クウリア」紙で、日本医学生セントリューク療養所より追放さる――という標題の下に、ヨーク駐在員発の小記事にすぎなかった。が、内容には、思わず眼をみはらしむるものがあった。
――ブラウンシュワイク普通医学校より受託の日本医学生降矢木鯉吉(算哲の前名)は、かねてよりリチャード・バートン輩と交わりて注目をける折柄、エクセター教区監督を誹謗し、目下狂否の論争中なる、法術士ロナルド・クインシイとねんごろにせしため、本日原籍校に差し戻されたり。しかるに、クインシイは不審にも巨額の金貨を所持し、それを追及されたる結果、彼の秘蔵に係わる、ブーレ手写のウイチグス呪法典、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルデマール一世触療呪文集、希伯来ヘブライ語手写本猶太秘釈義ユダヤカバラ法(神秘数理術ゲマトリアとしてノタリク、テムラの諸法を含む)、ヘンリー・クラムメルの神霊手書法ニューマトグラフィー、編者不明の拉典ラテン語手写本加勒底亜カルデア五芒星招妖術、並びに栄光の手ハンド・オブ・グローリー(絞首人のてのひらを酢漬けにして乾燥したもの)を、降矢木に譲り渡したる旨を告白せり。
 読み終った検事に、法水は亢奮こうふんした口調を投げた。
「すると、僕だけということになるね。これを手に入れたばかりに、算哲博士と古代呪法との因縁を知っているのは。いや、真実怖ろしい事なんだよ。もし、ウイチグス呪法書が黒死館のどこかに残されているとしたら、犯人の外に、もう一人僕等の敵がふえてしまうのだからね」
「そりゃまた何故だい。魔法本と降矢木にいったい何が?」
「ウイチグス呪法典はいわゆる技巧呪術アート・マジックで、今日の正確科学を、呪詛じゅそと邪悪の衣で包んだものと云われているからだよ。元来ウイチグスという人は、亜剌比亜アラブ希臘ヘレニックの科学を呼称したシルヴェスター二世十三使徒の一人なんだ。ところが、無謀にもその一派は羅馬ローマ教会に大啓蒙運動を起した。で、結局十二人は異端焚殺に逢ってしまったのだが、ウイチグスのみは秘かにのがれ、この大技巧呪術書を完成したと伝えられている。それが後年になって、ボッカネグロの築城術やヴォーバンの攻城法、また、デイやクロウサアの魔鏡術やカリオストロの煉金術、それに、ボッチゲルの磁器製造法からホーヘンハイムやグラハムの治療医学にまで素因をなしていると云われるのだから、驚くべきじゃないか。また、猶太秘釈義ユダヤカバラ法からは、四百二十の暗号がつくれると云うけれども、それ以外のものはいわゆる純正呪術であって、荒唐無稽もきわまった代物ばかりなんだ。だから支倉君、僕等が真実怖れていいのは、ウイチグス呪法典一つのみと云っていいのさ」
 はたして、この予測は後段に事実となって現われたけれども、その時はまだ、検事の神経に深く触れたものはなく、法水が着換えに隣室へ立ったあいだ次の一冊を取り上げ、折った個所のある頁を開いた。それは、明治十九年二月九日発行の東京新誌第四一三号で、「当世零保久礼博士ちょぼくれはかせ」と題した田島象二(酔多道士――「花柳事情」などの著者)の戯文だった。
 ――さてもこの度転沛逆手行かんぽのかえり、聞いてもくんねえ(と定句きまりく十数列の後に、次の漢文が插入されている)近来大山街道に見物客を引くは、神奈川県高座郡葭苅よしがりの在に、竜宮の如き西洋城廓出現せるがためなり。そは長崎の大分限ぶげん降矢木鯉吉の建造に係るものにして、いざその由来を説かん。先に鯉吉は、小島郷療養所において和蘭オランダ軍医メールデルホールトの指導をうけ、明治三年一家東京に移るや、渡独して、まずブラウンシュワイク普通医学校に学べり、その後伯林ベルリン大学に転じて、研鑽八ヶ年の後二つの学位をうけ、本年初頭帰朝の予定となりしも、それに先きだち、二年前英人技師クロード・ディグスビイを派遣して、既記の地に本邦未曾有みぞうとも云う大西洋建築を起工せり。と云うは一つに、彼地にてめとりし仏蘭西フランスブザンソンの人、テレーズ・シニヨレにはなむける引手箱なりと云う。すなわち、地域はサヴルーズ谷を模し、本館はテレーズの生家トレヴィーユ荘の城館を写し、もって懐郷の念を絶たんがためなりとぞ。さるにしても、このほど帰国の船中蘭貢ラングーンにおいて、テレーズが再帰熱にて死去したるは哀れとも云うべく、また、皮肉家大鳥文学博士がこの館を指し、中世堡楼の屋根までも剥いで黒死病ペスト死者を詰め込みしと伝えらるる、プロヴィンシア繞壁ぎょうへき模倣を種に、黒死館とあざけりしこそ可笑おかしと云うべし――。
 検事が読み終った時、法水は外出着に着換えて再び現われた。が、またも椅子深く腰を埋めて、折から執拗に鳴り続ける、電話のベルに眉をひそめた。
「あれはたぶん熊城くましろの督促だろうがね。死体は逃げっこないのだから、まずゆっくりするとしてだ。そこで、その後に起った三つの変死事件と、いまだに解し難い謎とされている算哲博士の行状を、君に話すとしよう。帰国後の算哲博士は、日本の大学からも神経病学と薬理学とで二つの学位をうけたのだが、教授生活には入らず、黙々として隠遁的な独身生活を始めたものだ。ここで、僕等が何より注目しなければならないのは、博士がただの一日も黒死館に住まなかったと云うばかりか明治二十三年にはわずか五年しか経たない館の内部に大改修を施したと云う事でつまりディグスビイの設計を根本から修正してしまったのだ。そうして、自分は寛永寺裏に邸宅を構えて、黒死館には弟の伝次郎夫妻を住わせたのだが、その後の博士は、自殺するまでの四十余年をほとんど無風のうちに過したと云ってよかった。著述ですらが、「テュードル家黴毒ばいどく並びに犯罪に関する考察」一篇のみで、学界における存在と云ったら、まずその全部が、あの有名な八木沢医学博士との論争に尽きると云っても過言ではないだろう。それはこうなのだ。明治二十一年に頭蓋鱗様部及び※(「需+頁」、第3水準1-94-6)せつじゅか畸形者の犯罪素質遺伝説を八木沢博士が唱えると、それに算哲博士が駁説を挙げて、その後一年にわたる大論争をき起したのだが、結局人間を栽培する実験遺伝学という極端な結論に行きついてしまって、その成行に片唾かたずませた矢先だった。不思議なことには、二人の間にまるで黙契でも成り立ったかのように、その対立が突如不自然きわまる消失を遂げてしまったのだよ。ところが、この論争とは聯関のないことだが、算哲博士のいない黒死館には、相次いで奇怪な変死事件が起ったのだ。最初は明治二十九年のことで、正妻の入院中愛妾の神鳥かんどりみさほを引き入れた最初の夜に、伝次郎はみさほのために紙切刀かみきりがたなで頸動脈を切断され、みさほもその現場で自殺を遂げてしまったのだ。それから、次は六年後の明治三十五年で、未亡人になった博士とは従妹いとこに当る筆子夫人が、寵愛ちょうあいの嵐鯛十郎という上方役者のためにやはり絞殺されて、鯛十郎もその場去らずに縊死いしを遂げてしまった。そして、この二つの他殺事件にはいっこうに動機と目されるものがなく、いやかえって反対の見解のみが集まるという始末なので、やむなく、衝動性の犯罪として有耶無耶うやむやのうちに葬られてしまったのだよ。ところで、主人を失った黒死館では、一時算哲とは異母姪いぼてつに当る津多子――君も知ってのとおり、現在では東京神恵病院長押鐘おしがね博士の夫人になってはいるが、かつては大正末期の新劇大女優さ――当時三歳にすぎなかったその人をあるじとしているうちに、大正四年になると、思いがけなかった男の子が、算哲の愛妾岩間富枝にみごもったのだ。それがすなわち、現在の当主旗太郎なんだよ。そうして、無風のうちに三十何年か過ぎた去年の三月に、三度動機不明の変死事件が起った。今度は算哲博士が自殺を遂げてしまったのだ」と云って、かたわら書類綴りファイルブックを手繰り寄せ、著名な事件ごとに当局から送ってくる、検屍調書類の中から、博士の自殺に関する記録を探し出した。
「いいかね――」
 ――きずは左第五第六肋骨間を貫き左心室に突入せる、正規の創形を有する短剣刺傷にして、算哲はへやの中央にてそのつかを固く握り締め、扉を足に頭を奥の帷幕たれまくに向けて、仰臥の姿勢にて横たわれり。相貌には、やや悲痛味を帯ぶと思われる痴呆状の弛緩を呈し、現場は鎧扉を閉ざせる薄明の室にして、家人は物音を聴かずと云い、事物にも取り乱されたる形跡なし、なお、上述のもの以外には外傷はなく、しかも、同人が西洋婦人人形を抱きてその室に入りてより、僅々十分足らずのうちに起れる事実なりと云う。その人形と云うは、路易ルイ朝末期の格檣襞トレリ服をつけたる等身人形にして、帷幕の蔭にある寝台上にあり、用いたる自殺用短剣は、その護符刀ならんと推定さる。のみならず、算哲の身辺事情中には、全然動機の所在不明にして、天寿の終りに近き篤学者とくがくしゃが、いかにしてかかる愚挙を演じたるものや、その点すこぶる判断に苦しむところと云うべし――。
「どうだね支倉君、第二回の変死事件から三十余年を隔てていても、死因の推定が明瞭であっても動因がない――という点は、明白に共通しているのだ。だから、そこに潜んでいる眼に見えないものが、今度ダンネベルグ夫人に現われたとは思えないかね」
「それは、ちと空論だろう」と検事はやり込めるような語気で、「二回目の事件で、前後の聯関が完全に中断されている。何とかいう上方役者は、降矢木以外の人間じゃないか」
「そうなるかね。どこまで君には手数が掛るんだろう」と法水は眼で大袈裟おおげさな表情をしたが、「ところで支倉君、最近現われた探偵小説家に、小城魚太郎こしろうおたろうという変り種がいるんだが、その人の近著に『近世迷宮事件考察』と云うのがあって、その中で有名なキューダビイ壊崩録を論じている。ヴィクトリア朝末期に栄えたキューダビイの家も、ちょうど降矢木の三事件と同じ形で絶滅されてしまったのだ。その最初のものは、宮廷詩文正朗読師の主キューダビイが、出仕しようとした朝だった。当時不貞のうわさが高かった妻のアンが、送り出しの接吻をしようとして腕を相手の肩にめぐらすと、やにわに主は短剣を引き抜いて、背後の帷幕とばりに突き立てたのだ。ところが、あけに染んでたおれたのは、長子のウォルターだったので、驚駭きょうがいした主は、返す一撃で自分の心臓を貫いてしまった。次はそれから七年後で、次男ケントの自殺だった。友人から右頬にグラスを投げられて決闘を挑まれたにもかかわらず、不関気しらぬげな顔をしたと云うので、それが嘲笑の的となり、世評を恥じた結果だと云われている。しかし、同じ運命はその二年後にも、一人取り残された娘のジョージアにもめぐってきた。許娘者いいなずけとの初夜にどうしたことか、相手をののしったので、逆上されて新床の上で絞殺されてしまったのだ。それが、キューダビイの最期だったのだよ。ところが小城魚太郎は、とうてい運命説しか通用されまいと思われるその三事件に、科学的な系統を発見した。そして、こういう断定を下している。結論は、閃光的に顔面右半側に起る、グプラー痳痺[#「痳痺」はママ]の遺伝にすぎないという。すなわち主の長子刺殺は、妻の手が右頬に触れても感覚がないので、その手が背後の帷幕とばりの蔭にいる密夫に伸べられたのでないかと誤信した結果であって、そうなると、次男の自殺は論ずるまでもなく、娘もやはりグプラー痳痺[#「痳痺」はママ]のために、愛撫の不満を訴えたためではないかと推断しているのだ。勿論探偵作家にありがちな、得手勝手きわまる空想には違いない。けれども降矢木の三事件には、少なくとも聯鎖を暗示している。それに、小さな窓を切り拓いてくれたことだけは確かなんだよ。しかし遺伝学というのみの狭い領域だけじゃない。あの※(「石+(蒲/寸)」、第3水準1-89-18)ほうはくとしたものの中には、必ず想像もつかぬ怖ろしいものがあるに違いないのだ」
「フム、相続者が殺されたというのなら、話になるがね。しかし、ダンネベルグじゃ……」といったん検事は小首をかしげたけれども、「ところで、今の調書にある人形と云うのは」と問い返した。
「それが、テレーズ夫人の記憶像メモリーさ。博士がコペツキイ一家(ボヘミアの名操人形マリオネット工)に作らせたとかいう等身の自働人形だそうだ。しかし、何より不可解なのは、四重奏団カルテットの四人なんだよ。算哲博士が乳呑児ちのみごのうちに海外から連れて来て、四十余年の間館から外の空気を、一度も吸わせたことがないと云うのだからね」
「ウン、少数の批評家だけが、年一回の演奏会で顔を見ると云うじゃないか」
「そうなんだ。きっと薄気味悪い蝋色の皮膚をしているだろう」と法水も眼を据えて、「しかし、何故に博士が、あの四人に奇怪な生活を送らせたのだろうか、また、四人がどうしてそれに黙従していたのだろう。ところがね、日本の内地ではただそれを不思議がるのみのことで、いっこう突込んだ調査をした者がなかったのだが、偶然四人の出生地から身分まで調べ上げた好事家こうずかを、僕は合衆国で発見したのだ。恐らくこれが、あの四人に関する唯一の資料と云ってもいいだろうと思うよ」そして取り上げたのは、一九〇一年二月号の「ハートフォード福音伝道者エヴァンジェリスト」誌で、それが卓上に残った最後だった。「読んでみよう。著者はファロウという人で、教会音楽の部にある記述なんだが」

 ――所もあろうに日本において、純中世風の神秘楽人が現存しつつあるということは、恐らく稀中の奇とも云うべきであろう[#「云うべきであろう」は底本では「云うべきであるう」]。音楽史を辿ってさえも、その昔シュヴェツィンゲンの城苑において、マンハイム選挙侯カアル・テオドルが、仮面をつけた六人の楽師を養成したという一事に尽きている。ここにおいて予は、その興味ある風説に心惹かれ、種々策を廻らして調査を試みた結果、ようやく四人の身分のみを知ることが出来た。すなわち、第一提琴ヴァイオリン奏者のグレーテ・ダンネベルグは、墺太利オーストリーチロル県マリエンベルグ村狩猟区監督ウルリッヒの三女。第二提琴奏者ガリバルダ・セレナは伊太利イタリーブリンデッシ市鋳金家ガリカリニの六女。ヴィオラ奏者オリガ・クリヴォフは露西亜ロシアコウカサス州タガンツシースク村地主ムルゴチの四女。チェロ奏者オットカール・レヴェズは洪牙利ハンガリーコンタルツァ町医師ハドナックの二男。いずれも各地名門の出である。しかし、その楽団の所有者降矢木算哲博士が、はたしてカアル・テオドルの、豪奢なロココ趣味を学んだものであるかどうか、その点は全然不明であると云わねばならない。

 法水の降矢木家に関する資料は、これで尽きているのだが、その複雑きわまる内容は、かえって検事の頭脳を混乱せしむるのみの事であった。しかし、彼が恐怖の色をうか口誦くちずさんだところの、ウイチグス呪法典という一語のみは、さながら夢の中で見る白い花のように、いつまでもジインと網膜の上にとどまっていた。また一方法水にも、彼の行手に当って、殺人史上空前ともいう異様な死体が横たわっていようとは、その時どうして予知することが出来たであろうか。
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  第一篇 死体と二つの扉を繞って
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    一、栄光の奇蹟[#「一、栄光の奇蹟」は底本では「一栄光の奇蹟」]

 私鉄T線も終点になると、そこはもう神奈川県になっている。そして、黒死館を展望する丘陵までの間は、かしの防風林や竹林が続いていて、とにかくそこまでは、他奇のない北相模さがみの風物であるけれども、いったん丘の上に来てしまうと、俯瞰ふかんした風景が全然風趣を異にしてしまうのだ。ちょうどそれは、マクベスの所領クォーダーのあった――北部蘇古蘭スコットランドそっくりだと云えよう。そこには木も草もなく、そこまで来るうちには、海の潮風にも水分が尽きてしまって、湿り気のない土の表面が灰色に風化していて、それが岩塩のように見え、凸凹した緩斜の底に真黒な湖水みずうみがあろうと云う――それにさも似た荒涼たる風物が、擂鉢の底にある墻壁しょうへきまで続いている。その赭土褐砂しゃどかっさの因をなしたというのは、建設当時移植したと云われる高緯度の植物が、またたく間に死滅してしまったからであった。けれども、正門までは手入れの行届いた自動車路が作られていて、破墻挺崩はしょうていくずしと云われる切り取り壁が出張った主楼の下には、あざみと葡萄の葉文が鉄扉を作っていた。その日は前夜の凍雨の後をうけて、厚い層をなした雲が低く垂れ下り、それに、気圧の変調からでもあろうか、妙に人肌めいた生暖かさで、時折かすかに電光いなずまが瞬き、口小言くちこごとのような雷鳴が鈍く懶気ものうげとどろいてくる。そういう暗澹たる空模様の中で、黒死館の巨大な二層楼は――わけても中央にある礼拝堂の尖塔や左右の塔櫓が、一刷毛はけ刷いた薄墨色の中に塗抹とまつされていて、全体が樹脂やにっぽい単色画モノクロームを作っていた。
 法水のりみずは正門際で車を停めて、そこから前庭の中を歩きはじめた。壁廓の背後には、薔薇ばらを絡ませた低い赤格子の塀があって、その後が幾何学的な構図で配置された、ル・ノートル式の花苑かえんになっていた。花苑を縦横に貫いている散歩路の所々には、列柱式の小亭や水神やサイキあるいは滑稽な動物の像が置かれてあって、赤煉瓦をはすかいに並べた中央の大路を、みどり色の釉瓦くすりがわらで縁取りしている所は、いわゆる矢筈敷ヘリング・ボーンと云うのであろう。そして、本館は水松いちいの刈込垣でめぐらされ、壁廓の四周まわりには、様々の動物の形や頭文字を籬状まがきがたに刈り込んだ、※(「木+單」、第4水準2-15-50)つげや糸杉の象徴トピアリー樹が並んでいた。なお、刈込垣の前方には、パルナス群像の噴泉があって、法水が近づくと、突如奇妙な音響を発して水煙すいえんを上げはじめた。
支倉はぜくら君、これは驚駭噴泉ウォーター・サープライズと云うのだよ。あの音も、また弾丸たまのように水を浴びせるのも、みんな水圧を利用しているのだ」と法水は飛沫しぶきを避けながら、何気なしに云ったけれども、検事はこのバロック風の弄技物から、なんとなく薄気味悪い予感を覚えずにはいられなかった。
 それから法水は、刈込垣の前に立って本館を眺めはじめた。長い矩形に作られている本館の中央は、半円形に突出していて、左右に二条の張出間アプスがあり、その部分の外壁だけは、薔薇色の小さな切石を膠泥モルタルで固め、九世紀風の粗朴な前羅馬様式プレ・ロマネスク・スタイルをなしていた。勿論その部分は礼拝堂に違いなかった。けれども、張出間アプスの窓には、薔薇形窓がアーチ形の格子の中にはまっているのだし、中央の壁画にも、十二宮を描いた彩色硝子ステインド・グラス円華えんげ窓のあるところを見ると、これ等様式の矛盾が、恐らく法水の興味をいたことと思われた。しかし、それ以外の部分は、玄武岩の切石積で、窓は高さ十尺もあろうという二段鎧扉よろいどになっていた。玄関は礼拝堂の左手にあって、もしその打戸環のついた大扉おおとそばに私服さえ見なかったならば、恐らく法水の夢のような考証癖は、いつまでも醒めなかったに違いない。けれども、そのあいだでも、検事が絶えず法水の神経をピリピリ感じていたと云うのは、鐘楼らしい中央の高塔から始めて、奇妙な形の屋窓や煙突が林立している辺りから、左右の塔櫓にかけて、急峻な屋根をひとわたり観察した後に、その視線を下げて、今度は壁面に向けた顔を何度となくあごを上下させ、そういう態度を数回にわたって繰り返したからであって、その様子がなんとなく、算数的に比較検討しているもののように思われたからだった。はたせるかな、この予測は的中した。最初から死体を見ぬにもかかわらず、はや法水は、この館の雰囲気を摸索まさぐってその中から結晶のようなものを摘出していったのであった。
 玄関の突当りが広間になっていて、そこに控えていた老人の召使バトラーが先に立ち、右手の大階段室に導いた。そこの床には、リラと暗紅色の七宝しっぽう模様が切嵌モザイクを作っていて、それと、天井に近い円廊をめぐっている壁画との対照が、中間に無装飾の壁があるだけいっそう引き立って、まさに形容を絶した色彩を作っていた。馬蹄形に両肢を張った階段を上りきると、そこはいわゆる階段廊になっていて、そこから今来た上空に、もう一つ短い階段が伸び、階上に達している。階段廊の三方の壁には、壁面の遙か上方に、中央のガブリエル・マックス作「腑分図ふわけず」を挾んで、左手の壁にジェラール・ダビッドの「シサムネス皮剥死刑の図」、右手の壁面には、ド・トリーの「一七二〇年マルセーユの黒死病ペスト」が、掲げられてあった。いずれも、縦七尺幅十尺以上に拡大摸写した複製画であって、何故かかる陰惨なもののみを選んだのか、その意図がすこぶる疑問に思われるのだった。しかし、そこで法水の眼が素早く飛びついたというのは「腑分図」の前方に正面を張って並んでいる、二基の中世甲冑武者だった。いずれも手に旌旗せいき旆棒はたぼうを握っていて、尖頭から垂れている二様の綴織ツルネーが、画面の上方で密着していた。その右手のものは、クェーカー宗徒の服装をした英蘭土イングランド地主が所領地図を拡げ、手に図面用の英町尺エーカーざしを持っている構図であって、左手のものには、羅馬ローマ教会の弥撒ミサが描かれてあった。その二つとも、上流家庭にはありきたりな、富貴と信仰の表徴シムボルにすぎないのであるから、恐らく法水は看過すると思いのほか、かえって召使バトラーを招き寄せて訊ねた。
「この甲冑武者は、いつもここにあるのかね」
「どういたしまして、昨夜からでございます。七時前には階段の両裾に置いてありましたものが、八時過ぎにはここまで飛び上っておりました。いったい、誰がいたしましたものか?」
「そうだろう。モンテスパン侯爵夫人のクラーニイ荘を見れば判る。階段の両裾に置くのが定法だからね」と法水はアッサリうなずいて、それから検事に、「支倉君、試しに持ち上げて見給え。どうだね、割合軽いだろう。勿論実用になるものじゃないさ。甲冑も、十六世紀以来のものは全然装飾物なんだよ。それも、路易ルイ朝に入ると肉彫の技巧が繊細になって、厚みが要求され、終いには、着ては歩けないほどの重さになってしまったものだ。だから、重量から考えると、無論ドナテルロ以前、さあ、マッサグリアかサンソヴィノ辺りの作品かな」
「オヤオヤ、君はいつファイロ・ヴァンスになったのだね。一口で云えるだろう――抱えて上れぬほどの重量ではないって」と検事は痛烈な皮肉を浴びせてから、「しかし、この甲冑武者が、階下にあってはならなかったのか。それとも、階上に必要だったのだろうか?」
「無論、ここに必要だったのさ。とにかく、三つの画を見給え。疫病・刑罰・解剖だろう。それに、犯人がもう一つ加えたものがある――それが、殺人なんだよ」
「冗談じゃない」検事が思わず眼をみはると、法水もやや亢奮を交えた声でこう云った。
「とりもなおさず、これが今度の降矢木事件の象徴シムボルという訳さ。犯人はこの大旆たいはいを掲げて、陰微のうちに殺戮さつりくを宣言している。あるいは、僕等に対する、挑戦の意志かもしれないよ。だいたい支倉君、二つの甲冑武者が、右のは右手に、左のは左手に旌旗の柄を握っているだろう。しかし、階段の裾にある時を考えると、右の方は左手に、左の方は右手に持って、構図から均斉を失わないのが定法じゃないか。そうすると、現在の形は、左右を入れ違えて置いたことになるだろう。つまり、左の方から云って、富貴の英町旗エーカーばた――信仰の弥撒旗ミサばたとなっていたのが、逆になったのだから……そこに怖ろしい犯人の意志が現われてくるんだ」
「何が?」
「Mass(弥撒ミサ)と acre(英町エーカー)だよ。続けて読んで見給え。信仰と富貴が、Massacreマッサカー――虐殺に化けてしまうぜ」と法水は検事が唖然としたのを見て、「だが、恐らくそれだけの意味じゃあるまい。いずれこの甲冑武者の位置から、僕はもっと形に現われたものを発見みつけ出すつもりだよ」と云ってから、今度は召使バトラーに、「ところで、昨夜七時から八時までの間に、この甲冑武者について目撃したものはなかったかね」
「ございません。生憎あいにくとその一時間が、私どもの食事に当っておりますので」
 それから法水は、甲冑武者を一基一基解体して、その周囲は、画図と画図との間にある龕形がんけいの壁灯から、旌旗の蔭になっている、「腑分図」の上方までも調べたけれど、いっこうに得るところはなかった。画面のその部分も背景のはずれ近くで、様々の色の縞が雑然と配列しているにすぎなかった。それから、階段廊を離れて、上層の階段を上って行ったが、その時何を思いついたのか、法水は突然奇異ふしぎな動作を始めた。彼は中途まで来たのを再び引き返して、もと来た大階段の頂辺てっぺんに立った。そして、衣嚢かくしから格子紙セクションの手帳を取り出して、階段の階数をかぞえ、それに何やら電光形ジグザグめいた線を書き入れたらしい。さすがこれには、検事も引き返さずにはいられなかった。
「なあに、ちょっとした心理考察をやったまでの話さ」と階上の召使バトラーはばかりながら、法水は小声で検事の問いに答えた。「いずれ、僕に確信がついたら話すことにするが、とにかく現在いまのところでは、それで解釈する材料が何一つないのだからね。単にこれだけのことしか云えないと思うよ。先刻さっき階段を上って来る時に、警察自動車らしいエンジンの爆音が玄関の方でしたじゃないか。するとその時、あの召使バトラーは、そのけたたましい音響に当然消されねばならない、ある微かな音を聴くことが出来たのだ。いいかね、支倉君、普通の状態ではとうてい聴くことの出来ない音をだよ」
 そういうはなはだしく矛盾した現象を、法水はいかにして知ることが出来たのだろうか? しかし、彼はそれに附け加えて、そうは云うものの、あの召使バトラーには毫末ごうまつの嫌疑もない――といって、その姓名さえも聞こうとはしないのだから、当然結論の見当が茫漠となってしまって、この一事は、彼が提出した謎となって残されてしまった。
 階段を上りきった正面には、廊下を置いて、岩乗な防塞を施した一つのへやがあった。鉄柵扉の後方に数層の石段があって、その奥には、金庫扉きんことらしい黒漆こくしつがキラキラ光っている。しかし、その室が古代時計室だということを知ると、収蔵品の驚くべき価値を知る法水には、一見莫迦気ばかげて見える蒐集家の神経をうなずくことが出来た。廊下はそこを基点に左右へ伸びていた。一劃ごとに扉が附いているので、その間は隧道トンネルのような暗さで、昼間でもがんの電燈がともっている。左右の壁面には、泥焼テルラコッタの朱線が彩っているのみで、それが唯一の装飾だった。やがて、右手にとった突当りを左折し、それから、今来た廊下の向う側に出ると、法水の横手には短い拱廊そでろうかが現われ、その列柱の蔭に並んでいるのが、和式の具足類だった。拱廊の入口は、大階段室のまる天井の下にある円廊に開かれていて、その突当りには、新しい廊下が見えた。入口の左右にある六弁形の壁燈を見やりながら、法水が拱廊の中に入ろうとした時、何を見たのか愕然ぎょっとしたように立ち止った。
「ここにもある」と云って、左側の据具足すえぐそく鎧櫃よろいびつの上に据えたもの)の一列のうちで、一番手前にあるものを指差した。その黒毛三枚鹿角立つのだちかぶとを頂いた緋縅錣ひおどししころ[#ルビの「ひおどししころ」は底本では「ひおどしころ」]の鎧に、何の奇異ふしぎがあるのであろうか。検事はなかば呆れ顔に反問した。
「兜が取り換えられているんだ」と法水は事務的な口調で、「向う側にあるのは全部吊具足つりぐそく(宙吊りにしたもの)だが、二番目の鞣革なめしがわ胴の安鎧に載っているのは、しころを見れば判るだろう。あれは、位置の高い若武者が冠る獅子噛台星前立脇細鍬ししがみだいほしまえだてわきほそぐわという兜なんだ。また、こっちの方は、黒毛の鹿角立という猛悪なものが、優雅な緋縅ひおどしの上に載っている。ねえ支倉君、すべて不調和なものには、よこしまな意志が潜んでいるとか云うぜ」と云ってから召使バトラーにこの事を確かめると、さすがに驚嘆の色をうかべて、
「ハイ、さようでございます。昨夕までは仰言おっしゃったとおりでございましたが」と躊躇ちゅうちょせずに答えた。
 それから、左右に幾つとなく並んでいる具足の間を通り抜けて、向うの廊下に出ると、そこは袋廊下の行き詰りになっていて、左は、本館の横手にある旋廻階段のテラスに出る扉。右へ数えて五つ目が現場のへやだった。部厚な扉の両面には、古拙な野生的な構図で、耶蘇イエス佝僂せむしを癒やしている聖画が浮彫になっていた。その一重の奥に、グレーテ・ダンネベルグが死体となって横たわっているのだった。
 扉が開くと、後向きになった二十三、四がらみの婦人を前に、捜査局長の熊城くましろが苦りきって鉛筆の護謨ゴムを噛んでいた。二人の顔を見ると、遅着をとがめるように、まなじりを尖らせたが、
「法水君、仏様ならあの帷幕とばりの蔭だよ」といかにも無愛想に云い放って、その婦人に対する訊問も止めてしまった。しかし、法水の到着と同時に、早くも熊城が、自分の仕事を放棄してしまったのと云い、時折彼の表情の中に往来する、放心とでも云うような鈍い弛緩の影があるのを見ても、帷幕の蔭にある死体が、彼にどれほどの衝撃を与えたものか――さして想像に困難ではなかったのである。
 法水は、まずそこにいる婦人に注目を向けた。愛くるしい二重あごのついた丸顔で、たいして美人と云うほどではないが、つぶらな瞳と青磁に透いて見える眼隈と、それから張ち切れそうな小麦色の地肌とが、素晴らしく魅力的だった。葡萄色のアフタヌーンを着て、自分の方から故算哲博士の秘書紙谷伸子かみたにのぶこと名乗って挨拶したが、その美しい声音こわねに引きかえ、顔は恐怖に充ち土器色に変っていた。彼女が出て行ってしまうと、法水は黙々と室内を歩きはじめた。そのへやは広々とした割合に薄暗く、おまけに調度が少ないので、ガランとして淋しかった。床の中央には、大魚の腹中にある約拿ヨナを図案化したコプト織の敷物が敷かれ、その部分の床は、色大理石とはぜの木片を交互に組んだ車輪模様の切嵌モザイク。そこを挾んで、両辺の床から壁にかけ胡桃くるみかしの切組みになっていて、その所々に象眼をちりばめられ、渋い中世風の色沢が放たれていた。そして、高い天井からは、木質も判らぬほどに時代の汚斑が黒く滲み出ていて、その辺から鬼気とでも云いたい陰惨な空気が、静かによどみ下ってくるのだった。扉口とぐちは今入ったのが一つしかなく、左手には、横庭に開いた二段鎧窓が二つ、右手の壁には、降矢木家の紋章を中央に刻み込んである大きな壁炉かべろが、数十個の石材で畳み上げられてあった。正面には、黒い天鵞絨びろうど帷幕とばりが鉛のように重く垂れ、なお扉から煖炉に寄った方の壁側には、三尺ほどの台上に、裸体の傴僂せむしと有名な立法者スクライブ埃及エジプト彫像)の跏像かぞうとが背中合せをしていて、窓際寄りの一劃は高い衝立ついたてで仕切られ、その内側に、長椅子と二、三脚の椅子卓子テーブルが置かれてあった。隅の方へ行って人群から遠ざかると、古くさいかびの匂いがプーンと鼻孔をいてくる。煖炉棚マントルピースの上には埃が五ほども積っていて、帷幕に触れると、むせっぽい微粉が天鵞絨の織目から飛び出してきて、それが銀色に輝き、飛沫しぶきのように降り下ってくるのだった。一見して、このへやが永年の間使われていないことが判った。やがて、法水は帷幕を掻き分けて内部を覗き込んだが、その瞬間あらゆる表情が静止してしまって、これも背後から、反射的に彼の肩を掴んだ検事の手があったのも知らず、またそれから波打つような顫動せんどうが伝わってくるのも感ぜずに、ひたすら耳が鳴り顔が火のようにほてって、彼の眼前にある驚くべきもの以外の世界が、すうっとどこかへ飛び去って行くかのように思われた。
 見よ! そこに横たわっているダンネベルグ夫人の死体からは、きよらかな栄光が燦然さんぜんと放たれているのだ。ちょうど光の霧に包まれたように、表面から一すんばかりの空間に、澄んだ青白い光が流れ、それが全身をしっくりと包んで、陰闇の中から朦朧もうろうと浮き出させている。その光には、冷たい清冽な敬虔な気品があって、また、それにぼっとした乳白ミルク色の濁りがあるところは、奥底知れない神性の啓示でもあろうか。醜い死面の陰影は、それがために端正な相に軟げられ、実に何とも云えない静穏なムードが、全身を覆うているのだ。その夢幻的な、荘厳なものの中からは、天使の吹く喇叭らっぱの音が聴えてくるかもしれない。今にも、聖鐘の殷々いんいんたる響が轟きはじめ、その神々しい光が、今度は金線と化して放射されるのではないかと思われてくると、――ああ、ダンネベルグ夫人はその童貞を讃えられ、最後の恍惚こうこつ境において、聖女として迎えられたのであろうか――と、知らず知らず洩れ出てくる嘆声を、果てはどうすることも出来なくなってしまうのだった。しかし、同時にその光は、そこに立ちならんでいる、阿呆のような三つの顔も照していた。法水もようやくわれにかえって調査を始めたが、鎧窓を開くと、その光は薄らいでほとんど見えなかった。死体の全身はコチコチに硬直していて、すでに死後十時間は十分経過しているものと思われたが、さすが法水は動ぜずに、あくまで科学的批判を忘れなかった。彼は口腔内にも光があるのを確かめてから、死体をうつ向けて、背に現われている鮮紅色の屍斑を目がけ、グサリと小刀ナイフの刃を入れた。そして、死体をやや斜めにすると、ドロリと重たげに流れ出した血液で、たちまち屍光にぼっと赤らんだ壁が作られ、それがまるで、割れた霧のように二つに隔てられてゆき、その隙間に、ノタリノタリと血がのたくってゆく影がしるされていった。検事も熊城も、とうていこの凄惨な光景を直視することは出来なかった。
「血液には光はない」と法水は死体から手を離すと、憮然ぶぜんとしてつぶやいた。「今のところでは、なんと云っても奇蹟と云うよりほかにないだろうね。外部から放たれているものでないことは、とうに明らかなんだし、燐の臭気はないし、ラジウム化合物なら皮膚に壊疽えそが出来るし、着衣にもそんな跡はない。まさしく皮膚から放たれているんだ。そして、この光には熱も匂いもない。いわゆる冷光なんだよ」
「すると、これでも毒殺と云えるのか?」と検事が法水に云うのを、熊城が受けて、
「ウン、血の色や屍斑を見れば判るぜ。明白な青酸中毒なんだ。だが法水君、この奇妙な文身いれずみのような創紋はどうして作られたのだろうか? これこそ、奇をたしなみ変異に耽溺たんできする、君の領域じゃないか」と剛愎ごうふくな彼に似げない自嘲めいたえみを洩らすのだった。
 実に、怪奇な栄光に続いて、法水を瞠目どうもくせしめた死体現象がもう一つあったのだ。ダンネベルグ夫人が横たわっている寝台は、帷幕とばりのすぐ内側にあって、それは、松毬形まつかさがた頂花たてばなを頭飾にし、その柱の上に、レースの天蓋をつけた路易ルイ朝風の桃花木マホガニー作りだった。死体は、そのほとんど右はずれに俯臥うつむけの姿勢で横たわり、右手は、背の方へじ曲げたように甲をしりの上に置き、左手は寝台から垂れ下っていた。銀色の髪毛を無雑作に束ねて、黒い綾織の一重服をまとい、鼻先が上唇まで垂れ下って猶太ユダヤ式の人相をしているこの婦人は、顔をSの字なりに引ん歪め、実に滑稽な顔をして死んでいた。しかし不思議と云うのは、両側の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに現われている、紋様状の切りきずだった。それがちょうど文身いれずみの型取りみたいに、細い尖鋭な針先でスウッと引いたような――表皮だけを巧妙にそいだ擦切創さっせつそうとでもいう浅い傷であって、両側ともほぼ直径一寸ほどの円形を作っていて、その円の周囲には、短い線条が百足むかでの足のような形で群生している。創口には、黄ばんだ血清が滲み出ているのみであるが、そういう更年期婦人の荒れ果てた皮膚に這いずっているものは、凄美などという感じよりかも、むしろ、乾燥ひからびた蟯蟲ぎょうちゅうの死体のようでもあり、また、不気味な鞭毛蟲が排泄する、長い糞便のようにも思われるのだった。そして、その生因が、はたして内部にあるのか外部にあるのか――その推定すら困難なほどに、難解をきわめたものだった。しかし、その凄惨な顕微鏡ミクロ模様から離れた法水の眼は、期せずして検事の視線と合した。そして、暗黙のうち、ある慄然りつぜんとしたものを語り合わねばならなかった。なんとなれば、その創の形が、まさしく降矢木家の紋章の一部をつくっている、フィレンツェ市章の二十八葉橄欖冠にほかならないからであった。
二十八葉橄欖冠の図

    二、テレーズわれを殺せり

「どう見ても、僕にはそうとしか思えない」と検事は何度もどもりながら、熊城くましろに降矢木家の紋章を説明した後で、「何故犯人は、息の根を止めただけでは足らなかったのだろうね。どうしてこんな、得体の判らぬ所作しぐさまでもしなければならなかったのだろう?」
「ところがねえ支倉はぜくら君」と法水のりみずは始めてたばこを口にくわえた。「それよりも僕は、いま自分の発見に愕然がくっとしてしまったところさ。この死体は、彫り上げた数秒後に絶命しているのだよ。つまり、死後でもなく、また、服毒以前でもないのだがね」
「冗談じゃないぜ」と熊城は思わず呆れ顔になって、「これが即死でないのなら、一つ君の説明をうけたまわろうじゃないか」といきり立つのを、法水は駄々児を諭すような調子で、
「ウン、この事件の犯人たるや、いかにも神速陰険で、兇悪きわまりない。しかし、僕の云う理由はすこぶる簡単なんだ。だいたい君が、強度の青酸シヤン中毒というものをあまり誇張して考えているからだよ。呼吸筋は恐らく瞬間に痳痺[#「痳痺」はママ]してしまうだろうが、心臓が全く停止してしまうまでには、少なくとも、それから二分足らずの時間はあると見て差支えない。ところが、皮膚の表面に現われる死体現象と云うのは、心臓の機能が衰えると同時に現われるものなんだがね」そこでちょっと言葉を切って、まじまじと相手をみつめていたが、「それが判れば、僕の説に恐らく異議はないと思うね。ところで、このきずは巧妙に表皮のみを切り割っている。それは、血清だけが滲み出ているのを見ても、明白な事実なんだが、通例生体にされた場合だと、皮下に溢血いっけつが起って創の両側が腫起してこなければならない――いかにも、この創口にはその歴然としたものがあるのだ。ところが、がれた割れ口を見ると、それに痂皮かひが出来ていない。まるで透明な雁皮がんぴとしか思われないだろう。が、この方は明らかな死体現象なんだよ。しかしそうなると、その二つの現象が大変な矛盾をひき起してしまって、創がつけられた時の生理状態に、てんで説明がつかなくなってしまうだろう。だから、その結論の持って行き場は、爪や表皮がどういう時期に死んでしまうものか、考えればいい訳じゃないか」
 法水の精密な観察が、かえって創紋の謎を深めた感があったので、その新しい戦慄せんりつのために、検事の声は全く均衡を失っていた。
「万事剖見を待つとしてだ。それにしても、屍光のような超自然現象を起しただけで飽き足らずに、その上降矢木の烙印やきいんを押すなんて……。僕には、この清浄な光がひどく淫虐的ザディスティッシュに思えてきたよ」
「いや、犯人はけっして、見物人をしがっちゃいないさ。君がいま感じたような、心理的な障害を要求しているんだ。どうして彼奴あいつが、そんな病理的な個性なもんか。それに、まったくもって創造的だよ。だがそれをハイルブロンネルに云わせると、一番淫虐的で独創的なものを、小児こどもだと云うがね」と法水は暗く微笑ほほえんだが、「ところで熊城君、死体の発光は何時頃からだね」と事務的な質問を発した。
「最初は、卓子灯スタンドが点いていたので判らなくなったのだ。ところが、十時頃だったが、ひととおり死体の検案からこの一劃の調査が終ったので、鎧扉を閉じて卓子灯スタンドを消すと……」と熊城はグビッとつばみ込んで、「だから、家人は勿論のことだが、係官の中にも知らないものがあるという始末だよ。ところで、今まで聴取しておいた事実を、君の耳に入れておこう」と概略の顛末を語りはじめた。
「昨夜家内中である集会を催して、その席上でダンネベルグ夫人が卒倒した――それがちょうど九時だったのだ。それからこのへやで介抱することになって、図書掛りの久我鎮子くがしずこと給仕長の川那部易介かわなべえきすけが徹宵附添っていたのだが、十二時頃被害者が食べた洋橙オレンジの中に、青酸加里が仕込まれてあったのだよ。現に、口腔くちの中に残っている果肉の噛滓かみかすからも、多量の物が発見されているし、何より不思議な事には、それが、最初口に入れた一房にあったのだ。だから、犯人は偶然最初の一発で、的の黒星を射当てたと見るよりほかになかろうと思うね。他の果房ふさはこのとおり残っていても、それには、薬物の痕跡がないのだよ」
「そうか、洋橙オレンジ※(感嘆符疑問符、1-8-78)」と法水は、天蓋の柱をかすかに揺ぶってつぶやいた。「そうすると、もう一つ謎がふえた訳だよ。犯人には、毒物の知識が皆無だという事になるぜ」
「ところが、使用人のうちには、これという不審な者はいない。久我鎮子も易介も、ダンネベルグ夫人が自分で果物皿の中から撰んだと云っている。それに、このへやは十一時半頃に鍵を下してしまったのだし、硝子窓も鎧扉もきのこのようにさびがこびり付いていて、外部から侵入した形跡は勿論ないのだよ。しかし妙な事には、同じ皿の上にあった梨の方が、夫人にとると、はるかより以上の嗜好物だそうなんだ」
「なに、鍵が?」と検事は、それと創紋との間に起った矛盾に、愕然がくぜんとした様子だったけれども、法水は依然熊城から眼を離さず、突慳貪つっけんどんに云い放った。
「僕はけっして、そんな意味で云っていやしない。青酸に洋橙オレンジという痴面どうけめんを被せているだけに、それだけ、犯人の素晴らしい素質が怖ろしくなってくるのだ。考えても見給え。あれほど際立った異臭や特異な苦味のある毒物を、驚くじゃないか、致死量の十何倍も用いている。しかも、その仮装迷彩カムフラージュに使っているのが、そういう性能のきわめて乏しい洋橙オレンジときているんだ。ねえ、熊城君、それほど稚拙もはなはだしい手段が、どうしてこんな魔法のような効果を収めたのだろうか。何故なぜダンネベルグ夫人は、その洋橙オレンジのみに手を伸ばしたのだろうか。つまり、その驚くべき撞着たるやが、毒殺者の誇りなんだ。まさに彼等にとれば、ロムバルジア巫女ストリゲスの出現以来、永生不滅の崇拝物トーテムなんだよ」
 熊城は呆気にとられたが、法水は思い返したように訊ねた。
「それから、絶命時刻は?」
「今朝八時の検屍で死後八時間と云うのだから、絶命時刻も、洋橙オレンジを食べた刻限じこくとピッタリ符合している。発見は暁方の五時半で、それまで附添は二人ともに、変事を知らなかったのだし、また、十一時以後は誰もこのへやに入った者がなかったと云うのだし、家族の動静もいっさい不明だ。で、その洋橙オレンジが載っていた、果物皿と云うのがこれなんだがね」
 そう云って熊城は、寝台の下から銀製の大皿を取り出した。直径が二尺近い盞形さかずきがたをしたもので、外側には露西亜ルッソビザンチン特有の生硬な線で、アイ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ソウフスキーの匈奴フン馴鹿トナカイ狩の浮彫が施されていた。皿の底には、空想化された一匹の爬蟲類が逆立さかだちしていて、頭部と前肢まえあしが台になり、刺の生えた胴体がの字なりに彎曲して、後肢あとあしと尾とで皿を支えている。そして、そのくの字の反対側には、半円形の把手にぎりが附いていた。その上にある梨と洋橙オレンジは全部二つに截ち割られていて、鑑識検査の跡が残されているが、無論毒物は、それ等の中にはなかったものらしい。しかし、ダンネベルグ夫人をたおした一つには、際立った特徴が現われていた。それが、他にある洋橙オレンジとは異なり、いわゆるだいだい色ではなくて、むしろ熔岩ラヴァ色とでもいいたいほどに赤味の強い、大粒のブラッド・オレンジだった。しかも、そのあか黒く熟れ過ぎているところを見ると、まるでそれが、凝固しかかった血糊のように薄気味悪く思われるのであるが、その色は妙に神経をそそるのみのことで、勿論推定の端緒いとぐちを引き出すものではなかった。そして、へたのないところから推して、そこから泥状の青酸加里が注入されたものと推断された。
 法水は果物皿から眼を離して、室内を歩きはじめた。帷幕とばり区劃くぎられているその一劃は、前方の室といちじるしく趣を異にしていて、壁は一帯に灰色の膠泥モルタルで塗られ、床には同じ色で、無地の絨毯じゅうたんが敷かれてあって、窓は前室のよりもやや小さく、幾分上方に切られてあるので、内部ははるかに薄暗かった。灰色の壁と床、それに黒い帷幕とばり――と云えば、その昔ゴードゥン・クレイグ時代の舞台装置を想い出すけれども、そういう外見生動に乏しい基調色が、なおいっそうこの室を沈鬱なものにしていた。ここもやはり、前室と同様荒れるに任せていたらしく、歩くにつれて、壁の上方から層をなした埃がり落ちてくる。室内の調度は、寝台の側に大酒甕さけがめ形の立卓笥キャビネットがあるのみで、その上には、芯の折れた鉛筆をつけたメモと、被害者がる時に取り外したらしい近視二十四度の鼈甲べっこう眼鏡、それに、描き絵の絹シェードをつけた卓子灯スタンドとが載っていた。近視鏡もその程度では、ただ輪廓がぼっとするのみのことで、事物の識別はほとんど明瞭につくはずであるから、それには一顧する価値もなかった。法水は、画廊の両壁を観賞してゆくような足取りで、ゆったり歩を運んでいたが、その背後から検事が声をかけた。
「やはり法水君、奇蹟は自然のあらゆる理法の彼方にあり――かね」
「ウン、判ったのはこれだけだよ」と法水は味のない声を出した。「まるで犯人はテルみたいに、たった一矢で、き出しよりも酷い青酸を、相手の腹の中へち込んでいるだろう。つまり、その最終の結論に達するまでに、光と創紋を現わすものが必要だったという事だ。云わばあの二つと云うのは、犯行を完成させるための補強作用であって、その道程に欠いてはならぬ、深遠な学理だとみて差支えない」
「冗談じゃない。あまり空論も度が過ぎるぜ」と熊城は呆れ返って横槍を入れたが、法水は平然と奇説を続けた。
「だって、鍵を下した室内に侵入して来て、一、二分のうちに彫らねばならない。そうなると、クライルじゃないがね。無理でも不思議な生理を目指すより仕方があるまい。それに、疑問はまだ、後へねじれたような右手の形にも、それから、右肩にある小さな鉤裂きにもあるのだ」
「いや、そんなことはどうでもいいんだ」熊城は吐きだすように、「腹ん這いで洋橙オレンジみ込んで、瞬間無抵抗になる――たった、それだけの話なんだよ」
「ところがねえ熊城君、アドルフ・ヘンケの古い法医学書を見ると、一人の淫売婦が、腕を身体の下にかって横向きになった姿勢のままで毒を仰いだのだが、瞬間の衝撃ショックくらうと、かえってしびれた方の腕が動いて、びんを窓から河の中へ投げ捨てたと云う面白い例が載っているぜ。だから一応は、最初の姿体を再現してみる必要があると思うね。それから死体の光は、アヴリノの『聖僧奇蹟集』などに……」
「なるほど、坊主なら、人殺しに関係あるだろう」と熊城は露骨に無関心を装ったが、急に神経的な手附になって、衣嚢かくしから何やら取り出そうとした。法水は振り向きもせず、背後に声を投げて、
「ところで熊城君、指紋は?」
「説明のつくものなら無数にある。それに、昨夜この空室あきしつに被害者を入れた時だが、その時寝台の掃除と、床だけに真空掃除器を使ったというからね。生憎あいにく足跡といっては何もない始末だ」
「フム、そうか」そういって法水が立ち止ったのは、突当りの壁前へきぜんだった。そこには、さしずめ常人ならば、顔あたりに相当する高さで、最近何か、がく様のものを取り外したらしい跡が残ってい、それがきわめて生々しくしるされてあった。ところがそこから折り返してもとの位置に戻ると、法水は卓子灯スタンドの中に何を認めたものか、不意いきなり検事を振り向いて、
「支倉君、窓を閉めてくれ給え」と云った。
 検事はキョトンとしたが、それでも、彼のいうとおりにすると、法水は再び死体の妖光を浴びながら、卓子灯スタンドに点火した。そうなって初めて検事に判ったのは、その電球が、昨今はほとんど見られない炭素カーボン球だと云う事で、恐らく急場に間に合わせた調度類が、永らくしまわれていたものであろうと想像された。法水の眼はそのあかっ茶けた光の中で、シェードの描く半円をしばらく追うていたが、いま額の跡を見付けたばかりの壁から一尺ほど手前の床に、何やらしるしをつけると、へやは再びもとに戻って、窓から乳色の外光が入って来た。検事は窓の方へ溜めていた息をフウッと吐き出して、
「いったい、何を思いついたんだ?」
「なにね、僕の説だってその実グラグラなんだから、試しに、眼で見えなかった人間を作り上げようとしたところさ」と法水は気紛きまぐれめいた調子で云ったが、その語尾をすくい上げるような語気とともに、熊城は一枚の紙片を突き出した。
「これで、君の謬説びゅうせつが粉砕されてしまうんだ。なにも苦しんでまで、そんな架空なものを作り上げる必要はないさ。見給え。昨夜ゆうべこのへやには、事実想像もつかない人物が忍んでいたのだ。それを洋橙オレンジを口に含んだ瞬間に知って、ダンネベルグ夫人が僕等に知らそうとしたのだよ」
 その紙片の上に書かれてある文字を見て、法水はギュッと心臓をつかまれたような気がした。検事は、むしろ呆れたように叫んだ。
「テレーズ! これは自働人形じゃないか」
「そうなんだよ。これにあの創紋を結びつけたなら、よもや幻覚とは云われんだろう」と熊城も低く声をふるわせた。「実は、寝台の下に落ちていたんだが、それをこのメモと引合わせてみて、僕は全身が慄毛そうげ立った気がした。犯人はまさしく人形を使ったに違いないのだ」
 法水は相変らず衝動的な冷笑主義シニシズムを発揮して、
「なるほど、土偶人形に悪魔学デモノロジイか――犯人は、人類の潜在批判をねらっているんだ。だが、珍しく古風な書体だな。まるで、半大字形アイリッシュ波斯文字ネスキーみたいだ。でも君は、これが被害者の自署だという証明を得ているのかい?」
「無論だとも」熊城は肩を揺ぶって、「実は、君達が来た時にいたあの紙谷かみたに伸子という婦人が、僕にとると最後の鑑定者だったのだ。で、ダンネベルグ夫人の癖と云うのはこうなんだ。鉛筆の中ほどを、小指と薬指との間に挾んで、それを斜めにしたのを、拇指おやゆびと人差指とではさんで書くそうだがね。そういった訳で、夫人の筆蹟はちょっと真似られんそうだよ。それに、このかすれ具合が、鉛筆の折れた尖とピッタリ符合している」
 検事はブルッと胴慄いして、
「怖ろしい死者の曝露ばくろじゃないか。それでも法水君、君は?」
「ウム、どうしても人形と創紋を不可分に考えなけりゃならんのかな」と法水も浮かぬ顔でつぶやいた。
「このへやがどうやら密室くさいので、出来ることなら幻覚と云いたいところさ。けれども、現実の前には、段々とその方へ引かれて行ってしまうよ。いやかえって人形を調べてみたら、創紋の謎を解くものが、その機械装置からでも掴めるかもしれない。何にしても、こう立て続けに、真暗な中で異妖な鬼火ばかり見せられているのだからね。光なら、どんな微かなものでも欲しい矢先じゃないか。とにかく、家族の訊問は後にして、とりあえず人形を調べることにしよう」
 それから人形のあるへやへ行くことになって、私服に鍵を取りにやると、間もなくその刑事は昂奮して戻って来た。
「鍵が紛失しているそうです、それに薬物室のも」
「やむを得なけりゃ叩き破るまでのことだ」と法水は決心の色をうかべて、「だが、そうなると、調べる室が二つ出来てしまったことになる」
「薬物室もか」今度は検事が驚いたように云った。「だいたい青酸加里なんて、小学生の昆蟲採集箱の中にもあるものだぜ」
 法水はかまわず立ち上ってドアの方へ歩みながら、
「それがね、犯人の智能検査なんだよ。つまり、その計画の深さを計るものが、鍵の紛失した薬物室に残されているように思われるんだ」
 テレーズ人形のあるへやは、大階段の後方に当る位置で、間に廊下を一つ置き、ちょうど「腑分図」の真後にあたる、袋廊下の突当りだった。扉の前に来ると、法水は不審な顔をして、眼前の浮彫をみつめだした。
「この扉のは、ヘロデ王ベテレヘム嬰児えいじ虐殺之図と云うのだがね。これと、死体のある室の、傴僂せむし治療之図の二枚は、有名なオットー三世福音書の中にある插画なんだよ。そうなると、そこに何か脈絡でもあるのかな」と小首をかしげながら、試みにドアを押したが、それは微動さえもしなかった。
「尻込みすることはない。こうなれば、叩き破るまでのことさ」熊城が野生的な声を出すと、法水は急に遮り止めて、
「浮彫を見たので、急に勿体なくなったよ。それに、響で跡を消すといかんから、下の方の板をそっと切り破ろうじゃないか」
 やがて、扉の下方に空けられた四角の穴からもぐり込むと、法水は懐中電燈を点じた。円い光に映るものは壁面と床だけで何一つ家具らしいものさえ、なかなかに現われ出てはこない。が、そのうち右辺みぎばたからかけて室を一周し終ろうとする際に、思いがけなくも、法水のすぐ横手――ドアから右寄りの壁に闇が破れた。そして、そこからフウッと吹き出した鬼気とともに、テレーズ・シニヨレの横顔が現われたのであった。面の恐怖と云えば誰しも経験することだが、たとえば、白昼でも古い社の額堂を訪れて、破風はふの格子扉に掲げている能面を眺めていると、まるで、全身を逆さに撫で上げられるような不気味な感覚に襲われるものだ。まして、この事件に妖異な雰囲気をかもし出した当のテレーズが、荒れすすけた室の暗闇の中から、ぼうっと浮き出たのであるから、その瞬間、三人がハッとして息をめたのも無理ではなかった。窓に微かな閃光がきらめいて、鎧扉よろいどの輪廓が明瞭に浮び上ると、遠く地動のような雷鳴が、おどろと這い寄って来る。そうした凄愴せいそうな空気の中で、法水は凝然とまなこを見据え、眼前の妖しい人型ひとがたみつめはじめた――ああ、この死物しぶつの人形が森閑とした夜半の廊下を。
 開閉器スイッチの所在が判って、室内が明るくなった。テレーズの人形は身長みのたけ五尺五、六寸ばかりの蝋着せ人形で、格檣トレリス型の層襞そうへきを附けた青藍色のスカートに、これも同じ色の上衣フロックを附けていた。像面からうける感じは、愛くるしいと云うよりも、むしろ異端的な美しさだった。半月形をしたルーベンス眉や、唇の両端が釣り上ったいわゆる覆舟口ふくしゅうこうなどと云うのは、元来淫らな形とされている。けれども、妙にこの像面では鼻の円みと調和していて、それが、とろけ去るような処女の憧憬しょうけいを現わしていた。そして、精緻な輪廓に包まれ、捲毛の金髪を垂れているのが、トレヴィーユ荘の佳人テレーズ・シニヨレの精確な複製だったのである。光をうけた方の面は、今にも血管が透き通ってでも見えそうな、いかにも生々しい輝きであったが、巨人のような体躯たいくとの不調和はどうであろうか。安定を保つために、肩から下が恐ろしく大きく作られていて、足蹠あしひらのごときは、普通人の約三倍もあろうと思われる広さだった。法水は考証気味な視線を休めずに、
「まるで騎士埴輪ゴーレムくろがねの処女としか思われんね、これがコペツキーの作品だと云うそうだが、さあプラーグと云うよりも、体躯の線は、バーデンバーデンのハンスヴルスト(独逸の操人形)に近いね。この簡素な線には、他の人形には求められない無量の神秘がある。算哲博士が本格的な人形師に頼まないで、これを大きな操人形マリオネットに作ったのは、いかにもあの人らしい趣味だと思うよ」
「人形の観賞は、いずれゆっくりやってもらうことにしてだ」と熊城は苦々しげに顔をしかめたが、「それより法水君、鍵が内側から掛っているんだぜ」
「ウン驚くべきじゃないか。しかし、まさかに犯人の意志で、この人形が遠感的テレパシックに動いたという訳じゃあるまい」鍵穴に突き込まれている飾付の鍵を見て、検事は慄然りつぜんとしたらしかったが、足許から始めて、床の足型を追いはじめた。跡方もなく入り乱れている、扉口から正面の窓際にかけての床には、大きな扁平な足型で、二回往復した四条よすじの跡が印されていて、それ以外には、扉口とぐちから現在人形のいる場所に続いている一条ひとすじのみだった。しかし、何より驚かされたのは、肝腎の人間のものがないということだった。検事が頓狂な声をあげると、それを、法水は皮肉にわらい返して、
「どうも頼りないね。最初犯人が人形の歩幅どおりに歩いて、その上を後で人形に踏ませる。そうしたら、自分の足跡を消してしまうことが出来るじゃないか。そして、それから以後の出入は、その足型の上を踏んで歩くのだ。しかし、昨夜ゆうべこの人形のいた最初の位置が、もし扉口でなかったとしたら、昨夜はこのへやから、一歩も外へ出なかったと云うことが出来るのだよ」
「そんな莫迦気ばかげた証跡が」熊城は癇癪かんしゃくを抑えるような声を出して、「いったいどこで足跡の前後が証明されるね?」
「それが、洪積期の減算ひきざんなんだよ」と法水もやり返して、「と云うのは、最初の位置が扉口でないとすると、四条の足跡に、一貫した説明がつかなくなってしまうからだ。つまり、扉口から窓際に向っている二条にじょうのうちの一つが、一番最後にあまってしまうのだよ。で仮りに、最初、人形が窓際にあったとして、まず犯人の足跡を踏みながら室を出て行き、そして再び、もとの位置まで戻ったと仮定しよう。そうすると、続いてもう一度、今度はドアに、鍵を下すために歩かなければならない。ところが見たとおり、それがドアの前で、現在ある位置の方へ曲っているのだから、残った一条が全然余計なものになってしまう。だから、往復の一回を、犯人の足跡を消すためだとすると、そこからどうして、窓の方へもう一度戻さなければならなかったのだろうか。窓際に置かなければ、何故人形に鍵を下させることが出来なかったのだろう」
「人形が鍵をかける※(感嘆符疑問符、1-8-78)」検事は呆れて叫んだ。
「それ以外に誰がするもんか」と知らぬ間に、法水は熱を帯びた口調になっていて、「しかし、その方法となると、相変らず新しい趣向アイデアではない。十年一日のごとくに、犯人は糸を使っているんだよ。ところで、僕の考えていることを実験してみるかな」
 そして、鍵がまずドアの内側に突っ込まれた。けれども、彼が一旬日ほど以前、セントアレキセイ寺院のジナイーダの室においてち得たところの成功が、はたして今回も、繰り返されるであろうかどうか――それがすこぶる危ぶまれた。と云うのは、その古風な柄の長い鍵は、把手ノッブから遙かに突出していて、前回の技巧を再現することがほとんど望まれないからであった。二人が見戍みまもっているうちに、法水は長い糸を用意させて、それを外側から鍵孔かぎあなくぐらせ、最初鍵の輪形の左側を巻いてから、続いて下からすくって右側を絡め、今度は上の方から輪形の左の根元に引っ掛けて、余りを検事の胴にめぐらし、その先を再び鍵穴を通して廊下側に垂らした。そうしてから、
「まず支倉君を人形に仮定して、それが窓際から歩いて来たものとしよう。しかし、それ以前に犯人は、最初人形を置く位置について、正確な測定を遂げねばならなかった。何にしても、扉のしきいきわで、左足が停まるように定める必要があったのだ。何故なら、左足がその位置で停まると、続いて右足が動き出しても、それが中途で閾につかえてしまうだろう。だから、後半分の余力が、その足を軸に廻転を起して、人形の左足がしだいに後退あとずさりして行く。そして、完全に横向きになると、今度は扉と平行に進んで行くからだよ」
 それから、熊城には扉の外で二本の糸を引かせ、検事を壁の人形に向けて歩かせた。そうしているうちに、ドアの前を過ぎて鍵が後方になると、法水はその方の糸をグイと熊城に引かせた。すると、検事の身体が張りきった糸を押して行くので、輪形の右側が引かれて、みるみる鍵が廻転してゆく。そして、掛金が下りてしまうと同時に、糸は鍵のかたわらでプツリと切れてしまったのだ。やがて、熊城は二本の糸を手にして現われたが、彼はせつなそうな溜息を吐いて、
「法水君、君はなんという不思議な男だろう」
「けれども、はたして人形がこの室から出たかどうか、それを明白に証明するものはない。あの一回余計の足跡だっても、まだまだ僕の考察だけでは足りないと思うよ」と法水は、最後の駄目を押して、それから、衣裳の背後にあるホックを外して観音開きを開き、体内の機械装置を覗き込んだ。それは、数十個の時計を集めたほどに精巧をきわめたものだった。幾つとなく大小様々な歯車が並び重なっている間に、数段にも自働的に作用する複雑な方舵機があり、色々な関節を動かす細い真鍮棒が後光のような放射線を作っていて、その間に、弾条ぜんまいを巻く突起と制動機とが見えた。続いて熊城は、人形の全身をぎ廻ったり、拡大鏡で指紋や指型を探しはじめたが、何一つ彼の神経に触れたものはなかったらしい。法水はそれが済むのを待って、
「とにかく、人形の性能は多寡たかの知れたものだよ。歩き、停まり、手を振り、物を握って離す――それだけの事だ。仮令たとえこの室から出たにしても、あの創紋を彫るなどとはとんでもない妄想さ。そろそろダンネベルグ夫人の筆跡も幻覚に近くなったかな」と思う壺らしい結論を云ったけれども、しかし彼の心中には、薄れ行った人形の影に代って、とうてい拭い去ることの出来ない疑問が残されてしまった。法水は続いて、
「だが熊城君、犯人は何故、人形が鍵を下したように見せなければならなかったのだろうね。もっとも、事件にグイグイ神秘を重ねてゆこうとしたのか、それとも、自分の優越を誇りたいためでもあったかもしれない。しかし、人形の神秘を強調するのだとしたら、かえってそんな小細工をやるよりも、いっそドアを開け放しにして、人形の指に洋橙オレンジの汁でも附けておいた方が効果的じゃないか。ああ、犯人はどうして僕に、糸と人形の技巧トリックを土産に置いて行ったのだろう?」としばらく懐疑にもだえるような表情をしていたが、「とにかく、人形を動かして見ることにしよう」と云って眼の光を消した。
 やがて、人形は非常に緩慢な速度で、特有の機械的な無器用な恰好で歩き出した。ところが、そのコトリと踏む一歩ごとに、リリリーン、リリリーンと、ささやくような美しい顫音せんおんが響いてきたのである。それはまさしく金属線の震動音で、人形のどこかにそういう装置があって、それが体腔の空洞で共鳴されたものに違いなかった。こうして、法水の推理によって、人形を裁断する機微が紙一枚のきわどさに残されたけれども、今聴いた音響こそは、まさしくそれを左右する鍵のように思われた。この重大な発見を最後に、三人は人形のへやを出て行ったのであった。
 最初は、続いて階下の薬物室を調べるような法水の口吻くちぶりだったが、彼はにわかに予定を変えて、古式具足のならんでいる拱廊そでろうかの中に入って行った。そして、円廊に開かれている扉際とぎわに立ち、じっと前方に瞳を凝らしはじめた。円廊の対岸には、二つの驚くほど涜神とくしん的な石灰面フレスコが壁面を占めていた。右側のは処女受胎の図で、いかにも貧血的な相をした聖母マリヤが左端に立ち、右方には旧約聖書の聖人達が集っていて、それがみなてのひらで両眼を覆い、その間に立ったエホバが、性慾的な眼でじいっと聖母マリヤみつめている。左側の「カルバリ山の翌朝」とでも云いたい画因のものには、右端に死後強直を克明な線で現わした十字架の耶蘇ヤソがあり、それに向って、怯懦きょうだな卑屈な恰好をした使徒達が、怖る怖る近寄って行く光景が描かれていた。法水は取り出したたばこを、思い直したようにケースの中に戻して、途方もない質問を発した。
「支倉君、君はボーデの法則を知っているかい――海王星以外の惑星の距離を、簡単な倍数公式で現わしてゆくのを。もし知っているのなら、それを、この拱廊そでろうかでどういう具合に使うね」
「ボーデの法則※(感嘆符疑問符、1-8-78)」検事は奇問に驚いて問い返したが、重なる法水の不可解な言動に、熊城と苦々しい視線を合わせて、「それでは、あの二つの画に君の空論を批判してもらうんだね。どうだい、あの辛辣しんらつな聖書観は。たぶん、あんな絵が好きらしいフォイエルバッハという男は、君みたいな飾弁家じゃなかろうと思うんだ」
 しかし、法水はかえって検事の言に微笑ほほえみを洩らして、それから拱廊を出て死体のあるへやに戻ると、そこには驚くべき報告が待ち構えていた。給仕長川那部易介がいつの間にか姿を消しているという事だった。昨夜図書掛りの久我鎮子とともにダンネベルグ夫人に附添っていて、熊城の疑惑が一番深かったのであるが、それだけに、易介の失踪を知ると、彼はさも満足気に両手を揉みながら、
「すると、十時半に僕の訊問が終ったのだから、それから鑑識課員が掌紋を採りに行ったと云う――現在一時までの間だな、そうそう法水君、これが易介を模本モデルにしたというそうだが」と、扉の脇にある二人像を指差して、「この事は、僕にはとうから判っていたのだよ。あの侏儒こびと傴僂せむしが、この事件でどういう役を勤めていたか――だ。だが、なんという莫迦ばかやつだろう。彼奴あいつは、自分の見世物的な特徴に気がつかないのだ」
 法水はその間、軽蔑したように相手を見ていたが、
「そうなるかねえ」と一言反対の見解をほのめかしただけで、像の方に歩いて行った。そして、立法者スクライブの跏像と背中を合わせている傴僂の前に立つと、
「オヤオヤ、この傴僂はなおっているんだぜ。不思議な暗合じゃないか。扉の浮彫では耶蘇に治療をうけているのが、内部なかに入ると、すっかり全快している。そしてあの男は、もうたぶんおしにちがいないのだ」と最後の一言をきわめて強い語気で云ったが、にわかに悪寒を覚えたような顔付になって、物腰に神経的なものが現われてきた。
 しかし、その像には依然として変りはなく、扁平な大きな頭を持った傴僂せむしが、細く下った眼尻にずるそうな笑を湛えているにすぎなかった。その間、何やらしたためていた検事は、法水をさし招いて、卓上の紙片を示した。それには次のような箇条書で、検事の質問が記されてあった。
一、法水は大階段の上で、常態ではとうてい聞えぬ音響を召使が聴いたのを知ったと云う――その結論は?
二、法水は拱廊そでろうかで何を見たのであるか?
三、法水が卓子灯スタンドを点けて、床を計ったのは?
四、法水はテレーズ人形の室の鍵に、何故逆説的な解釈をしようと、苦しんでいるのであるか?
五、法水は何故に家族の訊問を急がないのか?
 読み終ると、法水は莞爾にこりとして、一・二・五の下に――ダッシュを引いて解答と書き、もし万に一つの幸い吾にあらば犯人を指摘する人物を発見するやも知れず(第二あるいは第三の事件)――と続いてしたためた。検事が吃驚びっくりして顔を上げると、法水はさらに第六の質問と標題を打って、次の一行を書き加えた。――甲冑武者はいかなる目的の下に、階段の裾を離れねばならなかったのだろう?
「それは、君がもう」と検事は眼をみはって反問したが、その時ドアが静かに開いて、最初呼ばれた図書掛りの久我鎮子が入って来た。

    三、屍光ゆえなくしては

 久我鎮子の年齢は、五十を過ぎて二つ三つと思われたが、かつて見たことのない典雅な風貌を具えた婦人だった。まるでのみででも仕上げたように、繊細をきわめた顔面の諸線は、容易に求められない儀容と云うのほかはなかった。それが時折引き締ると、そこから、この老婦人の、動じない鉄のような意志が現われて、隠遁いんとん的な静かな影の中から、ほのおのようなものがメラメラと立ち上るような思いがするのだった。法水は何より先に、この婦人の精神的な深さと、総身から滲み出てくる、物々しいまでの圧力に打たれざるを得なかった。
貴方あなたは、このへやにどうして調度が少ないのか、お訊きになりたいのでしょう」鎮子が最初発した言葉が、こうであった。
「今まで、空室あきしつだったのでは」と検事が口を挾むと、
「そう申すよりも、開けずの間と呼びました方が」と鎮子は無遠慮な訂正をして、帯の間から取り出した細巻に火を点じた。「実は、お聴き及びでもございましょうが、あの変死事件――それが三度とも続けてこの室に起ったからでございます。ですから、算哲様の自殺を最後として、この室を永久に閉じてしまうことになりました。この彫像と寝台だけは、それ以前からある調度だと申されておりますが」
「開けずの間に」法水は複雑な表情をうかべて、「その開けずの間が、昨夜は、どうして開かれたのです?」
「ダンネベルグ夫人のお命令いいつけでした。あの方のおびえきったお心は、昨夜最後の避難所をここへ求めずにはいられなかったのです」と凄気のもった言葉を冒頭にして、鎮子はまず、館の中へ※(「石+(蒲/寸)」、第3水準1-89-18)ほうはくみなぎってきた異様な雰囲気を語りはじめた。
「算哲様がお歿くなりになってから、御家族の誰もかもが、落着きを失ってまいりました。それまでは口争い一つしたことのない四人の外人の方も、しだいに言葉数が少なくなって、お互いに警戒するような素振そぶりが日増しに募ってゆきました。そして、今月に入ると、誰方どなたも滅多におへやから出ないようになり、ことにダンネベルグ様の御様子は、ほとんど狂的としか思われません。御信頼なさっている私か易介のほかには、誰にも食事さえ運ばせなくなりました」
「その恐怖の原因に、貴女は何か解釈がおつきですかな。個人的な暗闘ならばともかく、あの四人の方々には、遺産という問題はないはずです」
「原因は判らなくても、あの方々が、御自身の生命に危険を感じておられたことだけは確かでございましょう」
「その空気が、今月に入ってひどくなったと云うのは」
「マア、私がスウェーデンボルグかジョン・ウェスレイ(メソジスト教会の創立者)でもあるのでしたら」と鎮子は皮肉に云って、
「ダンネベルグ様は、そういう悪気あっきのようなものから、なんとかしてのがれたいと、どれほど心をお砕きになったか判りません。そして、その結果があの方の御指導で、昨夜の神意審問の会となって現われたのでございます」
「神意審問とは?」検事には鎮子の黒ずくめの和装が、ぐいと迫ったように感ぜられた。
「算哲様は、異様なものを残して置きました。マックレンブルグ魔法の一つとかで、絞死体の手首を酢漬けにしたものを乾燥した――栄光の手ハンド・オブ・グローリーの一本一本の指の上に、これも絞死罪人の脂肪から作った、死体蝋燭を立てるのです。そして、それに火を点じますと、邪心のある者は身体がすくんで心気を失ってしまうとか申すそうでございます。で、その会が始まったのは、昨夜の正九時。列席者は当主旗太郎様のほかに四人の方々と、それに、私と紙谷伸子さんとでございました。もっとも、押鐘おしがねの奥様(津多子つたこ)がしばらく御逗留でしたけれども、昨日は早朝お帰りになりましたので」
「そして、その光は誰を射抜きましたか」
「それが、当の御自身ダンネベルグ様でございました」と鎮子は、低く声を落してふるわせた。「あのまたとない光は、昼の光でもなければ夜の光でもございません。ジイジイっと喘鳴ぜいめいのようなかすれた音を立てて燃えはじめると、拡がってゆく焔の中で、薄気味悪い蒼鉛色をしたものがメラメラとうごめきはじめるのです。それが、一つ二つとともされてゆくうちに、私達はまったく周囲の識別を失ってしまい、スウッと宙へ浮き上って行くような気持になりました。ところが、全部を点し終った時に――あの窒息せんばかりの息苦しい瞬間でした。その時ダンネベルグ様は物凄い形相で前方をにらんで、なんという怖ろしい言葉を叫んだことでしょう。あの方の眼に疑いもなく映ったものがございました」
「何がです?」
「ああ算哲――と叫んだのです。と思うと、バタリとその場へ」
「なに、算哲ですって※(感嘆符疑問符、1-8-78)」と法水は、一度はあおくなったけれども、「だが、その諷刺ザチーレはあまりに劇的ドラマチックですね。ほかの六人の中から邪悪の存在を発見しようとして、かえって自分自身が倒されるなんて。とにかく栄光の手ハンド・オブ・グローリーを、私の手でもう一度ともしてみましょう。そうしたら、何が算哲博士を……」と彼の本領に返って冷たく云い放った。
「そうすれば、その六人の者が、犬のごとく己れの吐きたるものに帰り来る――とでもお考えなのですか」と鎮子はペテロのことばりて、痛烈に酬い返した。そして、
「でも、私がいたずらな神霊陶酔者でないということは、今に段々とお判りになりましょう。ところで、あの方はほどなく意識を回復なさいましたけれども、血の気の失せた顔に滝のような汗を流して――とうとうやって来た。ああ、今夜こそは――と絶望的に身悶えしながら、声をふるわせて申されるのです。そして、私と易介を附添いにしてこの室に運んでくれと仰言おっしゃいました。誰も勝手を知らない室でなければ――という、目前に迫った怖ろしいものを何とかして避けたい御心持が、私にはようく読み取ることが出来たのです。それが、かれこれ十時近くでしたろうが、はたしてその夜のうちに、あの方の恐怖が実現されたのでございます」
「しかし、何が算哲と叫ばせたものでしょうな」と法水は再び疑念を繰り返してから、「実は、夫人が断末魔にテレーズと書いたメモが、寝台の下に落ちていたのですよ。ですから、幻覚を起すような生理か、何か精神に異常らしいところでも……。時に、貴女はヴルフェンをお読みになったことがありますか」
 その時、鎮子の眼に不思議な輝きが現われて、
「さよう、五十歳変質説もこの際確かに一説でしょう。それに、外見では判らない癲癇てんかん発作がありますからね。けれども、あの時は冴え切ったほどに正確でございました」とキッパリ云い切ってから、「それから、あの方は十一時頃までお寝みになりましたが、お目醒めになると咽喉のどが乾くと仰言おっしゃったので、そのときあの果物皿を、易介が広間サロンから持ってまいったのです」と云って熊城の眼が急性せわしく動いたのを悟ると、
「ああ、貴方は相変らずの煩瑣スコラ派なんですね。その時あの洋橙オレンジがあったかどうか、お訊ねになりたいのでしょう。けれども、人間の記憶なんて、そうそう貴方がたに便利なものではございませんわ。第一、昨夜は眠らなかったとは思っていますけれども、その側から、仮睡うたたねぐらいはしたぞとささやいているものがあるのです」
「なるほど、これも同じことですよ。館中の人達がそろいもそろって、昨夜は珍しく熟睡したと云っているそうですからね」とさすがに法水も苦笑して、「ところで十一時というと、その時誰か来たそうですが」
「ハァ、旗太郎様と伸子さんとが、御様子を見にお出でになりました。ところが、ダンネベルグ様は、果物は後にして何か飲物が欲しいと仰言おっしゃるので、易介がレモナーデを持ってまいりました。すると、あの方は御要心深くも、それに毒味をお命じになったのです」
「ハハァ、恐ろしい神経ですね。では、誰が?」
「伸子さんでした。ダンネベルグ様もそれを見て御安心になったらしく、三度もグラスをお換えになったほどでございます。それから、御寝おやすみになったらしいので、旗太郎様が寝室の壁にあるテレーズの額をはずして、伸子さんと二人でお持ち帰りになりました。いいえ、テレーズはこの館では不吉な悪霊のように思われていて、ことにダンネベルグ様が大のお嫌いなのでございますから、旗太郎様がそれに気付かれたというのは、非常に賢い思いりと申してよろしいのです」
「だが、寝室にはどこぞと云って隠れ場所はないのですから、その額に人形との関係はないでしょう」と検事が横合から口を挾んで「それよりも、その飲み残りは?」
とうに洗ってしまったでしょう。ですが、そういう御質問をなさると、ヘルマン(十九世紀の毒物学者)がわらいますわ」鎮子は露骨に嘲弄ちょうろうの色をうかべた。
「もし、それでいけなければ、青酸をゼロにしてしまう中和剤の名を伺いましょうか。砂糖や漆喰しっくいでは、単寧タンニンで沈降する塩基物アルカロイドを、茶といっしょに飲むような訳にはまいりませんわ。それから十二時になると、ダンネベルグ様は、ドアに鍵をかけさせて、その鍵を枕の下に入れてから、果物をお命じになり、あの洋橙オレンジをお取りになりました。洋橙オレンジを取る時も何とも仰言おっしゃいませず、その後は音も聞えず御熟睡のようなので、私達は衝立ついたての蔭に長椅子を置いて、その上で横になっておりました」
「では、その前後に微かな鈴のような音が」と訊ねて、鎮子の否定に遇うと、検事はたばこを抛り出してつぶやいた。
「すると、額はないのだし、やはり夫人はテレーズの幻覚を見たのかな。そうして完全な密室になってしまうと、創紋との間に大変な矛盾が起ってしまうぜ」
「そうだ、支倉君」と法水は静かに云った。「僕はより以上微妙な矛盾を発見しているよ。先刻さっき人形の室で組み立てたものが、この室に戻って来ると、突然いきなり逆転してしまったのだ。この室は開けずの間だったと云うけれども、その実、永い間絶えず出入りしていたものがあったのだよ。その歴然とした形跡が残っているのだ」
「冗談じゃない」熊城は吃驚びっくりして叫んだ。「鍵穴には永年の錆がこびり付いていて、最初開く時に、鍵の孔が刺さらなかったとか云うぜ。それに、人形の室と違って、岩乗な弾条ぜんまいで作用する落し金なんだから、どう考えても、糸で操れそうもないし、無論床口ゆかぐちにも陰扉かくしどのないという事は、とうに反響測定器で確かめているんだ」
「それだから君は、僕が先刻さっき傴僂せむしなおっていると云ったら、わらったのだよ。自然がどうして、人間の眼に止まる所になんぞ、跡を残して置くもんか」と一同を像の前に連れて行き、「だいたい幼年期からの傴僂には、上部の肋骨が凸凹になっていて数珠玉じゅずだまの形をしているものだが、それがこの像のどこに見られるだろう。だが、試しに、この厚い埃を払って見給え」
 そして、埃の層が雪崩なだれのようにり落ちた時だった。っとなって鼻口を覆いながらもみひらいた一同の眼が、明らかにそれを、像の第一肋骨の上で認めたのであった。
「そうすると数珠玉の上の出張った埃を、平にならしたものがなければならない。けれども、どんなに精巧な器械を使ったところで、人間の手ではどうして出来るものじゃない。自然の細刻だよ。風や水が何万年か経って岩石に巨人像を刻み込むように、この像にも鎖されていた三年のうちに、傴僂せむしなおしてしまったものがあったのだ。このへやに絶えず忍び入っていた人物は、いつもこの前の台の上に手燭を置いていたのだよ。しかし、その跡なんぞは、どうにか誤魔ごまかしてしまうにしても、その時から、一つの物云う象徴テルテールシムボル[#「物云う象徴テルテールシムボル」は底本では「物云テルテール象徴シムボル」]が作られていった。焔の揺ぎから起る微妙な気動が、一番不安定な位置にある数珠玉の埃を、ほんの微かずつ落していったのだよ。ねえ支倉君、じいっと耳を澄ましていると、なんだか茶立蟲のような、美しいたがねの音が聞えてくるようじゃないか。ときに、こういうヴェルレーヌの詩が……」
「なるほど」と検事はあわてて遮って、「けれども、その二年の歳月が、昨夜一夜を証明するものとは云われまい」
 とさっそくに法水は、熊城を振り向いて、「たぶん君は、コプト織の下を調べなかったろう」
「だいたい、何がそんな下に?」熊城は眼をまるくして叫んだ。
「ところが、死点デッドポイントと云えるものは、けっして網膜の上や、音響学ばかりにじゃないからね。フリーマンは織目の隙から、特殊な貝殻粉を潜り込ましている」と法水が静かに敷物を巻いてゆくと、そこの床には垂直からは見えないけれども、切嵌モザイクの車輪模様の数がふえるにつれて、微かに異様な跡が現われてきた。その色大理石と櫨木はぜのきの縞目の上に残されているものは、まさしく水で印した跡だった。全体が長さ二尺ばかりの小判形で、ぼうっとした塊状であるが、仔細に見ると、周囲は無数の点で囲まれていて、その中に、様々な形をした線や点が群集していた。そして、それが、足跡のような形で、交互に帷幕とばりの方へ向い、先になるに従い薄らいでゆく。
「どうも原型を回復することは困難らしいね。テレーズの足だってこんなに大きなものじゃない」と熊城はすっかり眩惑されてしまったが、
「要するに、陰画を見ればいいのさ」と法水はアッサリ云い切った。「コプト織は床に密着しているものではないし、それに櫨木はぜのきには、パルミチン酸を多量に含んでいるので、弾水性があるからだよ。表面から裏側に滲み込んだ水が、繊毛から滴り落ちて、その下が櫨木はぜのきだと、水が水滴になって跳ね飛んでしまう。そして、その反動で、繊毛が順次に位置を変えてゆくのだから、何度か滴り落ちるうちには、終いに櫨木はぜのきから大理石の方へ移ってしまうだろう。だから、大理石の上にある中心から一番遠い線を、逆に辿って行って、それが櫨木にかかった点を連ねたものが、ほぼ原型の線に等しいと云う訳さ。つまり、水滴を洋琴ピアノキイにして、毛が輪旋曲ロンドを踊ったのだよ」
「なるほど」と検事はうなずいたが、「だが、この水はいったい何だろうか?」
「それが、昨夜ゆうべは一滴も」と鎮子が云うと、それを、法水は面白そうに笑って、
「いや、それが紀長谷雄きのはせお卿の故事なのさ。鬼の娘が水になって消えてしまったって」
 ところが、法水の諧謔は、けっしてその場限りの戯言ぎげんではなかった。そうして作られた原型を、熊城がテレーズ人形の足型と、歩幅とに対照してみると、そこに驚くべき一致が現われていたのである。幾度か推定の中で、奇体な明滅を繰り返しながらも、得態の知れない水を踏んで現われた人形の存在は、こうなると厳然たる事実と云うのほかにない。そして、鉄壁のようなドアとあの美しい顫動音せんどうおんとの間に、より大きな矛盾が横たえられてしまったのであった。こうして、濛々もうもうたるたばこの煙と謎の続出とで、それでなくても、この緊迫しきった空気に検事はいい加減上気してしまったらしく、窓を明け放って戻って来ると、法水は流れ出る白い煙を眺めながら、再び座についた。
「ところで久我さん、過去の三事件にはこの際論及しないにしてもです。いったいどうしてこのへやが、かような寓意的なもので充ちているのでしょう。あの立法者スクライブの像なども、明白に迷宮の暗示ではありませんか。あれは、たしかマリエットが、埋葬地ネクロポリスにある迷宮ラビリンスの入口で発見したのですからね」
「その迷宮は、たぶんこれから起る事件の暗示ですわ」と鎮子は静かに云った。「恐らく最後の一人までも殺されてしまうでしょう
 法水は驚いて、しばらく相手の顔をみつめていたが、
「いや、少なくとも三つの事件までは……」と鎮子のことば譫妄うわごとのような調子で云い直してから、「そうすると久我さん、貴女あなたはまだ、昨夜の神意審問の記憶に酔っているのですね」
「あれは一つの証詞あかしにすぎません。私にはとうから、この事件の起ることが予知されていたのです。云い当ててみましょうか。死体はたぶん浄らかな栄光に包まれているはずですわ」
 二人の奇問奇答に茫然ぼうぜんとしていた矢先だったので、検事と熊城にとると、それがまさに青天の霹靂へきれきだった。誰一人知るはずのないあの奇蹟を、この老婦人のみはどうして知っているのであろう。鎮子は続いて云った。が、それは、法水に対するつるぎのような試問だった。
「ところで、死体から栄光を放った例を御存じでしょうか」「僧正ウォーターとアレツオ、弁証派アポロジストのマキシムス、アラゴニアのセントラケル……もう四人ほどあったと思います。しかし、それ等は要するに、奇蹟売買人の悪業にすぎないことでしょう」と法水も冷たく云い返した。
「それでは、闡明せんめいなさるほどの御解釈はないのですね。それから、一八七二年十二月蘇古蘭スコットランドインヴァネスの牧師屍光事件は?」

(註)(西区アシリアム医事新誌)。ウォルカット牧師は妻アビゲイルと友人スティヴンを伴い、スティヴン所有煉瓦工場の附近なる氷蝕湖カトリンに遊ぶ。しかるに、スティヴンはその三日目に姿を消し、翌年一月十一日夜月明に乗じて湖上に赴きし牧師夫妻は、ついにその夜は帰らず、夜半四、五名の村民が、雨中月没後の湖上遙か栄光に輝ける牧師の死体を発見せるも、畏怖して薄明を待てり。牧師は他殺にて、致命傷は左側より頭蓋腔中に入れる銃創なるも、銃器は発見されず、死体は氷面の窪みの中にありて、その後は栄光の事なかりしも、妻はその夜限り失踪して、ついにスティヴンとともに踪跡を失いたり。

 法水は鎮子の嘲侮ちょうぶに、やや語気を荒らげて答えた。
「あれはこう解釈しております――牧師は自殺で他の二人は牧師に殺されたのだと。で、それを順序どおり述べますと、最初牧師はスティヴンを殺して、その屍骸を温度の高い休業中の煉瓦炉の中に入れて腐敗を促進させたのです。そして、その間に細孔を無数に穿うがった軽量の船形棺を作って、その中に十分腐敗を見定めてから死体を収め、それに長い紐でおもりを附けて湖底に沈めました。無論数日ならずして腹中に腐敗瓦斯ガスが膨満するとともに、その船形棺は浮き上るものとみなければなりません。そこで牧師は、あの夜、錘の位置から場所を計って氷を砕き、水面に浮んでいる棺の細孔から死体の腹部を刺して瓦斯ガスを発散させ、それに火を点じました。御承知のとおり、腐敗瓦斯には沼気メタンのような熱の稀薄な可燃性のものが多量にあるのですから、その燐光が、月光で穴の縁に作られている陰影を消し、滑走中の妻を墜し込んだのです。恐らく水中では、頭上の船形棺をとり退けようと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがき苦しんだでしょうが、ついに力尽きて妻は湖底深く沈んで行きました。そうして牧師は、自分の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみを射った拳銃を棺の上に落して、その上に自分も倒れたのですから、その燐光に包まれた死体を、村民達が栄光と誤信したのも無理ではありません。そのうち、瓦斯の減量につれて浮揚性を失った船形棺は、拳銃を載せたまま湖底に横たわっている妻アビゲイルの死体の上に沈んでいったのですが、一方牧師の身体からだは、四肢が氷壁に支えられてそのまま氷上に残ってしまい、やがて雨中の水面には氷が張り詰められてゆきました。恐らく動機は妻とスティヴンとの密通でしょうが、愛人の死体で穴に蓋をしてしまうなんて、なんという悪魔的な復讐でしょう。しかしダンネベルグ夫人のは、そういった蕪雑ぶざつな目撃現象ではありません」
 聴き終ると、鎮子は微かな驚異の色をうかべたが、別に顔色も変えず、懐中から二枚に折った巻紙がたの上質紙を取り出した。
「御覧下さいまし。算哲博士のお描きになったこれが、黒死館の邪霊なのでございます。栄光はゆえなくして放たれたのではございません」
 それには、折った右側の方に、一艘の埃及エジプト船が描かれ、左側には、六つの劃のどのなかにも、四角の光背をつけた博士自身が立っていて、かたわらにある異様な死体を眺めている。そして、その下にグレーテ・ダンネベルグ夫人から易介までの六人の名が記されていて、裏面には、怖ろしい殺人方法を予言した次の章句が書かれてあった。(図表参照)
黒死館の邪霊の図
グレーテは栄光に輝きて殺さるべし。
オットカールは吊されて殺さるべし。
ガリバルダは逆さになりて殺さるべし。
オリガは眼を覆われて殺さるべし。
旗太郎は宙に浮びて殺さるべし。
易介は挾まれて殺さるべし。
「まったく怖ろしい黙示です」とさすがの法水も声をふるわせて、「四角の光背は、確か生存者の象徴シムボルでしたね。そして、その船形のものは、古代埃及エジプト人が死後生活の中で夢想している、不思議な死者の船だと思いますが」と云うと、鎮子は沈痛な顔をしてうなずいた。
「さようでございます。一人の水夫かこもなく蓮湖れんこの中に浮んでいて、死者がそれに乗ると、その命ずる意志のままに、種々いろいろな舟の機具が独りでに動いて行くというのです。そうして、四角の光背と目前の死者との関係を、どういう意味でお考えになりますか? つまり、博士は永遠にこの館の中で生きているのです。そして、その意志によって独りでに動いて行く死者の船というのが、あのテレーズの人形なのでございます」
[#改丁]

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  第二篇 ファウストの呪文
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    一、Undinusウンディヌス sichジッヒ windenヴィンデン水精ウンディヌスうねくれ)

 久我鎮子くがしずこが提示した六こまの黙示図は、凄惨冷酷な内容を蔵しながらも、外観はきわめて古拙な線で、しごく飄逸ユーモラスな形にかれていた。が、確かにこの事件において、それがあらゆる要素の根柢をなすものに相違なかった。おそらくこの時機に剔抉てきけつを誤ったなら、この厚い壁は、数千度の訊問検討の後にも現われるであろう。そして、その場で進行をはばんでしまうことは明らかだった。それなので、鎮子が驚くべき解釈をくわえているうちにも、法水のりみずあごを胸につけ、眠ったような形で黙考を凝らしていたが、おそらく内心の苦吟は、彼の経験を超絶したものだったろうとおもわれた。事実まったく犯人のいない殺人事件――埃及艀エジプトぶね屍様図しようずを相関させたところの図読法は、とうてい否定し得べくもなかったのである。ところが意外なことに、やがて正視に復した彼の顔には、みるみる生気がみなぎりゆき酷烈な表情がうかび上った。
「判りましたが……しかし久我さん、この図の原理には、けっしてそんなスウェーデンボルグ神学(「黙示録解釈」および「アルカナ・コイレスチア」において、スウェーデンボルグは出埃及記およびヨハネ黙示録の字義解釈に、牽強附会もはなはだしい数読法を用いて、その二つの経典が、後世における歴史的大事変の数々を預言せるものとなせり。)はないのですよ。狂ったようなところが、むしろ整然たる論理形式なんです。また、あらゆる現象に通ずるという空間構造の幾何学理論が、やはりこの中でも、絶対不変の単位となっているのです。ですから、この図を宇宙自然界の法則と対称することが出来るとすれば、当然、そこに抽象されるものがなけりゃならん訳でしょう」と法水が、突如前人未踏とでも云いたいところの、超経験的な推理領域に踏み込んでしまったのには、さすがの検事も唖然あぜんとなってしまった。数学的論理はあらゆる法則の指導原理であると云うけれども、かの「僧正殺人事件ビショップ・マーダーケース」においてさえ、リーマン・クリストフェルのテンソルは、単なる犯罪概念を表わすものにすぎなかったではないか。それだのに法水は、それを犯罪分析の実際に応用して、空漠たる思惟抽象の世界に踏み入って行こうとする……。
「ああ私は……」と鎮子はき出してわらった。「それで、ロレンツ収縮の講義を聴いて直線を歪めて書いたと云う、莫迦ばかな理学生の話を憶い出しましたわ。それでは、ミンコフスキーの四次元世界に第四容積フォースディメンション立体積の中で、霊質のみが滲透的に存在し得るという空隙。)を加えたものを、一つ解析的に表わして頂きましょうか」
 そのわらいを法水はめじりで弾き、まず鎮子をたしなめてから、「ところで、宇宙構造推論史の中で一番華やかなページと云えば、さしずめあの仮説決闘セオリー・デュエル――空間曲率に関して、アインシュタインとド・ジッターとの間に交された論争でしょうかな。その時ジッターは、空間固有の幾何学的性質によると主張したのでしたが、同時に、アインシュタインの反太陽説も反駁はんばくしているのです。ところが久我さん、その二つを対比してみると、そこへ、黙示図の本流が現われてくるのですよ」とさながら狂ったのではないかと思われるような言葉を吐きながら、次図を描いて説明を始めた。
仮説決闘の図
「では、最初反太陽説の方から云うと、アインシュタインは、太陽から出た光線が球形宇宙のへりを廻って、再びもとの点に帰って来ると云うのです。そして、そのために、最初宇宙の極限に達した時、そこで第一の像を作り、それから、数百万年の旅を続けて球の外圏を廻ってから、今度は背後に当る対向点まで来ると、そこで第二の像を作ると云うのです。しかしその時には、すでに太陽は死滅していて一個の暗黒星にすぎないでしょう。つまり、その映像と対称する実体が、天体としての生存の世界にはないのです。どうでしょう久我さん、実体は死滅しているにもかかわらず過去の映像が現われる――その因果関係が、ちょうどこの場合算哲博士と六人の死者との関係に相似してやしませんか。なるほど、一方はオングストローム一耗の一千万分の一)であり、片方は百万兆哩トリリオン・マイルでしょうが、しかしその対照も、世界空間においては、たかが一微小線分の問題にすぎないのです。それからジッターは、その説をこう訂正しているのですよ。遠くなるほど、螺旋らせん状星雲のスペクトル線が赤の方へ移動して行くので、それにつれて、光線の振動週期が遅くなると推断しています。それがために、宇宙の極限に達する頃には光速がゼロとなり、そこで進行がピタリと止ってしまうというのですよ。ですから、宇宙のへりに映る像はただ一つで、恐らく実体とは異ならないはずです。そこで僕等は、その二つの理論の中から、黙示図の原理を択ばなければならなくなりました」
「ああ、まるで狂人きちがいになるような話じゃないか」熊城くましろはボリボリふけを落しながら呟いた。「サア、そろそろ、天国の蓮台から降りてもらおうか」
 法水は熊城の好謔にたまらなく苦笑したが、続いて結論を云った。
「勿論太陽の心霊学から離れて、ジッターの説を人体生理の上に移してみるのです。すると、宇宙の半径を横切って長年月を経過していても、実体と映像が異ならない――その理法が、人間生理のうちで何事を意味しているでしょうか。たとえば、ここに病理的な潜在物があって、それが、発生から生命の終焉しゅうえんに至るまで、生育もしなければ減衰もせず、常に不変な形を保っているものと云えば……」
「と云うと」
「それが特異体質なんです」と法水は昂然と云い放った。「恐らくその中には、心筋質肥大のようなものや、あるいは、硬脳膜矢状縫合癒合がないとも限りません。けれども、それが対称的に抽象出来るというのは、つまり人体生理の中にも、自然界の法則が循環しているからなんです。現に体質液ハーネマン学派は、生理現象を熱力学の範囲に導入しようとしています。ですから、無機物にすぎない算哲博士に不思議な力を与えたり、人形に遠感的テレパシックな性能を想像させるようなものは、つまるところ、犯人の狡猾こうかつ擾乱策じょうらんさくにすぎんのですよ。たぶんこの図の死者の船などにも、時間の進行という以外の意味はないでしょう」
 特異体質――。論争のきらびやかな火華にばかり魅せられていて、その蔭に、こうした陰惨な色の燧石ひうちいしがあろうなどとは、事実夢にも思い及ばぬことだった熊城は神経的にてのひらの汗を拭きながら、
「なるほど、それなればこそだ――。家族以外にも易介を加えているのは」
「そうなんだ熊城君」と法水は満足気にうなずいて、「だから、謎は図形の本質にはなくて、むしろ、作画者の意志の方にある。しかし、どう見てもこの医学の幻想ファンタジイは、片々たる良心的な警告文じゃあるまい」
「だが、すこぶる飄逸ユーモラスな形じゃないか」と検事は異議を唱えて、「それで露骨な暗示もすっかりおどけてしまってるぜ。犯罪を醸成するような空気は、微塵みじんもないと思うよ」と抗弁したが、法水は几帳面きちょうめんに自分の説を述べた。
「なるほど、飄逸ユーモア戯喩ジョークは、一種の生理的洗滌せんできには違いないがね。しかし、感情のけ口のない人間にとると、それがまたとない危険なものになってしまうんだ。だいたい、一つの世界一つの観念――しかない人間というものは、興味を与えられると、それに向って偏執的に傾倒してしまって、ひたすら逆の形で感応を求めようとする。その倒錯心理だが――それにもしこの図の本質が映ったとしたら、それが最後となって、観察はたちどころにねじれてしまう。そして、様式から個人の経験の方に移ってしまうんだ。つまり、喜劇から悲劇へなんだよ。で、それからは、気違いみたいに自然淘汰の跡を追いはじめて、冷血的な怖ろしい狩猟の心理しかなくなってしまうのだ。だから支倉はぜくら君、僕はソーンダイクじゃないがね、マラリヤや黄熱病よりも、雷鳴や闇夜の方が怖ろしいと思うよ」
「マア、犯罪徴候学……」鎮子は相変らずの冷笑主義シニシズムを発揮して、
「だいたいそんなものは、ただ瞬間の直感にだけ必要なものとばかり思っていましたわ。ところで易介という話ですが、あれはほとんど家族の一員に等しいのですよ。まだ七年にしかならない私などとは違って、傭人やといにんとは云い条、幼い頃から四十四の今日こんにちまで、ずうっと算哲様の手許で育てられてまいったのですから。それに、この図は勿論索引には載っておりませず、絶対に人目に触れなかったことは断言いたします。算哲様の歿後誰一人触れたことのない、埃だらけな未整理図書の底にうずもれていて、この私でさえも、昨年の暮まではいっこうに知らなかったほどでございますものね。そうして、貴方の御説どおりに、犯人の計画がこの黙示図から出発しているものとしましたなら、犯人の算出は――いいえこの減算ひきざんは、大変簡単ではございませんこと」
 この不思議な老婦人は、突然解し難い露出的態度に出た。法水もちょっと面喰めんくらったらしかったが、すぐに洒脱しゃだつな調子に戻って、
「すると、その計算には、幾つ無限記号を附けたらよいのでしょうかな」と云った後で、驚くべき言葉を吐いた。「しかし、恐らく犯人でさえ、この図のみを必要とはしなかったろうと思うのです。貴女あなたは、もう半分の方は御存じないのですか」
「もう半分とは……誰がそんな妄想を信ずるもんですか※(感嘆符二つ、1-8-75)」と鎮子が思わずヒステリックな声で叫ぶと、始めて法水は彼の過敏な神経を明らかにした。法水の直観的な思惟のしわから放出されてゆくものは、黙示図の図読といいこれといい、すでに人間の感覚的限界を越えていた。
「では、御存じなければ申し上げましょう。たぶん、奇抜な想像としかお考えにならないでしょうが、実はこの図と云うのが、二つに割った半葉にすぎないんですよ。六つの図形の表現を超絶したところに、それは深遠な内意があるのです」
 熊城は驚いてしまって、種々いろいろと図の四縁しえんを折り曲げて合わせていたが、「法水君、洒落しゃれはよしにし給え。幅広い刃形やいばがたはしているが、非常に正確な線だよ。いったいどこに、後からった跡があるのだ?」
「いや、そんなものはないさ」法水は無雑作に云い放って、全体が右肩下がりのナイフの刀身に横線が一本入っている形の形をしている黙示図を指し示した。「この形が、一種の記号語パジグラフィなんだよ。元来死者の秘顕なんて陰険きわまるものなんだから、方法までも実にねじれきっている。で、この図も見たとおりだが、全体が刀子とうし石器時代の滑石武器)の刃形みたいな形をしているだろう。ところが、その右肩うけんを斜めに截った所が、実に深遠な意味を含んでいるんだよ。無論算哲博士に、考古学の造詣ぞうけいがなけりゃ問題にはしないけれども、この形と符合するものが、ナルマー・メネス王朝あたりの金字塔ピラミッド前象形文字の中にある。第一、こんな窮屈な不自然きわまる形の中に、博士がなぜかねばならなかったものか、考えてみ給え」
 そうして、黙示図の余白に、鉛筆で右肩下がりのナイフの刀身のような形の形を書いてから、
「熊城君、これが※(2分の1、1-9-20)を表わす上古埃及コプチックの分数数字だとしたら、僕の想像もまんざら妄覚ばかりじゃあるまいね」と簡勁かんけいに結んで、それから鎮子に云った。「勿論、死語に現われた寓意的な形などというものは、いつか訂正される機会がないとも限りません。けれども、ともかくそれまでは、この図から犯人を算出することだけは、避けたいと思うのです」
 その間、鎮子は懶気ものうげに宙をみつめていたが、彼女の眼には、真理を追求しようという激しい熱情が燃えさかっていた。そして、法水の澄みきった美しい思惟の世界とは異なって、物々しい陰影に富んだ質量的なものをぐいぐい積み重ねてゆき、実証的な深奥のものを闡明せんめいしようとした。
「なるほど独創は平凡じゃございませんわね」と独言ひとりごとのようにつぶやいてから、再びもとどおり冷酷な表情に返って、法水を見た。「ですから、実体が仮象よりも華やかでないのは道理ですわ。しかし、そんなハム族の葬儀用記念物よりかも、もしその四角の光背と死者の船を、事実目撃した者があったとしたらどうなさいます?」
「それが貴女あなたなら、僕は支倉はぜくらに云って、起訴させましょう」と法水は動じなかった。
「いいえ、易介なんです」鎮子は静かに云い返した。「ダンネベルグ様が洋橙オレンジを召し上る十五分ほど前でしたが、易介はその前後に十分ばかりへやを空けました。それが、後で訊くとこうなんです。ちょうど神意審問の会が始まっている最中さなかだったそうですが、その時易介が裏玄関の石畳の上に立っていると、ふと二階の中央で彼の眼に映ったものがありました。それが、会が行われている室の右隣りの張出窓で、そこに誰やら居るらしい様子で、真黒な人影が薄気味悪く動いていたと云うのです。そして、その時地上に何やら落したらしい微かな音がしたそうですが、それが気になってたまらず、どうしても見に行かずにはいられなかったと申すのでした。ところが、易介が発見したものは、辺り一面に散在している硝子の破片にすぎなかったのです」
「では、易介がその場所へ達するまでの経路をお訊きでしたか」
「いいえ」と鎮子はくびを振って、「それに伸子さんは、ダンネベルグ様が卒倒なさるとすぐ、隣室から水を持ってまいったというほどですし、ほかにも誰一人として、座を動いた方はございませんでした。これだけ申せば、私がこの黙示図に莫迦ばからしい執着を持っている理由がお判りでございましょう。勿論その人影というのは、吾々われわれ六人のうちにはないのです。と云って、傭人は犯人の圏内にはございません。ですから、この事件に何一つ残されていないと云うのも、しごく道理なんでございますわ」
 鎮子の陳述は再び凄風を招き寄せた。法水はしばらくたばこの赤い尖端をみつめていたが、やがて意地悪げな微笑をうかべて、
「なるほど、しかし、ニコル教授のような間違いだらけな先生でも、これだけは巧いことを云いましたな。結核患者の血液の中には、脳に譫妄せんもうを起すものを含めり――って」
「ああ、いつまでも貴方は……」といったん鎮子はあきれて叫んだが、すぐに毅然きぜんとなって、「それでは、これを……。この紙片が硝子の上に落ちていたとしましたなら、易介のことばには形がございましょう」と云って、懐中ふところから取り出したものがあった。それは、雨水あまみずと泥で汚れた用箋の切端きれはしだったが、それには黒インクで、次のような独逸ドイツ文がしたためられてあった。
Undinusウンディヌス sichジッヒ windenヴィンデン
「これじゃとうてい筆蹟をうかがえようもない。まるでかにみたいなゴソニック文字だ」といったん法水は失望したようにつぶやいたが、その口の下から、両眼を輝かせて、「オヤ妙な転換があるぞ。元来この一句は、水精ウンディネうねくれ――なんですが、これには、女性の Undineウンディネ に us をつけて、男性に変えてあるのです。しかし、これが何から引いたものであるか、御存じですか。それから、このやかたの蔵書の中に、グリムの『古代独逸詩歌傑作にいて』かファイストの『独逸語史料集』でも」
遺憾いかんながら、それは存じません。言語学の方は、のちほどお報せすることにいたします」と鎮子は案外率直に答えて、その章句の解釈が法水の口から出るのを待った。しかし、彼は紙片に眼を伏せたままで、容易に口を開こうとはしなかった。その沈黙の間を狙って熊城が云った。
「とにかく、易介がその場所へ行ったについては、もっと重大な意味がありますよ。サァ何もかも包まずに話して下さい。あの男はすでに馬脚を露わしているんですから」
「サァ、それ以外の事実と云えば、たぶんこれでしょう」と鎮子は相変らず皮肉な調子で、「その間私が、この室に一人ぼっちだったというだけの事ですわ。しかし、どうせ疑われるのなら、最初にされた方が……いいえ、たいていの場合が、後で何でもないことになりますからね。それに伸子さんとダンネベルグ様が、神意審問会の始まる二時間ほど前に争論をなさいましたけれども、それやこれやの事柄は、事件の本質とは何の関係もないのです。第一、易介が姿を消したことだって、先刻さっきのロレンツ収縮の話と同じことですわ。その理学生に似た倒錯心理を、貴方の※(「りっしんべん+曷」、第4水準2-12-59)どうかつ訊問が作り出したのです」
「そうなりますかね」と懶気ものうげに呟いて、法水は顔を上げたが、どこか、ある出来事の可能性を暗受しているような、陰鬱な影を漂わせていた。が、鎮子には、慇懃いんぎんな口調で云った。
「とにかく、種々いろいろと材料をそろえて頂いたことは感謝しますが、しかし結論となると、はなはだ遺憾千万です。貴女の見事な類推論法でも、結局私には、いわゆる、如き観を呈するものとしか見られんのですからね。ですからたとい人形が眼前に現われて来たにしたところで、私は、それを幻覚としか見ないでしょう。第一そういう、非生物学的な、力の所在というのが判らないのです」
「それは段々とお判りになりますわ」と鎮子は最後の駄目を押すような語気で云った。「実は、算哲様の日課書の中に――それが自殺なされた前月昨年の三月十日の欄でしたが――そこにこういう記述があるのです。われ、隠されねばならぬ隠密の力を求めてそれを得たれば、この日魔法書をけり――と。と申して、すでに無機物と化したあの方の遺骸には、一顧の価値あたいもございませんけれど、なんとなく私には、無機物を有機的に動かす、不思議な生体組織とでも云えるものが、この建物の中に隠されているような気がしてならないのです」
「それが、魔法書を焚いた理由ですよ」と法水は何事かをほのめかしたが、「しかし、失われたものは再現するのみのことです。そうしてから改めて、貴女の数理哲学を伺うことにしましょう。それから、現在の財産関係と算哲博士が自殺した当時の状況ですが」とようやく黙示図の問題から離れて、次の質問に移ったが、その時鎮子は、法水をみつめたまま、腰を上げた。
「いいえ、それは執事の田郷さんの方が適任でございましょう。あの方はその際の発見者ですし、何より、この館ではリシュリュウ(ルイ十三世朝の僧正宰相)と申してよろしいのですから」そうして、扉の方へ二、三歩歩んだ所で立ち止り、屹然きっと法水を振り向いて云った。
「法水さん、与えられたものをとることにも、高尚な精神が必要ですわ。ですから、それを忘れた者には、後日必ず悔ゆる時機がまいりましょう」
 鎮子の姿が扉の向うに消えてしまうと、論争一過後のしつは、ちょうど放電後の、真空といった空虚な感じで、再びかび臭い沈黙が漂いはじめ、樹林でからすの声や、氷柱つららが落ちる微かな音までも、聴き取れるほどの静けさだった。やがて、検事はくびの根を叩きながら、
「久我鎮子は実象のみを追い、君は抽象の世界に溺れている。だがしかしだ。前者は自然の理法を否定せんとし、後者はそれを法則的に、経験科学の範疇カテゴリーで律しようとしている――。法水君、この結論には、いったいどういう論法が必要なんだね。僕は鬼神学デモノロジイだろうと思うんだが……」
「ところが支倉君、それが僕の夢想のはなさ――あの黙示図に続いていて、未だ誰一人として見たことのない半葉がある――それなんだよ」と夢見るような言葉を、法水はほとんど無感動のうちに云った。「その内容が恐らく算哲の焚書を始めとして、この事件のあらゆる疑問に通じているだろうと思うのだ」
「なに、易介が見たという人影にもか」検事は驚いて叫んだ。
 と熊城も真剣にうなずいて、「ウン、あの女はけっして、嘘は吐かんよ。ただし問題は、その真相をどの程度の真実で、易介が伝えたかにあるんだ。だが、なんという不思議な女だろう」とあらわに驚嘆の色をうかべて、「自分から好んで犯人の領域に近づきたがっているんだ」
「いや、被作虐者マゾヒイストかもしれんよ」と法水は半身はんみになって、暢気のんきそうに廻転椅子をギシギシ鳴らせていたが、「だいたい、呵責かしゃくと云うものには、得も云われぬ魅力があるそうじゃないか。その証拠にはセヴィゴラのナッケという尼僧だが、その女は宗教裁判の苛酷な審問の後で、転宗よりも、還俗げんぞくを望んだというのだからね」と云ってクルリと向きを変え、再び正視の姿勢に戻って云った。
「勿論久我鎮子は博識無比さ。しかし、あれは索引インデックスみたいな女なんだ。記憶のかたまりが将棋盤の格みたいに、正確な配列をしているにすぎない。そうだ、まさに正確無類だよ。だから、独創も発展性も糞もない。第一、ああいう文学に感覚を持てない女に、どうして、非凡な犯罪を計画するような空想力が生れよう」
「いったい、文学がこの殺人事件とどんな関係があるかね?」と検事が聴きとがめた。
「それが、あの水精よ蜿くれウンディヌス・ジッヒ ヴィンデン――さ」と法水は、初めて問題の一句を闡明せんめいする態度に出た。「あの一句は、ゲーテの『ファウスト』の中で、尨犬むくいぬに化けたメフィストの魔力を破ろうと、あの全能博士が唱える呪文の中にある、勿論その時代を風靡ふうびした加勒底亜カルデア五芒星術の一文で、火精ザラマンダー水精ウンディネ風精ジルフェ地精コボルトの四妖に呼び掛けているんだ。ところで、それを鎮子が分らないのを不審に思わないかい。だいたいこういった古風な家で、書架に必ず姿を現わすものと云えば、まず思弁学でヴォルテール、文学ではゲーテだ。ところが、そういった古典文学が、あの女には些細な感興も起さないんだ。それからもう一つ、あの一句には薄気味悪い意思表示が含まれているのだよ」
「それは……」
「第一に、連続殺人の暗示なんだ。犯人は、すでに甲冑武者の位置を変えて、それで殺人を宣言しているが、この方はもっと具体的だ。殺される人間の数とその方法が明らかに語られている。ところで、ファウストの呪文に現われる妖精の数が判ると、それがグイと胸を衝き上げてくるだろう。何故なら、旗太郎をはじめ四人の外人の中で、その一人が犯人だとしたら、殺す数の最大限は、当然四人でなければなるまい。それから、これが殺人方法と関聯していると云うのは、最初に水精ウンディネを提示しているからだよ。よもや君は、人形の足型を作って敷物の下から現われた、あの異様な水の跡を忘れやしまいね」
「だが、犯人が独逸ドイツ語を知っている圏内にあるのは、確かだろう。それにこの一句はたいして文献学的フィロロジックなものじゃない」と検事が云うのを、
「冗談じゃない。音楽は独逸の美術なり――と云うぜ。この館では、あの伸子という女さえ、竪琴ハープを弾くそうなんだ」と法水は、さも驚いたような表情をして、「それに、不可解きわまる性別の転換もあるのだから、結局言語学の蔵書以外には、あの呪文を裁断するものはないと思うのだよ」
 熊城は組んだ腕をダラリと解いて、彼に似げない嘆声を発した。
「ああ、何から何まで嘲笑的じゃないか」
「そうだ、いかにも犯人は僕等の想像を超絶している。まさにツァラツストラ的な超人なんだ。この不思議な事件を、従来これまでのようなヒルベルト以前の論理学で説けるものじゃない。その一例があの水の跡なんだが、それを陳腐ちんぷな残余法で解釈すると、水が人形の体内にある発音装置を無効にした――という結論になる。けれども、事実はけっしてそうじゃないんだ。まして、全体がすこぶる多元的に構成されている――。何も手掛りはない。曖昧朦朧あいまいもうろうとした中に薄気味悪い謎がウジャウジャと充満している。それに、死人がうずもれている地底の世界からも、絶えず紙礫かみつぶてのようなものが、ヒューヒューと打衝ぶつかって来るんだ。しかし、その中に、四つの要素が含まれていることだけは判るんだ。一つは、黙示図に現われている自然界の薄気味悪い姿で、その次は、未だに知られていない半葉を中心とする、死者の世界なんだ。それから三つ目が、既往の三度にわたる変死事件。そして最後が、ファウストの呪文を軸に発展しようとする、犯人の現実行動なんだよ」と、そこでしばらくことばを切っていたが、やがて法水の暗い調子に明るい色が差して、「そうだ支倉君、君にこの事件の覚書を作ってもらいたいのだが。だいたいグリーン殺人事件がそうじゃないか。終り頃になってヴァンスが覚書を作ると、さしもの難事件が、それと同時に奇蹟的な解決を遂げてしまっている。しかし、あれはけっして、作者の窮策じゃない。ヴァン・ダインは、いかに因数ファクターを決定することが、切実な問題であるかを教えているんだ。だからさ。何より差し当っての急務というのが、それだ。因数ファクターだ――さしずめその幾つかを、このモヤモヤした疑問の中から摘出するにあるんだよ」
 それから検事が覚書を作っている間に、法水は十五分ばかりへやを出ていたが、間もなく、一人の私服と前後して戻って来た。その刑事は、館内の隅々までも捜索したにかかわらず、易介の発見がついに徒労に帰したという旨を報告した。法水は眉のあたりをビリビリ動かしながら、
「では、古代時計室と拱廊そでろうかを調べたかね」
「ところが、彼処あすこは」と私服はくびを振って、「昨夜の八時に、執事が鍵を下したままなんですから。しかし、その鍵は紛失しておりません。それから拱廊そでろうかでは、円廊の方の扉が、左側一枚開いているだけのことでした」
「フムそうか」といったん法水はうなずいたが、「ではもう打ち切ってもらおう。けっしてこの建物から外へは出てやしないのだから」と異様に矛盾した、二様の観察をしているかのような、口吻こうふんを洩らすと、熊城は驚いて、
「冗談じゃない。君はこの事件にけばけばしい装幀をしたいんだろうが、なんといっても、易介の口以外に解答があるもんか」と今にも館外からもたらせられるらしい、侏儒こびと傴僂せむしの発見を期待するのだった。こうして、ついに易介の失踪は、熊城の思う壺どおりに確定されてしまったが、続いて法水は、問題の硝子の破片があるという附近あたりの調査と、さらに次の喚問者として、執事の田郷真斎たごうしんさいを呼ぶように命じた。
「法水君、君はまた拱廊そでろうかへ行ったのかね」私服が去ると、熊城はなかば揶揄やゆ気味に訊ねた。
「いや、この事件の幾何学量を確かめたんだよ。算哲博士が黙示図を描いたり、その知られてない半葉を暗示したについては、そこに何か、方向がなけりゃならん訳だろう」と法水はムスッとして答えたが、続いて驚くべき事実が彼の口を突いて出た。「それで、ダンネベルグ夫人を狂人きちがいみたいにさせた、怖ろしい暗流が判ったのだ。実は、電話でこの村の役場を調べたんだが、驚くじゃないか、あの四人の外人は去年の三月四日に帰化していて、降矢木ふりやぎの籍に、算哲の養子養女となって入籍しているんだ。それにまだ遺産相続の手続がされていない。つまり、この館は未だもって、正統の継承者旗太郎の手中には落ちていないのだよ」
「こりゃ驚いた」検事はペンを抛り出して唖然となってしまったが、すぐに指を繰ってみて、「たぶん手続が遅れているのは、算哲の遺言書でもあるからだろうが、あますところもう、法定期限は二ヶ月しかない。それが切れると、遺産は国庫の中に落ちてしまうんだ」
「そうなんだ。だから、そこにもし殺人動機があるものとすれば、ファウスト博士の隠れみの――あの五芒星ペンタグラムマの円が判るよ。しかし、どのみち一つの角度アングルには相違ないけれども、なにしろ四人の帰化入籍というような、思いもつかぬものがあるほどだからね。その深さは並大抵のものじゃあるまい。いや、かえって僕は、それを迂闊うかつに首肯してはならないものを握っているんだ」
「いったい何を?」
先刻さっき君が質問した中の、(一)・(二)・(五)の箇条なんだよ。甲冑かっちゅう武者が階段廊の上へ飛び上っていて――、召使バトラーは聞えない音を聴いているし――、それから拱廊そでろうかでは、ボードの法則が相変らず、海王星のみを証明出来ないのだがね」
 そういう驚くべき独断ドグマを吐き捨てて、法水は検事が書き終った覚書を取り上げた。それには、私見を交えない事象の配列のみが、正確に記述されてあった。

一、死体現象に関する疑問(略)
二、テレーズ人形が現場に残せる証跡について(略)
三、当日事件発生前の動静

一、早朝押鐘津多子の離館。
二、午後七時より八時――。甲冑武者の位置が階段廊上に変り、和式具足の二つの兜が取り替えられている。
三、午後七時頃、故算哲の秘書紙谷伸子が、ダンネベルグ夫人と争論せしと云う。
四、午後九時――。神意審問会中にダンネベルグは卒倒し、その時刻と符合せし頃、易介はその隣室の張出縁に異様な人影を目撃せりと云う。
五、午後十一時――。伸子と旗太郎がダンネベルグを見舞う。その折、旗太郎は壁のテレーズの額を取り去り、伸子はレモナーデを毒味せり。なお、青酸を注入せる洋橙オレンジを載せたものと推察さるる果物皿を、易介が持参せるはその時なれども、肝腎の洋橙については、ついに証明されるものなし。
六、午後十一時四十五分頃。易介は最前の人影が落せしものを見て、裏庭の窓際に行き、硝子の破片並びにファウスト中の一章を記せる紙片を拾う。その間室内には被害者と鎮子のみなり。
七、同零時頃。被害者洋橙を喰す。
 なお、鎮子、易介、伸子以外の四人の家族には、記述すべき動静なし。

四、黒死館既往変死事件について(略)
五、既往一年以来の動向

一、昨年三月四日 四人の異国人の帰化入籍。
一、同 三月十日 算哲は日課書に不可解なる記述を残し、その日魔法書を焚くと云う。
一、同 四月二十六日 算哲の自殺。
 以来館内の家族は不安におびえ、ついに被害者は神意審問法により、その根元をなす者を究めんとす。

六、黙示図の考察(略)
七、動機の所在(略)

 読み終ると法水は云った。
「この箇条書のうちで、第一の死体現象に関する疑問は、第三条の中に尽されていると思う。外見は、いっこう何でもなさそうな時刻の羅列にすぎないよ。しかし、洋橙オレンジが被害者の口の中に飛び込んだ経路だけにでも、きっとフィンスレル幾何の公式ほどのものが、ギュウギュウと詰っているに違いないんだ。それから、算哲の自殺が、四人の帰化入籍と焚書の直後に起っているのにも、注目する価値があると思う」
「いや、君の深奥な解析などはどうでもいいんだ」と熊城は吐き出すような語気で、「そんな事より、動機と人物の行動との間に、大変な矛盾があるぜ。伸子はダンネベルグ夫人と争論をしているし、易介は知ってのとおりだ。それにまた鎮子だっても、易介がへやを出ていた間に、何をしたか判ったものじゃない。ところが、君の云うファウスト博士の円は、まさに残った四人を指摘しているんだ」
「すると、わしだけは安全圏内ですかな」
 その時背後で、異様なしゃがれ声が起った。三人が吃驚びっくりして後を振り向くと、そこには、執事の田郷真斎がいつの間にかはいり込んでいて、大風おおふうな微笑をたたえて見下みおろしている。しかし、真斎があたかも風のごとくに、音もなく三人の背後に現われ得たのも、道理であろう。下半身不随のこの老史学者は、ちょうど傷病兵でも使うような、護謨ゴム輪で滑かに走る手働四輪車の上に載っているからだった。真斎は相当著名な中世史家で、この館の執事を勤めるかたわらに、数種の著述を発表しているので知られているが、もはや七十になんなんとする老人だった。無髯むぜん赭丹しゃたん色をした顔には、顴骨かんこつ突起と下顎骨が異常に発達している代りに、鼻翼の周囲が陥ち窪み、その相はいかにも醜怪で――と云うよりもむしろ脱俗的な、いわゆる胡面梵相こめんぼんそうとでも云いたい、まるで道釈画か十二神将の中にでもあるような、実に異風な顔貌だった。そして、頭に印度帽テュルバンを載せたところといい――そのすべてが、一語で魁異グロテスケリと云えよう。しかし、どこか妥協を許さない頑迷固陋がんめいころうと云った感じで、全体の印象からは、甲羅のような外観みかけがするけれども、そこには、鎮子のような深い思索や、複雑な性格の匂いは見出されなかった。なお、その手働四輪車は、前部の車輪は小さく、後部のものは自転車の原始時代に見るような素晴らしく大きなもので、それを、起動機と制動機とで操作するようになっていた。
「ところで、遺産の配分ですが」と熊城が、真斎の挨拶にも会釈を返さず、性急に口切り出すと、真斎は不遜ふそんな態度でうそぶいた。
「ホウ、四人の入籍を御存じですかな。いかにも事実じゃが、それは個人個人にお訊ねした方がよろしかろう。わしには、とんとそういう点は……」
「しかし、とっくに開封されているじゃありませんか。遺言書の内容だけは、話してしまった方がいいでしょう」熊城はさすがに老練な口穽かまを掛けたけれども、真斎はいっこうに動ずる気色けしきもなく、
「なに、遺言状……ホホウ、これは初耳じゃ」と軽く受け流して、早くも冒頭から、熊城との間に殺気立った黙闘が開始された。法水は最初真斎を一瞥いちべつすると同時に、何やら黙想にふけるかの様子だったが、やがて収斂味しゅうれんみ[#「収斂味しゅうれんみの」は底本では「収歛味しゅうれんみの」]かった瞳を投げて、
「ハハア、貴方は下半身不随パラプレジアですね。なるほど、黒死館のすべてが内科的じゃない。ところで、貴方が算哲博士の死を発見されたそうですが、たぶんその下手人が、誰であるかも御存じのはずですがね」
 これには、真斎のみならず、検事も熊城もいっせいに唖然となってしまった。真斎はがまみたいに両ひじを立てて半身を乗り出し、けるような声を出した。
莫迦ばかな、自殺と決定されたものを……。貴方あんたは検屍調書を御覧になられたかな」
「だからこそです」と法水は追求した。「貴方は、その殺害方法までもたぶん御承知のはずだ。だいたい、太陽系の内惑星軌道半径が、どうしてあの老医学者を殺したのでしょう?」

    二、鐘鳴器カリリヨン讃詠歌アンセムで……

「内惑星軌道半径※(感嘆符疑問符、1-8-78)」このあまりに突飛とっぴな一言に眩惑されて、真斎は咄嵯とっさに答えるすべを失ってしまった。法水は厳粛な調子で続けた。
「そうです。無論史家である貴方は、中世ウェールスを風靡ふうびしたバルダス信経を御存じでしょう。あのドルイデ(九世紀レゲンスブルグの僧正魔法師)の流れをんだ、呪法経典の信条は何でしたろうか(宇宙にはあらゆる象徴瀰漫す。しかして、その神秘的な法則と配列の妙義は、隠れたる事象を人に告げ、あるいは予め告げ知らしむ。)」
「しかし、それが」
「つまり、その分析綜合の理を云うのです。私はある憎むべき人物が、博士を殺した微妙な方法を知ると同時に、初めて、占星術アストロロジイ錬金術アルケミイの妙味を知ることが出来ました。確か博士は、へやの中央で足を扉の方に向け、心臓に突き立てた短剣のつかを固く握り締めて倒れていたのでしたね。しかし、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌道半径を描くと、その中では、他殺のあらゆる証跡が消えてしまうのです」と法水は室の見取図に、別図のような二重の半円を描いてから、
室の見取図に二重の半円を描いた図
「ところで、その前にぜひ知っておかねばならないのは、惑星の記号が或る化学記号に相当するという事なんです。Venusヴィナス が金星であることは御承知でしょうが、その傍ら銅を表わしています。また、Mercuryマーキュリー は、水星であると同時に、水銀の名にもなっているのです。しかし、古代の鏡は、青銅ヴィナスの薄膜の裏に水銀マーキュリーを塗って作られていたのですよ。そうすると、その鏡面に――つまり、この図では金星の後方に当るのですが、それには当然、帷幕とばりの後方から進んで来る犯人の顔が映ることになりましょう。何故なら、金星の半径を水星の位置にまで縮めるということは、素晴らしい殺人技巧であったと同時に、犯行が行われてゆく方向も、また博士と犯人の動きさえも同時に表わしているからなんです。そして、しだいに犯人は、それを中央の太陽の位置にまで縮めてゆきました。太陽は、当時算哲博士が終焉しゅうえんを遂げた位置だったのです。しかし、背面の水銀マーキュリーが太陽と交わった際にいったい何が起ったと思いますか?」
 ああ、内惑星軌道半径縮小を比喩にして、法水は何を語ろうとするのであろうか。検事も熊城も、近代科学の精を尽した法水の推理の中へ、まさかに錬金道士の蒼暗たる世界が、前期化学スパルジリー特有の類似律の原理とともに、現われ出ようとは思わなかった。
「ところで田郷さん、S一字でどういうものが表わされているでしょうか」と法水は、調子をゆるめずに続けた。「第一に太陽、それから硫黄いおうですよ。ところが、水銀と硫黄との化合物は、朱ではありませんか。朱は太陽であり、また血の色です。つまり、扉のきわで算哲の心臓がほころびたのです」
「なに、扉の際で……。これは滑稽な放言じゃ」と真斎は狂ったように、肱掛を叩き立てて、「貴方あんたは夢を見ておる。まさに実状を顛倒した話じゃ。あの時血は、博士が倒れている周囲にしか流れておらなかったのです」
「それは、いったん縮めた半径を、犯人がすぐもとどおりの位置に戻したからですよ。それから、もう一度Sの字を見るのです。まだあるでしょう。悪魔会議日サバスデー立法者スクライブ……。そうです、まさしく立法者なんです。犯人はあの像のように……」と法水は、そこでいったん唇を閉じ、じいっと真斎をみつめながら、次に吐く言葉との間の時間を、胸の中で秘かに計測しているかの様子だった。ところが、突然いきなり頃合を計って、
「あのように、立って歩くことの出来ない人間――それが犯人なんです」と鋭い声で云うと、不思議な事には、それとともに――し難い異状が、真斎に起った。
 それが、始め上体に衝動が起ったと見る間に、両眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらき口を喇叭ラッパ形に開いて、ちょうどムンクの老婆に見るような無残な形となった。そして、絶えず唾をみ下そうとするもののような苦悶の状を続けていたが、そのうちようやく、
「おお、わしの身体を見るがいい。こんな不具者がどうして……」とからくもしゃがれ声を絞り出した。が、真斎には確か咽喉部に何か異常が起ったとみえて、その後も引き続き呼吸の困難に悩み、異様な吃音きつおんとともに激しい苦悶が現われるのだった。その有様を、法水は異常な冷やかさで見やりながら云い続けたが、その態度には、相変らず計測的なものが現われていて、彼は自分のことば速度テンポに、周到な注意を払っているらしい。
「いや、その不具な部分をってこそ、殺人を犯すことが出来たのですよ。僕は貴方の肉体でなく、その手働四輪車と敷物カーペットだけを見ているのです。たぶんヴェンヴェヌート・チェリニ(文芸復興期の大金工で驚くべき殺人者)が、カルドナツォ家のパルミエリ(ロムバルジヤ第一の大剣客)をたおしたという事蹟を御存じでしょうが、腕で劣ったチェリニは、最初敷物カーペットを弛ませて置いて、中途でそれをピインと張らせ、パルミエリが足許を奪われて蹌踉よろめくところを刺殺したのでした。しかし、算哲を斃すためには、その敷物を応用した文芸復興期ルネサンスの剣技が、けっして一場の伝奇ロマーンではなかったのです。つまり、内惑星軌道半径の縮伸というのは、要するに貴方がおこなった、敷物カーペットのそれにすぎなかったのですよ。さて、犯行の実際を説明しますかな」と云ってから、法水は検事と熊城に詰責きっせき気味な視線を向けた。「だいたい何故扉の浮彫を見ても、君達は、傴僂せむしの眼が窪んでいるのに気がつかなかったのだね」
「なるほど、楕円形に凹んでいる」熊城はすぐ立って行って扉を調べたが、はたして法水の云うとおりだった。法水はそれを聴くと、会心のえみを真斎に向けて、
「ねえ田郷さん、その窪んでいる位置が、ちょうど博士の心臓の辺に当りはしませんか。それが、楕円形をしているのですから、護符刀の束頭つかがしらであることは一目瞭然たるものです。そうなると、当然天寿を楽しむよりほかに自殺の動機など何一つなく、おまけにその日は、愛人の人形を抱いて若かった日の憶い出にふけろうとしたほどの博士が、何故扉際とぎわに押し付けられて、心臓を貫いていたのでしょう」
 真斎は声を発することはおろか、依然たる症状を続けて、気力がまさに尽きなんとしていた。蝋白色に変った顔面からはあぶらのような汗が滴り落ち、とうてい正視に耐えぬ惨めさだった。ところが、それにもかかわらず法水は、この残忍な追求をいっかな止めようとはしなかった。
「ところで、ここに奇妙な逆説パラドックスがあるのです。その殺人が、かえって五体の完全な人間には不可能なんですよ。何故なら、ほとんど音の立たない、手働四輪車の機械力が必要だったからで、それがまず、敷物カーペットに波を作って縮め重ねてゆき、終いには、博士を扉に激突させたからでした。何分にも、当時へやは闇に近い薄明りで、右側の帷幕とばりの蔭に貴方が隠れていたのも知らずに、博士は帷幕の左側を排して、召使が運び入れて置いた人形を寝台の上で見、それから、鍵を下しに扉の方へ向ったのでしょう。ところが、それを追うて、貴方の犯行が始まったのでしたね。まずそれ以前に、敷物の向う端をびょうで止め、人形の着衣から護符刀タリズマンを抜いておく――そしていよいよ博士が背後を見せると、敷物カーペットの端をもたげて、縦にした部分を足台で押して速力を加えたので、敷物カーペットにはしわが作られ、勿論その波はしだいに高さを加えたのです。そして、背後から足台を、博士の膝膕窩ひかがみに衝突させる。と、波が横から潰されて、ほとんど腋下に及ぶほどの高さになってしまう。と同時に、いわゆるイエンドラシック反射が起って、その部分に加えられた衝撃が、上膊筋に伝導して反射運動を起すのですから、当然博士は、無意識裡に両腕を水平に上げる。その両脇から博士を後様うしろざまに抱えて、右手に持った護符刀タリズマンを心臓の上に軽く突き立て、すぐにその手を離してしまう。と、博士は思わず反射的に短剣を握ろうとするので、間髪のあいだに二つの手が入れ代って、今度は博士がつかを握ってしまう。そして、その瞬後扉に衝突して、自分が束を握った刃が心臓を貫く。つまり、高齢で歩行ののろい博士に、敷物カーペットに波を作りながら音響を立てずして追い付ける速力と、その機械的な圧進力――。それから、束を握らせるために、両腕を自由にしておかねばならないので、何よりまず膝膕窩ひかがみを刺戟して、イエンドラシック反射を起さねばならない――。そういうすべての要素を具備しているのが、この手働四輪車でして、その犯行は寸秒の間に、声を立てるがなかったほど恐ろしい速度で行われたのでした。ですから、貴方の不具な部分をもってせずには、誰一人博士に、自殺の証跡を残して、息の根を止めることは不可能だったのですよ」
「すると、敷物カーペットの波は何のためだい」熊城が横合から訊ねた。
「それが、内惑星軌道半径の縮伸じゃないか。いったんピリオドにまで縮んだものを、今度は波の頂点に博士のくびを合わせて、敷物カーペットもとどおりに伸ばしていったのだ。だから、つかを握り締めたままで、博士の死体はへやの中央に来てしまったのだよ。勿論、空室あきべやでも、鎖されていたのではないから、ほとんど跡は残らぬし、死後はけっして固く握れるものじゃない。けれども、だいたい検屍官なんてものが、秘密の不思議な魅力に、感受性を欠いているからなんだよ」
 その時、この殺気に充ちた陰気な室の空気をゆすぶって、古風な経文歌モテットを奏でる、わびしい鐘鳴器カリリヨンの音が響いてきた。法水は先刻さっき尖塔の中に錘舌鐘ピール錘舌のある振り鐘)は見たけれども、鐘鳴器カリリヨン鍵盤を押して音調の異なる鐘を叩きピアノ様の作用をするもの)の所在には気がつかなかった。しかし、その異様な対照に気を奪われている矢先だった。それまで肱掛に俯伏うつぶしていた真斎が必死の努力で、ほとんど杜絶とぎれがちながらも、微かな声を絞り出した。
「嘘だ……算哲様はやはりへやの中央で死んでいたのだ……。しかし、この光栄ある一族のために……わしは世間の耳目を怖れて、その現場から取り除いたものがあった……」
「何をです?」
「それが黒死館の悪霊、テレーズの人形でした……背後からおぶさったような形で死体の下になり、短剣を握った算哲様の右手の上に両掌を重ねていたので……それで、衣服を通した出血が少なかったことから……わしは易介に命じて」
 検事も熊城も、もうすくみ上るような驚愕の色は現わさなかったけれども、すでに生存の世界にはないはずの不思議な力の所在が、一事象ごとに濃くなってゆくのを覚えた。しかし、法水は冷然と云い放った。
「これ以上はやむを得ません。僕もこの上進むことは不可能なんですから。博士の死体はとうに泥のような無機物ですし、もう起訴を決定する理由と云えば、貴方の自白以外にないのですからね」
 そう法水が云い終った時だった。その時経文歌モテットが止んだかと思うと、突然思いもよらぬ美しいいとが耳膜を揺りはじめた。遠く幾つかの壁を隔てた彼方で、四つの絃楽器は、あるいは荘厳な全絃合奏コーダとなり、時としてはささやく小川のように、第一提琴ファースト・ヴァイオリンがサマリアの平和を唱ってゆくのだった。それを聴くと、熊城は腹立たしそうに云い放った。
「何だあれは、家族の一人が殺されたと云うのに」
「今日は、この館の設計者クロード・ディグスビイの忌斎日きさいびでして……」と真斎は苦し気な呼吸の下に答えた。「館の暦表の中に、帰国の船中蘭貢ラングーンで身を投げた、ディグスビイの追憶が含まれているのです」
「なるほど、声のない鎮魂楽レキエムですね」と法水は恍惚こうこつとなって云った。「なんだかジョン・ステーナーの作風に似ているような気がする。支倉君、僕はこの事件であの四重奏団クワルテットの演奏が聴けようとは思わなかったよ。サア、礼拝堂へ行ってみよう」
 そうして、私服に真斎の手当を命じて、このへやを去らしめると、
「君は何故なぜ、最後の一歩というところで追求をゆるめたのだ?」と熊城はさっそくになじり掛ったが、意外にも、法水は爆笑を上げて、
「すると、あれを本気にしているのかい」
 検事も熊城も、途端に嘲笑されたことは覚ったけれども、あれほど整然たる条理に、とうていそのままを信ずることは出来なかった。法水は可笑おかしさを耐えるような顔で、続いて云った。
「実をいうと、あれは僕の一番厭な※(「りっしんべん+曷」、第4水準2-12-59)どうかつ訊問なんだよ。真斎を見た瞬間に直感したものがあったので、応急に組み上げたのだったけれど、真実の目的と云えば、実はほかにあったのだ。ただ真斎よりも、精神的に優越な地位を占めたい――というそれだけの事なんだよ。この事件を解決するためには、まずあの頑迷な甲羅を砕く必要があるのだ」
「すると、扉の窪みは」
「二二が五さ。あれは、この扉の陰険な性質を剔抉てっけつしている。また、それと同時に水の跡も証明しているんだ」まさしく仰天に価する逆転だった。グワンと脳天をドヤされたかのように茫然となった二人に、法水はさっそく説明を始めた。「水で扉を開く。つまり、この扉を鍵なくして開くためには、水が欠くべからざるものだったのだ。ところで、最初それと類推させたものを話すことにしよう。マームズベリー卿があらわした『ジョン・デイ博士鬼説』という古書がある。それには、あの魔法博士デイの奇法の数々が記されているのだが、その中で、マームズベリー卿を驚嘆させた隠顕扉の記録が載っていて、それが僕に、水で扉をひらけ――と教えてくれたのだ。勿論一種の信仰療法クリスチャンサイエンスなんだが、まずデイは、おこり患者を附添いといっしょに一室へ入れ、鍵を附添いに与えて扉を鎖さしめる。そして、約一時間後に扉を開くと、鍵が下りているにもかかわらず、扉は化性のものでもあるかのように、スウッと開かれてしまう。そこでデイは結論する――憑神つきがみ半山羊人フォーンのがれたり――と。ところが、まさしく扉の附近には山羊の臭気がするので、それで患者は精神的に治癒されてしまうのだ。ねえ熊城君、その山羊の臭気というものの中に、デイの詐術が含まれているのだよ。ところで、君はたぶん、ランプレヒト湿度計ハイグロメーターにもあるとおりで、毛髪が湿度によって伸縮するばかりでなく、その度が長さに比例する事実も知っているだろう。そこで、試みに、その伸縮の理論を、落し金の微妙な動きに応用して見給え。知ってのとおり、弾条ぜんまいで使用する落し金というのは、元来、打附木材住宅ハーフ・チムバア漆喰壁の上に規則的な木配りで荒削りの木材を打ち附ける英国十八世紀初頭の建築様式)特有のものと云われているのだが、大体が平たい真鍮かんの端に遊離しているもので、その桿の上下によって、支点に近い角体の二辺に沿い起倒する仕掛になっている。そして、支点に近づくほど起倒の内角が小さくなるということは、たぶん簡単な理法だから判っているだろう。そこで、落し金の支点に近い一点を結んで、その紐を、倒れた場合水平となるように張っておき、その線の中心とすれすれに、頭髪の束で結んだ重錘おもりを置いたと仮定しよう。そして、鍵穴から湯を注ぎ込む。すると、当然湿度が高くなるから、毛髪が伸長して、重錘おもりが紐の上に加わってゆき、勿論紐が弓状ゆみなりになってしまう。したがって、その力が落し金の最小内角に作用して、倒れたものが起きてしまうのだ。だから、デイの場合は、それが羊の尿いばりだったろうと思うのだがね。またこの扉では、傴僂せむしの眼の裏面が、たぶんその装置に必要な刳穴こけつだったので、その薄い部分が、頻繁ひんぱんに繰り返される乾湿のために、凹陥を起したに違いないのだよ。つまり、その仕掛を作ったのが算哲で、それを利用して永い間出入りしていた人物と云うのが、犯人に想像されるんだ。どうだね支倉君、これで先刻さっき人形の室で、犯人が何故絲と人形の技巧トリックを遺して置いたのか判るだろう。外側からの技巧トリックばかりを詮索していた日には、この事件は永遠に、扉一つが鎖してしまうのだ。それに、そろそろこの辺から、ウイチグス呪法の雰囲気が濃くなってゆくような気がするじゃないか」
「すると、人形はその時のこぼれた水を踏んだという事になるね」と検事は、引きつれたような声を出した。「もう後は、あの鈴のようなおとだけなんだ。これで犯人を伴った人形の存在は、いよいよ確定されたとみて差支えない。しかし、君の神経がひらめくたびごとに、その結果が、君の意向とは反対の形で現われてしまう。それは、いったいどうしたってことなんだい」
「ウム、僕にもどうもせないんだ。まるで、わなの中を歩いているような気がするよ」と法水にも錯乱した様子が見えると、
「僕はその点が両方に通じてやしないかと思うよ。いまの真斎の混乱はどうだ。あれはけっして看過しちゃならん」とこれぞとばかりに、熊城が云った。
「ところがねえ」と法水は苦笑して、「実は、僕の※(「りっしんべん+曷」、第4水準2-12-59)どうかつ訊問には、妙なことばだが、一種の生理拷問ごうもんとでも云うものが伴っている。それがあったので、初めてあんな素晴らしい効果が生れたのだよ。ところで、二世紀アリウス神学派の豪僧フィリレイウスは、こういう談法論を述べている。霊気ニューマ呼吸の義)は呼気とともに体外に脱出するものなれば、その空虚を打て――と。また、比喩には隔絶したるものを択べ――と。まさに至言だよ。だから、僕が内惑星軌道半径をミリミクロン的な殺人事件に結び付けたというのも、究極のところは、共通した因数ファクターを容易に気づかれたくないからなんだ。そうじゃないか、エディントンの『空間・時・及び引力スペース・タイム・エンド・グレヴィテイション』でも読んだ日には、その中の数字に、てんで対称的な観念がなくなってしまう。それから、ビネーのような中期の生理的心理学者でさえも、肺臓が満ちた際の均衡と、その質量的な豊かさを述べている。無論あの場合僕は、まさに吸気いきを引こうとする際にのみ、激情的な言葉を符合させていったのだが、またそれと同時に、もしやと思った生理的な衝撃ショックも狙っていたのだ。それは、喉頭後筋※(「てへん+畜」、第3水準1-84-85)ミュールマンちくできという持続的な呼吸障害なんだよ。ミュールマンはそれを『老年の原因』の中で、筋質骨化に伴う衝動心理現象と説いている。勿論間歇かんけつ性のものには違いないけれども、老齢者が息を吸い込む中途で調節を失うと、現に真斎で見るとおりの、無残な症状を発する場合があるのだ。だから、心理的にも器質的にも、僕は滅多に当らない、その二つの目を振り出したという訳なんだよ。とにかく、あんな間違いだらけの説なので、いっさい相手の思考を妨害しようとしたのと、もう一つは去勢術なんだ。あのかきの殻を開いて、僕はぜひにも聴かねばならないものがあるからだよ。つまり、僕の権謀術策たるや、ある一つの行為の前提にすぎないのだがね」
「驚いたマキアベリーだ。しかし、そう云うのは?」と検事が勢い込んで訊ねると、法水は微かに笑った。
「冗談じゃないよ、君の方でしたくせに。先刻さっき僕に訊ねた(一)・(二)・(五)の質問を忘れたのかい。それに、あのリシュリュウみたいな実権者は、不浄役人どもに黒死館の心臓を窺わせまいとしている。だからさ、あの男が鎮静注射から醒めた時が、事によるとこの事件の解決かもしれないのだよ」
 法水は相変らず茫漠たるものをほのめかしただけで、それから鍵孔に湯を注ぎ込み、実験の準備をしてから、演奏台のある階下の礼拝堂におもむいた。広間サロンを横切ると、楽のは十字架と楯形たてがた[#「楯形」は底本では「循形」]の浮彫のついた大扉おおどの彼方に迫っていた。扉の前には一人の召使バトラーが立っていて、法水がその扉を細目に開くと、冷やりとした、だが広い空間をわびしげに揺れている、寛闊な空気に触れた。それは、重量的な荘厳なもののみが持つ、不思議な魅力だった。礼拝堂の中には、あかい蒸気の微粒がいっぱいに立ちめていて、そのもやのような暗さの中で、弱い平穏な光線が、どこか鈍い夢のような形で漂うている。その光は聖壇の蝋燭ろうそくから来ているのであって、三稜形をした大燭台の前には乳香がかれ、そのけむりと光とは、火箭かせんのように林立している小円柱を沿上へのぼって行って、頭上はるか扇形おうぎがたに集束されている穹窿きゅうりゅうの辺にまで達していた。楽の音は柱から柱へと反射していって、異様な和声を湧き起し、今にも、列拱アルカードから金色こんじき燦然さんぜんたる聖服をつけた、司教助祭の一群が現われ出るような気がするのであった。が、法水にとってはこの空気が、問罪的な不気味なものとしか考えられなかった。
 聖壇の前には半円形の演奏台がしつらえてあって、そこに、ドミニク僧団の黒と白の服装をした、四人の楽人が無我恍惚の境に入っていた。右端うたんの、不細工な巨石としか見えないチェリスト、オットカール・レヴェズは、そこに半月形のひげでも欲しそうなフックラ膨んだ頬をしていて、体躯たいくの割合には、小さな瓢箪ひょうたん形の頭が載っていた。彼はいかにも楽天家らしく、おまけに、チェロがギターほどにしか見えない。その次席が、ヴィオラ奏者のオリガ・クリヴォフ夫人であって、眉弓が高くまなじりが鋭く切れ、細い鉤形の鼻をしているところは、いかにも峻厳な相貌であった。聞くところによれば、彼女の技量はかの大独奏者、クルチスをも凌駕りょうがすると云われているが、それもあろうか演奏中の態度にも、傲岸ごうがんな気魄と妙に気障きざな、誇張したところがうかがわれた。ところが、次のガリバルダ・セレナ夫人は、すべてが前者と対蹠的な観をなしていた。皮膚が蝋色に透き通って見えて、それでなくても、顔の輪廓が小さく、柔和な緩い円ばかりで、小じんまりと作られている。そして、黒味がちのパッチリした眼にも、凝視するような鋭さがない。総じてこの婦人には、憂鬱などこかに、謙譲な性格が隠されているように思われた。以上の三人は、年齢としごろ四十四、五と推察された。そして、最後に第一提琴ヴァイオリンを弾いているのが、やっと十七になったばかりの降矢木旗太郎だった。法水は、日本中で一番美しい青年を見たような気がした。が、その美しさもいわゆる俳優的な遊惰な媚色びしょくであって、どの線どの陰影の中にも、思索的な深みや数学的な正確なものが現われ出てはいない。と云うのも、そういった叡知えいちの表徴をなすものが欠けているからであって、博士の写真において見るとおりの、あの端正な額の威厳がないからであった。
 法水は、とうてい聴くことは出来ぬと思われた、この神秘楽団の演奏に接することは出来たけれども、彼はいたずらに陶酔のみはしていなかった。と云うのは、楽曲の最後の部分になると、二つの提琴が弱音器を附けたのに気がついたことであって、それがために、低音のげんのみが高く圧したように響き、その感じが、天国の栄光に終る荘厳な終曲フィナーレと云うよりも、むしろ地獄から響いてくる、恐怖と嘆きのうめきとでも云いたいような、実に異様な感を与えたことである。終止符に達する前に、法水は扉を閉じて側の召使バトラーに訊ねた。
「君は、いつもこうして立番しているのかね」
「いいえ、今日が初めてでございます」と召使バトラー自身も解せぬらしい面持だったが、その原因は何となく判ったような気がした。それから、三人がゆったりと歩んで行くうち、法水が口をきって、
「まさにあの扉が、地獄の門なんだよ」とつぶやいた。
「すると、その地獄は、扉の内か外かね」と検事が問い返すと、彼は大きく呼吸をしてから、すこぶる芝居がかった身振で云った。
「それが外なのさ。あの四人は、確かにおびえきっているんだ。もしあれが芝居でさえなければ、僕の想像と符合するところがある」
 鎮魂楽レキエムの演奏は、階段を上りきった時に終った。そして、しばらくの間は何も聞えなかったけれども、それから三人が区劃扉を開いて、現場のへやの前を通る、廊下の中に出た時だった。再び鐘鳴器カリリヨンが鳴りはじめて、今度はラッサスの讃詠アンセムを奏ではじめたのであった(ダビデの詩篇第九十一篇)。

夜はおどろくべきことあり
昼はとびきたる矢あり
幽暗くらきにはあゆむ疫癘えやみあり
日午ひるにはそこなう激しきやまいあり
されどなんじおそることあらじ

 法水はそれを小声で口誦くちずさみながら、讃詠アンセムと同じ葬列のような速度で歩んでいたが、しかし、その音色は繰り返す一節ごとに衰えてゆき、それとともに、法水の顔にも憂色が加わっていった。そして、三回目の繰り返しの時、幽暗くらきには――の一節はほとんど聞えなかったが、次の、日午ひるには――の一節に来ると、不思議な事には、同じ音色ながらも倍音が発せられた。そうして、最後の節はついに聴かれなかったのであった。
「なるほど、君の実験が成功したぜ」と検事は眼を円くしながら、鍵の下りた扉を開いたが、法水のみは正面の壁に背をもたせたままで、暗然と宙をみつめている。が、やがてつぶやくような微かな声で云った。
「支倉君、拱廊そでろうかへ行かなけりゃならんよ。彼処あそこの吊具足の中で、たしか易介が殺されているんだ」
 二人は、それを聴いて思わず飛び上ってしまった。ああ、法水はいかにして、鐘鳴器カリリヨンの音から死体の所在を知ったのであろうか※(感嘆符疑問符、1-8-78)

    三、易介は挾まれて殺さるべし

 ところが、法水のりみずはすぐ鼻先の拱廊そでろうかへは行かずに、円廊を迂回して、礼拝堂の円蓋ドームに接している鐘楼階段の下に立った。そして、課員全部をその場所に召集して、まずそこを始めに、屋上から壁廓上の堡楼ほろうにまで見張りを立て、尖塔下の鐘楼を注視させた。こうしてちょうど二時三十分、鐘鳴器カリリヨンが鳴り終ってからわずかに五分の後には、蟻も洩らさぬ緊密な包囲形が作られたのであった。そのすべてが神速で集中的であり、もう事件がこれで終りを告げるのではないかと思われたほどに、結論めいた緊張の下に運ばれていったのだった。けれども、勿論法水の脳髄を、截ち割って見ないまでは、はたして彼が何事を企図しているのか――予測を許さぬことは云うまでもないのである。
 ところで読者諸君は、法水の言動が意表を超絶している点に気づかれたであろう。それがはたして的中しているや否やは別としても、まさに人間の限界を越さんばかりの飛躍だった。鐘鳴器カリリヨンの音を聴いて、易介の死体を拱廊そでろうかの中に想像したかと思うと、続いて行動に現われたものは、鐘楼を目している。しかし、その晦迷錯綜としたものを、過去の言動に照し合わせてみると、そこに一縷いちる脈絡するものが発見されるのである。と云うのは、最初検事の箇条質問書に答えた内容であって、その後執事の田郷真斎に残酷な生理拷問を課してまでも、なおかつ後刻に至って彼の口から吐かしめんとした、あの大きな逆説パラドックスの事であった。勿論その共変法じみた因果関係は、他の二人にも即座に響いていた。そして、その驚くべき内容が、たぶん真斎の陳述をたずとも、この機会に闡明せんめいされるのではないかと思われるのだった。が、指令を終った後の法水の態度は、また意外だった。再びもとの暗い顔色がんしょくに帰って、懐疑的な錯乱したような影が往来を始めた。それから拱廊そでろうかの方へ歩んで行くうちに、思いがけない彼の嘆声が、二人を驚かせてしまった。
「ああ、すっかり判らなくなってしまったよ。易介が殺されて犯人が鐘楼にいるのだとすると、あれほど的確な証明が全然意味をなさなくなる。実を云うと、僕は現在判っている人物以外の一人を想像していたんだが、それがとんだ場所へ出現してしまった。まさかに別個の殺人ではないだろうがね」
「それじゃ、何のために僕等は引っ張り廻されたんだ?」検事は憤激の色をして叫んだ。「だいたい最初に君は、易介が拱廊の中で殺されていると云った。ところが、それにもかかわらず、その口の下で見当違いの鐘楼を見張らせる。軌道がない。全然無意味な転換じゃないか」
「さして、驚くには当らないさ」と法水は歪んだ笑を作って云い返した。「それと云うのが、鐘鳴器カリリヨン讃詠アンセムなんだよ。演奏者は誰だか知らないが、しだいに音が衰えてきて、最終の一節はついに演奏されなかったのだ。それに最後に聞えた、日午ひるは――のところが、不思議にも倍音(ド・レミ[#「レミ」はママ]・ファと最終のドを基音にした、一オクターヴ上の音階)を発している。ねえ、支倉君、これは、けだし一般的な法則じゃあるまいと思うよ」
「では、とりあえず君の評価をうけたまわろうかね」と熊城が割って入ると、法水の眼に異常な光輝が現われた。
「それが、まさに悪夢なんだ。怖ろしい神秘じゃないか。どうして、散文的に解る問題なもんか」と一旦は狂熱的な口調だったのが、しだいに落着いてきて、「ところで、最初易介が、すでにこの世の人でないとしてだ――勿論何秒か後には、その厳然たる事実が判るだろうと思うが、さてそうなると、家族全部の数に一つの負数があまってしまうのだ。で、最初は四人の家族だが、演奏を終ってすぐ礼拝堂を出たにしても、それから鐘楼へ来るまでの時間に余裕がない。また、真斎はあらゆる点で除外されていい。すると、残ったのは伸子と久我鎮子になるけれども、一方、鐘鳴器カリリヨンの音がパタリと止んだのではなく、しだいに弱くなっていった点を考えると、あの二人がともに鐘楼にいたという想像は、全然当らないと思う、勿論その演奏者に、何か異常な出来事が起ったには違いないけれども、その矢先、讃詠アンセムの最後に聞えた一節が、微かながら倍音を発したのだ。云うまでもなく、鐘鳴器カリリヨンの理論上倍音は絶対に不可能なんだよ。すると熊城君、この場合鐘楼には、一人の人間の演奏者以外に、もう一人、奇蹟的な演奏を行える化性のものがいなければならない。ああ、あいつはどうして鐘楼へ現われたのだろうか?」
「それなら、何故先に鐘楼を調べないのだね?」と熊城がなじり掛ると、法水は、幽に声をふるわせて、
「実は、あの倍音に陥穽かんせいがあるような気がしたからなんだ。なんだか微妙な自己曝露のような気がしたので、あれを僕の神経だけに伝えたのにも、なんとなく奸計たくらみがありそうに思われたからなんだよ。第一犯人が、それほど、犯行を急がねばならぬ理由が判らんじゃないか。それに熊城君、僕等が鐘楼でまごまごしている間、階下の四人はほとんど無防禦なんだぜ。だいたいこんなダダっ広い邸の中なんてものは、どこもかしこも隙だらけなんだ。どうにも防ぎようがない。だから、既往のものは致し方ないにしても、新しい犠牲者だけは何とかして防ぎ止めたいと思ったからなんだ。つまり、僕を苦しめている二つの観念に、各々それぞれ対策を講じておいたという訳さ」
「フム、またお化けか」と検事は下唇を噛みしめて呟いた。「すべてが度外れて気違いじみている。まるで犯人は風みたいに、僕等の前を通り過ぎては鼻を明かしているんだ。ねえ法水君、この超自然はいったいどうなるんだい。ああ徐々だんだんに、鎮子の説の方へまとまってゆくようじゃないか」
 いまだ現実に接していないにもかかわらず、すべての事態が、明白に集束して行く方向を指し示している。やがて、開け放たれた拱廊そでろうかの入口が眼前に現われたが、突当りの円廊に開いている片方の扉が、いつの間にか鎖じられたとみえて、内部なかは暗黒に近かった。その冷やりと触れてくる空気の中で、微かに血の臭気が匂ってきた。それが、捜査開始後、だ四時間にすぎないのである。それにもかかわらず、法水等が暗中摸索を続けているうちに、その間犯人は隠密な跳梁ちょうりょうを行い、すでに第二の事件を敢行しているのだ。
殺人現場の図
 法水は、すぐ円廊の扉を開いて光線を入れてから、左側に立ち並んでいる吊具足の列を見渡しはじめた。が、すぐに「これだ」と云って、中央の一つを指差した。その一つは、萌黄匂もえぎにおいよろいで、それに鍬形くわがた五枚立のかぶとを載せたほか、毘沙門篠びしゃもんしのの両籠罩こて小袴こばかま脛当すねあて鞠沓まりぐつまでもつけた本格の武者装束。面部から咽喉にかけての所は、咽輪のどわ黒漆くろぬりの猛悪な相をした面当めんぼうで隠されてあった。そして、背には、軍配日月じつげつの中央に南無日輪摩利支天なむにちりんまりしてんしたためた母衣ほろを負い、その脇に竜虎の旗差物はたさしものが挾んであった。しかし、その一列のうちに注目すべき現象が現われていたと云うのは、その萌黄匂を中心にして、左右の全部が等しく斜めに向いているばかりでなく、その横向きになった方向が、交互かわるがわる一つ置きに一致していて、つまり、右、左、右という風に、異様な符合が現われている事だった。法水がその面当めんぼうを外すと、そこに易介の凄惨な死相が現われた。はたせるかな、法水の非凡な透視は適中していたのだ。のみならず、ダンネベルグ夫人の屍光と代り合って、この侏儒こびと傴僂せむしは奇怪千万にも、甲冑を着し宙吊りになって殺されている。ああ、ここにもまた、犯人の絢爛けんらんたる装飾癖が現われているのだった。
 最初眼についたのは、咽喉につけられている二条の切創きりきずだった。それを詳しく云うと、合わせた形がちょうど二の字形をしていて、その位置は、甲状軟骨から胸骨にかけての、いわゆる前頸部であったが、創形が楔形くさびがたをしているので、鎧通し様のものと推断された。また、深さを連ねた形状が、「凵」のような形形をしているのも奇様である。上のものは、最初気管の左を、六センチほどの深さに刺してからとうを浮かし、今度は横に浅い切創せっそうを入れて迂廻してゆき、右側にくると、再びそこヘグイと刺し込んで刀を引き抜いている。下の一つもだいたい同じ形だが、その方向だけは斜め下になっていて、創底は胸腔内に入っていた。しかし、いずれも大血管や臓器には触れていず、しかも、巧みに気道を避けているので、勿論即死を起す程度のものではないことは明らかだった。
 それから、天井と鎧の綿貫わたぬきとを結んでいる二条の麻紐を切り、死体を鎧から取り外しに掛ると、続いて異様なものが現われた。それまでは、不自然な部分が咽輪のどわたれで隠されていたので判らなかったのだが、不思議な事に、易介は鎧を横に着ているのだった。すなわち、身体を入れる左脇の引合口の方を背後にして、そこからはみ出した背中の瘤起りゅうきを、幌骨ほろぼね刳形くりがたの中に入れてある。そして、傷口から流れ出たドス黒い血は、小袴から鞠沓まりぐつの中にまで滴り落ちていて、すでに体温は去り、硬直は下顎骨に始まっていて、優に死後二時間は経過しているものと思われた。が、死体を引き出してみると、愕然がくぜんとさせたものがあった。と云うのは、全身にわたり著明な窒息徴候が現われている事で、無残な痙攣けいれんの跡が到る処にゆきわたっているばかりではなく、両眼にも、排泄物にも、流血の色にも、まざまざと一目でうなずけるものが残されていた。のみならず、その相貌は実に無残をきわめ、死闘時の激しい苦痛と懊悩おうのうとが窺われるのだった。が、しかし、気管中にも栓塞せんそくしたらしい物質は発見されず、口腔を閉息した形跡もないばかりか、索痕さっこん扼殺やくさつした痕跡は勿論見出されなかった。
「まさにラザレフ(聖アレキセイ寺院の死者)の再現じゃないか」と、法水はうめくような声を出した。「この傷は死後に付けられているんだよ。それが、とうを引き抜いた断面を見ても判るんだ。通例では、刺し込んだ途端に引き抜くと、血管の断面が収縮してしまうもんだが、これはダラリと咨開しかいしている。それに、これほど顕著な特徴をもった、窒息死体を見たことはないよ。残忍冷酷もきわまっている。――恐らく、想像を絶した怖ろしい方法に違いない。そして、窒息の原因をなしたものが、易介には徐々だんだんと迫っていったのだ」
「それが、どうして判るんだ?」と熊城が不審な顔をすると、法水はその陰惨きわまる内容を明らかにした。
「つまり、死闘の時間が徴候の度に比例するからなんだが、まさにこの死体は、法医学に新しい例題を作ると思うね。だって、その点を考えたらどうしたって、易介がしだいに息苦しくなっていったと想像するよりほかにないじゃないか。たぶん、その間易介は凄惨な努力をして、なんとかして死の鎖を断とうとしたに違いないのだ。しかし、身体は鎧の重量のために活力を失っている。もはやどうすることも出来ない。そうして、空しく最後の瞬間が来るのを待つうちに、たぶん幼少期から現在までの記憶が、電光のようにひらめいて、それが、次から次へと移り変っていったに違いないのだよ。ねえ熊城君、人生のうちでこれほど悲惨な時間があるだろうか。また、これほど深刻な苦痛を含んだ、残忍な殺人方法がまたと他にあるだろうか」
 さすがの熊城も、その思わず眼を覆いたいような光景を想起して、ブルッと身慄みぶるいしたが、「しかし、易介は自分からこの中に入ったのだろうか。それとも犯人が……」
「いや、それが判れば殺害方法の解決もつくよ。第一、悲鳴をあげなかったことが疑問じゃないか」と法水がアッサリ云い退けると、検事は兜の重量でペシャンコになっている死体の頭顱あたまを指差して、彼の説を持ち出した。
「僕はなんだか、兜の重量に何か関係があるような気がするんだ。無論、きずと窒息の順序が顛倒してりゃ、問題はないがね……」
「そうなんだ」と法水は相手の説にうなずいたが、「一説には、頭蓋のサントリニ静脈は、外力をうけてからしばらく後に、血管が破裂すると云うからね。その時は、脳質が圧迫されるので、窒息に類した徴候が表われるそうだよ。しかし、これほど顕著なものじゃない。だいたいこの死体のは、そういった頓死的なものではないのだよ。じわじわと迫っていったのだ。だから、むしろ直接死因には、咽輪のどわの方に意味がありそうじゃないか。無論気管を潰すというほどじゃないが、相当頸部の大血管は圧迫されている。すると、易介がなぜ悲鳴を上げなかったか――判るような気がするじゃないか」
「フム、と云うと」
「いや、結果は充血でなくて、反対に脳貧血を起すのだよ。おまけに、グリージンゲルという人は、それに癲癇てんかん様の痙攣けいれんを伴うとも云っているんだ」と法水はなにげなさそうに答えたけれども、なにやら逆説パラドックスに悩んでいるらしく、苦渋な暗い影が現われていた。熊城は結論を云った。
「とにかく、切創せっそうが死因に関係ないとすると、この犯行は、恐らく異常心理の産物だろう」
「いやどうして」と法水は強くくびを振って、「この事件の犯人ほど冷血な人間が、どうして打算以外に、自分の興味だけで動くもんか」
 それから、指紋や血滴の調査を始めたが、それには、いっこう収穫はなかった。わけても甲冑の内部以外には、一滴のものすら発見されなかったのである。調査が終ると、検事は、法水が透視的な想像をした理由を訊ねた。
「君はどうして、易介がここで殺されているのが判ったのだね」
「無論鐘鳴器カリリヨンの音でだよ」と法水は無雑作に答えた。「つまり、ミルの云う剰余推理さ。アダムスが海王星を発見したというのも、残余の現象は或る未知物の前件である――という、この原理以外にはないことなんだ。だって、易介みたいな化物が姿を消しても、発見されない。そこへ持ってきて、倍音以外にもう一つ、鐘鳴器カリリヨンの音に異常なものがあったからだよ。扉で遮断された現場のへやとは異なって、廊下では、空間が建物の中に通じているのだからね」
「と云うのは……」
「その時残響が少なかったからだよ。だいたい鐘には、洋琴ピアノみたいに振動を止める装置がないので、これほど残響のいちじるしいものはない。それに、鐘鳴器カリリヨンは一つ一つに音色ねいろも音階も違うのだから、距離の近い点や同じ建物の中で聴いていると、後から後からと引き続いて起る音に干渉し合って、終いには、不愉快な噪音そうおんとしか感ぜられなくなってしまうのだ。それを、シャールシュタインは色彩円の廻転にたとえて、初め赤と緑を同時にうけて、その中央に黄を感じたような感覚が起るが、終いには、一面に灰色のものしか見えなくなってしまう――と。まさに至言なんだよ。まして、この館には、所々円天井や曲面の壁や、また気柱を作っているような部分もあるので、僕は混沌としたものを想像していた。ところが、先刻さっきはあんな澄んだが聞えたのだ。外気の中へ散開すれば、当然残響が稀薄になるのだから、その音は明らかに、テラスと続いている仏蘭西フランス窓から入って来る。それを知って、僕は思わず愕然がくっとしたのだ。では何故なぜかと云うと、どこかに、建物の中から広がってくる、噪音を遮断したものがなけりゃならない。区劃扉は前後とも閉じられているのだから、残っているのは、拱廊そでろうかの円廊側に開いている扉一つじゃないか。しかし、先刻さっき二度目に行った時は、確か左手の吊具足側の一枚を、僕は開け放しにしておいたような記憶がする。それに、あそこは他の意味で僕の心臓に等しいのだから、絶対に手をつけぬように云いつけてあるんだ。無論それが閉じられてしまえば、この一劃には、吸音装置が完成して、まず残響に対しては無響室デット・ルームに近くなってしまうからだ。だから、僕等に聞えてくるのは、テラスから入る、強い一つの基音よりほかになくなってしまうのだよ」
「すると、その扉は何が閉じたのだ?」
「易介の死体さ。生から死へ移って行く凄惨な時間のうちに、易介自身ではどうにもならない、この重いよろいを動かしたものがあったのだ。見るとおりに、左右が全部斜めになっていて、その向きが、一つ置きに左、右、左となっているだろう。つまり、中央の萌黄匂もえぎにおいが廻転したので、その肩罩板そでいたが隣りの肩罩を横から押して、その具足も廻転させ、順次にその波動が最終のものにまで伝わっていったのだ。そして、最終の肩罩そで板が把手ノッブを叩いて、扉を閉めてしまったのだよ」
「すると、この鎧を廻転させたものは?」
「それが、かぶと幌骨ほろぼねなんだ」と云って、法水は母衣ほろを取りけ、太い鯨筋げいきんで作った幌骨を指し示した。「だって、易介がこれを通常の形に着ようとしたら、第一、背中の瘤起がつかえてしまうぜ。だから、最初に僕は、易介が具足の中で、自分の背の瘤起をどう処置するか考えてみた。すると思い当ったのは、鎧の横にある引合口ひきあいぐちを背にして、幌骨の中へ背瘤を入れさえすれば、――という事だったのだ。つまり、この形を思い浮べたという訳だが、しかし病弱非力の易介には、とうていこれだけの重量を動かす力はないのだ」
「幌骨と兜?」と熊城は怪訝いぶかしそうに何度となく繰り返すのだったが、法水は無雑作に結論を云った。
「ところで、僕が兜と幌骨と云った理由を云おう。つまり、易介の体が宙に浮ぶと、具足全体の重心が、その上方へ移ってしまう。のみならず、それが一方に偏在してしまうのだ。だいたい、静止している物体が自働的に運動を起す場合というのは、質量の変化か、重点の移動以外にはない。ところが、その原因と云うのが、事実兜と幌骨にあったのだよ。それを詳しく云うと、易介の姿勢はこうなるだろう。脳天には兜の重圧が加わっていて、背の瘤起は、幌骨の半円の中にスッポリとはまり込み、足は宙に浮いている、云うまでもなく、これは非常に苦痛な姿勢に違いないのだ。だから、意識のあるうちは、当然手足をどこかで支えてしのいでいたろうから、その間は重心が下腹部辺りにあるとみて差支えない。ところが、意識を喪失してしまうと、支える力がなくなるので、手足が宙に浮いてしまい、今度は重点が幌骨の部分に移ってしまうのだ。つまり、易介自身の力ではなくて、固有の重量と自然の法則が決定した問題なんだよ」
 法水の超人的な解析力は、今に始まったことではないけれども、瞬間それだけのものを組み上げたかと思うと、馴れきった検事や熊城でさえも、脳天がジインと痳痺しび[#「痳痺」はママ]れゆくような感じがするのだった。法水は続いて云った。
「ところで、絶命時刻の前後に、誰がどこで何をしていたか判ればいいのだがね。しかし、これは鐘楼の調査を終ってからでもいいが……、とりあえず熊城君、傭人やといにんの中で、最後に易介を見た者を捜してもらいたいのだ」
 熊城は間もなく、易介と同年輩ぐらいの召使バトラーを伴って戻ってきた。その男の名は、古賀庄十郎と云うのだった。
「君が最後に易介を見たのは、何時頃だったね」とさっそくに法水が切り出すと、
「それどころか、私は、易介さんがこの具足の中にいたのも存じておりますので。それから、死んでいるという事も……」と気味悪そうに死体から顔をそむけながらも、庄十郎は意外なことばを吐いた。
 検事と熊城は衝動的に眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったが、法水は和やかな声で、
「では、最初からの事を云い給え」
「初めは、確か十一時半頃だったろうと思いますが」と庄十郎は、割合悪怯わるびれのしない態度で答弁を始めた。「礼拝堂と換衣室との間の廊下で、死人色しびといろをしたあの男に出会いました。その時易介さんは、とんだ悪運に魅入られて真先に嫌疑者にされてしまった――と、爪の色までも変ってしまったような声で、愚痴たらたらに並べはじめましたが、私は、ひょいと見るとあまり充血している眼をしておりますので、熱があるのかと訊ねましたら、熱だって出ずにはいないだろうと云って、私の手を持って自分の額に当てがうのです。まず八度くらいはあったろうと思われました。それから、とぼとぼ広間サロンの方へ歩いて行ったのを覚えております。とにかく、あの男の顔を見たのは、それが最後でございました」
「すると、それから君は、易介が具足の中に入るのを見たのかね」
「いいえ、ここにある全部の吊具足が、グラグラ動いておりましたので……たぶんそれが、一時を少し廻った頃だったと思いますが、御覧のとおり円廊の方の扉が閉っていて、内部は真暗でございました。ところが金具の動く微かな光が、眼に入りましたのです。それで、一つ一つ具足を調べておりますうちに、偶然この萌黄匂の射籠罩いごての蔭で、あの男のてのひらを掴んでしまったのです。咄嗟とっさに私は、ハハアこれは易介だなと悟りました。だいたいあんな小男でなければ、誰が具足の中へ身体からだを隠せるものですか。ですからその時、オイ易介さんと声を掛けましたが、返事もいたしませんでした。しかし、その手は非常に熱ばんでおりまして、四十度は確かにあったろうと思われました」
「ああ、一時過ぎてもまだ生きていたのだろうか」と検事が思わず嘆声をあげると、
「さようでございます。ところが、また妙なんでございます」と庄十郎は何事かを仄めかしつつ続けた。「その次はちょうど二時のことで、最初の鐘鳴器カリルロンが鳴っていた時でございましたが、田郷さんを寝台にかしてから、医者に電話を掛けに行く途中でございました。もう一度この具足の側に来てみますと、その時は易介さんの妙な呼吸使いが聞えたのです。私はなんだか薄気味悪くなってきたので、すぐに拱廊そでろうかを出て、刑事さんに電話の返事を伝えてから、戻りがけにまた、今度は思いきっててのひらに触れてみました。すると、わずか十分ほどの間になんとしたことでしょう。その手はまるで氷のようになっていて、呼吸いきもすっかり絶えておりました。私は仰天して逃げ出したのでございます」
 検事も熊城も、もはや言葉を発する気力は失せたらしい。こうして庄十郎の陳述によって、さしも法医学の高塔が、無残な崩壊を演じてしまったばかりでない。円廊に開いている扉の閉鎖が、一時少し過ぎだとすると、法水の緩窒息説も根柢からくつがえされねばならなかった。易介の高熱を知った時刻一つでさえ、推定時間に疑惑を生むにもかかわらず、一時間という開きはとうてい致命的だった。のみならず、庄十郎の挙げた実証によって解釈すると、易介はわずか十分ばかりの間に、ある不可解な方法によって窒息させられ、なおその後に咽喉のどを切られたと見なければならない。その名状し難い混乱の中で、法水のみは鉄のような落着きを見せていた。
「二時と云えば、その時鐘鳴器カリリヨン経文歌モテットが奏でられていた……。すると、それから讃詠アンセムが鳴るまでに三十分ばかりの間があるのだから、前後の聯関には配列的に隙がない。事によると鐘楼へ行ったら、たぶん易介の死因について、何か判ってくるかもしれないよ」と独白じみた調子でつぶやいてから、「ところで、易介には甲冑の知識があるだろうか」
「ハイ、手入れは全部この男がやっておりまして、時折具足の知識を自慢げに振り廻すことがございますので」
 庄十郎を去らせると、検事はそれを待っていたように云った。
「ちと奇抜な想像かもしれないがね。易介は自殺で、このきずは犯人が後で附けたのではないだろうか」
「そうなるかねえ」と法水は呆れ顔で、「すると、事によったら吊具足は、一人で着られるかもしれないが、だいたい兜の忍緒しのびおを締めたのは誰だね。その証拠には、他のものと比較して見給え。全部正式な結法で、三乳みつぢから五乳いつぢまでの表裏二様――つまり六とおりの古式によっている。ところが、この鍬形五枚立の兜のみは、甲冑に通暁している易介とは思われぬほど作法はずれなんだ。僕がいま、この事を庄十郎に訊ねたと云うのも、理由はやはり君と同じところにあったのだよ」
「だが男結びじゃないか」と熊城が気負った声を出すと、
「なんだ、セキストン・ブレークみたいなことを云うじゃないか」と法水は軽蔑的な視線を向けて、「たとえ男結びだろうと、男がいた女の靴跡があろうとどうだろうと……、そんなものが、この底知れない事件で何の役に立つもんか。これはみな、犯人の道程標みちしるべにすぎないんだよ」と云ってから懶気ものうげな声で、
「易介は挾まれて殺さるべし――」と呟いた。
 黙示図において、易介の屍様を預言しているその一句は、誰の脳裡にもあることだったけれども、妙に口にするのをはばむような力を持っていた。続いて、引き摺られたように検事も復誦したのだったが、その声がまた、この沼水のような空気を、いやが上にも陰気なものにしてしまった。
「ああ、そうなんだ支倉君、それが兜と幌骨――なんだよ」と法水は冷静そのもののように、「だから、一見したところでは、法医学の化物みたいでも、この死体に焦点が二つあろうとは思われんじゃないか。むしろ、本質的な謎というのは、易介がこの中へ、自分の意志で入ったものかどうかということと、どうして甲冑を着たか……つまり、この具足の中に入る前後の事情と、それから、犯人が殺害を必要としたところの動機なんだ。無論僕等に対する挑戦の意味もあるだろうが」
莫迦ばかな」熊城は憤懣ふんまんの気をめて叫んだ。「口をふさぐよりも針を立てよ――じゃないか。見え透いた犯人の自衛策なんだ。易介が共犯者であるということは、もうすでに決定的だよ。これがダンネベルグ事件の結論なんだ」
「どうして、ハプスブルグ家の宮廷陰謀じゃあるまいし」と法水は再び、直観的な捜査局長を嘲った。
共犯者を使って毒殺を企てるような犯人ならとうに今頃、君は調書の口述をしていられるぜ」
 それから廊下の方へ歩み出しながら、
「さて、これから鐘楼で、僕の紛当まぐれあたりを見ることにしよう」
 そこへ、硝子の破片がある附近の調査を終って、私服の一人が見取図を持って来たが、法水は、その図で何やら包んであるらしい硬い手触りに触れたのみで、すぐ衣嚢ポケットに収め鐘楼におもむいた。二段に屈折した階段を上りきると、そこはほぼ半円になった鍵形の廊下になっていて、中央と左右に三つの扉があった。熊城も検事も悲壮に緊張していて、わなの奥にうずくまっているかもしれない、異形いぎょうな超人の姿を想像しては息をめた。ところが、やがて右端の扉が開かれると、熊城は何を見たのか、ドドドッと右手に走り寄った。壁際にある鐘鳴器カリリヨンの鐘盤の前では、はたせるかな紙谷伸子が倒れていたのだ。それが、演奏椅子に腰から下だけを残して、そのままの姿で仰向けとなり、右手にしっかりと鎧通よろいどおしを握っているのだった。
「ああ、こいつが」と熊城は何もかも夢中になって、伸子の肩口を踏みにじったが、その時法水が中央の扉を、ほとんど放心の態で眺めているのに気がついた。卵色の塗料の中から、ポッカリ四角な白いものが浮き出ていた。近寄ってみると、検事も熊城も思わず身体がすくんでしまった。その紙片には……
 Sylphusジルフス Verschwindenフェルシュヴィンデン風精ジルフスよ消え失せよ)
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  第三篇 黒死館精神病理学
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    一、風精ジルフス……異名エーリアスは?

Sylphusジルフス Verschwindenフェルシュヴィンデン風精ジルフスよ。消え失せよ)
 鐘鳴器カリリヨン室に三つあるうちの、中央の扉高くに、彼等の凝視を嘲り返すかのごとく白々しい色で、再びファウストの五芒星呪文の一句が貼り附けられてあった。のみならず、Sylpheジルフェ の女性をそれにもまた男性化しているばかりでなく、再び古愛蘭アイリッシュのような角張ったゴソニック文字で、それには筆者の性別は愚かなこと毛のような髯線ぜんせん一筋にさえ、筆蹟の特徴を窺うことは許されなかったのである。あの緊密な包囲形をどう潜り抜けたものか、また伸子が犯人で、法水のりみずの機智から発した包囲を悟り、絶体絶命の措置そちに出たものであろうか……。いずれにしろここで、皮肉な倍音演奏をした悪魔を決定しなければならなかった。
「これは意外だ。失神じゃないか」伸子の全身をスラスラ事務的に調べ終ると、法水は熊城くましろの靴をジロリと見て、「微かだが心動が聞えるし、呼吸も浅いながら続けている。それに、このとおり瞳孔反応もしっかりしてるぜ」
 そう法水に宣告されてしまうと、つい今しがた此奴こやつとばかりに肩口を踏みにじった熊城でさえ、そろそろ自分の軽挙が悔まれてきた。と云うのは、勿論鎧通よろいどおしを握って、此の人を見よエッケ・ホモ――とばかりにのけ反りかえっている、紙谷伸子かみたにのぶこの姿体だったのである。それまでは、幽鬼の不敵な暗躍につれて、おどろと跳ね狂う、無数の波頭を見るのみであって、事件の表面には人影一つ差してこなかった。そこへ、一条の泡がスウッと立ち上っていったのだが、それが水面で砕けたと思えば、突忽とっこつとして現われたのは何あろう、現在のあたり見る鬼蓮おにばすなのである。それであるからして、熊城でさえも一時の亢奮こうふんめるにつれて、いろいろと疑心暗鬼的な警戒を始めたのも無理ではなかった。まったく、意表を絶したこの体態ていたらくを見ては、かえって反対の見解が有力になってゆくではないか。易介の咽喉をえぐったと目されている短剣を握り締めて、伸子はこれをとばかりに示しているけれども、一方それ以上厳密に、失神するまでの経路が吟味されねばならない。結論はその一つだった。王妃ブズールが唱えば、雨となって降り下って来る――黒人ニグロの penis に、とうとうこの事件の倒錯性が狂い着いてしまったのである。
 さてここで、鐘鳴器カリリヨン室の概景を説明しておく必要があると思う。前篇にも述べたとおり、その室は礼拝堂の円蓋ドームに接していて、振鐘ピールのある尖塔の最下部に当っていた。そして、階段をあがりきった所は、ほぼ半円をなした鍵形の廊下になっていて、中央――すなわち半円の頂天とその左右に三つの扉があり、なお、室内に入ってから気づいたことであったが、当時左端の一つのみが開かれていた。そこ一帯の壁面を室内から見ると、それが、音響学的に設計されているのが判る。一口に云えばおおきな帆立貝であって、凹状の楕円と云ったら当るかもしれない。たぶんここに鐘鳴器カリリヨンを具えるまでは、四重奏団クワルテットの演奏室に当てられていたのであろうが、したがって中央の扉にも、外観上位置的に不自然であるばかりでなく、後から壁を切って作られたらしい形跡が残っていた。またその一つのみが素晴らしく大きなもので、ほとんど三メートルを越すかと思われるほどの高さだった。そこから、向う側の壁までの間は、がらんとした側柏てがしわの板張りだった。そして、鐘鳴器カリリヨンの鍵盤は、壁を刳形くりがたに切り抜いて、その中に収められてある。三十三個の鐘群はそれぞれの音階に調律されていて、すぐ直前の天井に吊されているが、それが鍵盤キイ蹈板ペダルとによって……その昔カルヴィンが好んで耳を傾け、またネーデルランドの運河の水に乗ると、風車が独りでに動くとか伝えられる、あの物寂びた僧院的な音を発する仕掛になっていた。しかし、音響学的な構造は天井にも及んでいて、楕円形の壁面から鍵盤キイにかけて緩斜をなしている。しかもそれがちょうど響板のように、中央に丸孔が空き、その上が長い角柱形の空間になっていた。そして、その両端が、先刻さっき前庭ぜんていから見た、十二宮の円華窓えんげまどだった。おまけに、黄道上の星宿が描かれている、絵齣えごまの一つ一つが、本板から巧妙な構造で遊離しているので、その周囲には、一辺を除いて細い空隙が作られ、しかも、空気の波動につれて微かに振動する。それがなんとなく楽玻璃グラス・ハーモニカのようでもあるが、とにかく、その狭間はざまを通過する音は、恐らく弱音器でもかけられたように柔げられるであろうから、鐘鳴器カリリヨン特有の残響や、また、協和絃をなしている音ならば、どんなに早い速度で奏したにしても、ある程度までは混乱を防ぎ得るのである。この装置は三十三個の鐘群も同様で、ベルリンのパロヒアル寺院を模本としたものであるが、パロヒアル寺院では、反対にそれが、礼拝堂の内部に向けて作られてある。こうして、法水の調査は円華窓附近にも及んだけれど、わずかに知ったのは、その外側を、尖塔に上る鉄梯子がよぎっているという一事のみであった。
 やがて、法水は私服に命じて戸外に立たしめ、自分は種々と工夫を凝らして鍵盤キイを押し、何より根本の疑義であるところの倍音を証明しようとしたが、その実験はついに空しく終ってしまった。結局、鐘鳴器カリリヨンで奏し得る音階が、二オクターヴにすぎないということと、それに、先刻さっき聴いた倍音というのが、その上の音階であるという――二つが明らかにされたのみであった。かつて聖アレキセイ寺院の鐘声にも、これとよく似た妖怪的な現象が現われたことがあった。けれども、それは単なる機械学的な問題で、つまり振り鐘の順序にすぎなかったのである。ところが、今度はそれと異なって、第一に三十あまりの音階を決定している――換言すれば、物質構成の大法則であるところの鐘の質量に、そもそも根本の疑惑がこもっているのだ。それゆえ、詮じ詰めてゆくと、結局鐘の鋳造成分を否定するか、それとも、楽音を虚空からつかみ上げた、精霊的な存在があったのではないか――と云うような、極端な結論に行き着いてしまうのも、やむを得ないのであった。こうして、倍音の神秘がいよいよ確定されてしまうと、法水には痛々しい疲労の色が現われ、もはや口を聴く気力さえ尽き果てたように思われた。しかし、考えようによっては、より以上の怪態けたいと思われる伸子の失神に、もう一度神経を酷使せねばならぬ義務が残っていた。その頃はもう日没が迫っていて、壮大な結構は幽暗うすやみの中に没し去り、わずかに円華窓から入って来る微かな光のみが、冷たい空気の中で陰々とゆらめいていた。その中で、時折翼のような影がよぎって行くけれども、たぶん大鴉おおがらすの群が、円華窓の外をかすめて、尖塔の振鐘ピールの上に戻って行くからであろう。
 ところで伸子の状態についても、細叙の必要があると思う。伸子は丸形の廻転椅子に腰だけを残して、そこから下はやや左向きになり、上半身はそれと反対に、幾分右方みぎかたに傾いていて、ガクリと背後にのけ反っている。その倒辺三角形に似た形を見ても、彼女は演奏中に、その姿のままで後方へ倒れたものであることは明らかだった。しかし、不思議な事には、全身にわたっての毛ほどの傷もなく、ただ床へ打ち当てた際に、出来たらしい皮下出血の跡が、わずか後頭部に残されているのみだった。また中毒とおぼしい徴候も現われていない。両眼も※(「目+爭」、第3水準1-88-85)ひらいているが、活気なくものうそうに濁っていて、表情にも緊張がなく、それに、下あごだけが開いているところと云い、どことなく悪心おしんとでも云ったら当るかもしれない、不快気な表情が残っているように思われた。全身にも、単純失神特有の徴候が現われていて、痙攣けいれんの跡もなく、綿のように弛緩しているけれども、不審な事には、ほんのりあぶらが浮いている鎧通しだけは、かなり固く握り締めていて、腕を上げて振ってみても、いっこうに掌から外れようとはしない。総体として失神の原因は、伸子の体内に伏在しているものと、思うよりほかにないのであった。法水は心中決するところがあったとみえて、伸子を抱き上げた私服に云った。
「本庁の鑑識医にそう云ってくれ給え。――第一、胃洗滌せんできをやるように。それから胃中の残留物と尿の検査する事と、婦人科的な観察だ。またもう一つは、全身の圧痛部と筋反射を調べる事なんだ」
 そうして、伸子が階下に運ばれてしまうと、法水は一息たばこけむりをグイとい込んでから、
「ああ、この局面シチュエーションは、僕にとうてい集束出来そうもないよ」と弱々しい声でつぶやくのだった。
「だが、伸子の身体に現われているものだけは簡単じゃないか。なあに、正気に戻れば何もかも判るよ」検事は無雑作に云ったが、法水は満面に懐疑をみなぎらせてなおも嘆息を続けた。
「いやどうして、錯雑顛倒しているところは相変らずのものさ。かえってダンネベルグ夫人や、易介よりも難解かもしれない。それが、意地悪く徴候的なものじゃないからだよ。いっこう何もないようでいて、そのくせ矛盾だらけなんだ。とにかく、専門家の鑑識を求めることにしたよ。僕のような浅い知識だけで、どうしてこんな化物みたいな小脳の判断が出来るもんか。なにしろ、筋覚伝導の法則が滅茶滅茶に狂っているんだから」
「しかし、こんな単純なものを……」と熊城が、異議を述べ立てようとすると、法水はいきなり遮って、
「だって内臓にも原因がなく、中毒するような薬物も見つからないとなった日には、それこそ風精天蝎宮ジルフェスコルピオ運動神経を管掌す)へ消え失せたり――になってしまうぜ」
「冗談じゃない、どこに外力的な原因があるもんか。それに痙攣けいれんはないし、明白な失神じゃないか」今度は検事がいがみ掛った。「どうも君は、単純なものにも紆余うよ曲折的な観察をするので困るよ」
「勿論明白なものさ。しかし、失神トランス――だからこそなんだ。それが精神病理学の領域にあるものなら、古いペッパーの『類症鑑別』一冊だけで、ゆうに片づいてしまうぜ。無論癲癇てんかんでもヒステリー発作でもないよ。また、心神顛倒エクスタシーは表情で見当がつくし、類死カタレプシー病的半睡モービッド・ソムノレンス電気睡眠エレクトリッシュ・シュラフズフトでもけっしてないのだ」と云って、法水はしばらく天井を仰向いていたが、やがて変化のない裏声で云った。
「ところが支倉はぜくら君、失神が下等神経に伝わっても、そういう連中が各々めいめい勝手気儘きままな方向に動いている――それはいったい、どうしたってことなんだい。だから、僕はこういう信念も持たされてしまったのだ。例えば、鎧通しを握っていたことに、有利な説明が付いたとしてもだよ。そうなっても倍音の神秘があばかれない限りは、当然失神の原因に、自企的な疑いを挾まねばならない――とね。どうだい?」
「そりゃ神話だ。マアしばらく休んだ方がいいよ。君は大変疲れているんだ」と熊城はてんで受付けようとはしなかったが、法水はなおも夢見るような調子で続けた。
「そうだ熊城君、事実それは伝説に違いないのだ。ネゲラインの『北欧伝説学』の中に、その昔漂浪楽人スカルドが唱い歩いたとか云う、ゼッキンゲン侯リュデスハイムの話が載っているんだ。時代はフレデリック(第五)十字軍の後だがマア聴いてくれ給え。――歌唱詩人バルドオスワルドは、ヴェントシン(ヒヨスの毛茸ならんと云わる)を入れたる酒を飲むと見る間に、抱琴クロッチを抱ける身体波のごとくに揺ぎはじめ、やがて、妃ゲルトルーデの膝に倒る。リュデスハイムは、かねてカルパトス島(クリート島の北方)の妖術師レベドスよりして、ヴェニトシン向気こうきの事を聴きいたれば、ただちにこうべを打ち落し、かばねとともに焚き捨てたり――と。これは漂浪楽人スカルド中の詩王イウフェシススの作と云われているが、これを史家ベルフォーレは、十字軍によって北欧に移入された純亜剌比亜アラブ加勒泥亜カルデア呪術の最初の文献だと云い、それがつちかってはなと結んだのがファウスト博士であって、彼こそは中世魔法精神の権化であると結論しているのだ」
「なるほど」と検事は皮肉に笑って、「五月になれば、林檎りんごの花が咲き、城内の牛酪ぎゅうらく小屋からは性慾的な臭いが訪れて来る。そうなれば、なにしろ亭主が十字軍に行っているのだからね。その留守中に、貞操帯の合鍵をこしらえて、奥方が抒情詩人ミンネジンゲル春戯いちゃつくのもやむを得んだろうよ。だがただしだ。その方向を殺人事件の方に転換してもらおう」
 法水は半ば微笑みながら、沈痛な調子で云い返した。
ずさんだよ支倉君、君は検事のくせに、病理的心理の研鑽をおろそかにしている。もしそうでなければ、『古代丁抹伝説集パムペピサウ』などの史詩に現われている妖術精神や、その中に、黴毒ばいどく癲癇てんかん性の人物などがさかんに例証として引かれている――そのくらいの事は、当然憶えてなければならないはずだよ。ところでこのリュデスハイムものがたりは、別に引証されてはいないけれども、メールヒェンの『朦朧状態デームメル・シュテンデ』を読むと、詩で唱われたオスワルドの喪神状態が、それには科学的に説明されている。その中の単純失神の章に、こうあるのだよ。失神が起ると、大脳作用が一方的に凝集するために、執意はたちまち消え失せてしまって、全身に浮揚感が起ってくる。しかし、一方小脳の作用が停止するのは、やや後であるために、その二つが力学的に作用し合って、無論わずかな間だけれども、全身に横波をうけたような動揺を起す――と云うのだ。ところが、伸子の身体は、その際に自然の法則を無視してしまって、かえって反対の方向に動いているのだよ」と伸子が腰を下していた廻転椅子を、クルッと仰向けにして、その廻転心棒を指差した。「ところで支倉君、僕はいま自然の法則なぞと大袈裟おおげさに云ったけれども、たかがこの椅子の廻転にすぎないのだよ。螺旋らせんの方向は、これで見るとおりに、右捻みぎねじだ。そして、心棒が全く螺旋孔ねじあなの中に没し去っていて、右へ低くなってゆく廻転は、すでに極限まで詰っている。しかし、一方伸子の肢態したいを考えると、腰を座深めに引いて、そこから下の下肢の部分はやや左向きとなり、上半身はそれとは反対に、幾分右へ傾いているのだ。まさにその形は、わずかほど左の方へ廻転しながら倒れたものに違いない。これは、明らかに反則的だ。何故なら、左の方へ廻転すれば、当然椅子が浮いてこなければならないからだ」
「曖昧な反語はいかん」熊城が難色を現わすと、法水はあらゆる観察点を示して、矛盾を明らかにした。
「勿論現在のこの形を、最初からのものとは思っちゃいないさ。しかし、例えば螺旋に余裕があったにしてもだ。失神時の横揺よこぶればかりを考えて、それ以外に重量という、垂直に働く力があるのを忘れちゃならん。それがあるので、動揺しながらも、しだいにその方向が決定されてゆく。つまりその振幅が、低下してゆく右の方向へ大きくなるのが当然じゃないか。さらにまた、もう一案引き出して、今度は右へ大きく一廻転してから、現在の位置で螺旋が詰ったものと仮定しよう。けれども、その廻転の間に、当然遠心力が働くだろうからね。したがって、ああいう正座に等しい形が、とうてい停止した際に求められよう道理はないと思うよ。だから熊城君、椅子の螺旋と伸子の肢態かたちを対照してみると、そこに驚くべき矛盾が現われてくるのだ」
「あ、意志の伴った失神……」と検事は惑乱気味に嘆息した。
「それがもし真実ならば、グリーン家のアダさ。だから……」と法水は両手を後に組んで、こつこつ歩き廻りながら、「僕だって故なしに、胃洗滌いせんできや尿の検査なんぞやらせやしないぜ。勿論問題と云うのは、そういう自企的な材料が、発見されなかった場合にあるのだよ」と鍵盤キイの前で立ち止って、それをてのひらでグイと押し下げて云った。その行為は、異説の所在を暗示しているのであった。
「このとおりだよ。鐘鳴器カリルロンの演奏には、女性以上の体力が必要なんだ。簡単な讃詠アンセムでも三度も繰り返したら、たいていヘトヘトになるにきまってるよ。だから、あの当時音色がしだいに衰えて行ったけれども、たぶんその原因が、この辺にありゃしないかと思うのだ」
「すると、その疲労に失神の原因が?」と熊城はあえぎ気味に訊ねた。
「ウン疲労時の証言を信ずるな――とシュテルンが云うほどだからね。そこへ何か、予想外の力が働いたとしたら、まさしく絶好な状態には違いないのだ。ただし何もかも、倍音発生の原因が証明された上でだ。あれは確かに、不在証明アリバイ中の不在証明アリバイじゃないか」
「では、伸子の弾奏術としてでかい」と検事は驚いて問い返した。「僕はとうてい、あの倍音が鐘だけで証明出来ようとは思わんがね。それより手近な問題は、鎧通しを伸子が握らされたかどうか――にあると思うのだ」
「いや、失神してからは、けっして固く握れるものじゃない」と法水は再び歩きはじめたが、すこぶる気のない声を出した。「勿論それには異説もあるので、僕は専門家の鑑定を求めたのだよ。それに、易介の死とも時間的に包括されている。召使バトラーの庄十郎は、当然絶命後一時間と思われる二時に、易介の呼吸を明らかに聴いた――と陳述しているんだが、その時刻には、伸子が経文歌モテットを奏でていた。そうすると、最後の讃詠アンセムを弾くまでの二十分あまりの間に、易介の咽喉のどを切り、そうして失神の原因を作ったと見なけりゃならない。僕は、そこへ反証があがりゃしないかと、そればかりおそれているところなんだよ。だいたい、包囲形を作って絞り出した結果というのが、[#ここから横組み]2−1=1にひくいちはいち[#ここで横組み終わり]の解答じゃないか。しかし、倍音が……倍音が?」
 無論それ以上は混沌の彼方にあった。法水は必死の精気をらしてすべてを伸子に集注しようとした。かつての「コンスタンス・ケント事件」や「グリーン殺人事件」等の教訓が、この場合、反覆的な観察を使嗾しそうしてくるからである。けれども、百花千弁の形に分裂している撞着の数々は、法水の分析的な個々の説にも、確固たる信念を築かせない。いかにも、外面は逆説反語を巧みにもてあそんでいて、壮大な修辞で覆うている。けれども、説き去るかたわら新しい懐疑が起って、彼は呪われた和蘭オランダ人のように、困憊彷徨こんぱいほうこうを続けているのだ。そして、ついに問題が倍音にき当ってしまうと、法水は再び異説のために引き戻されねばならなかった。突然彼は、天来の霊感でも受けたかのように、異常な光輝を双眼にうかべて立ち止った。
「支倉君、君の一言が大変いい暗示を与えてくれたぜ。君が、倍音はこの鐘のみでは証明出来まい――と云ったことは、とどの詰りが、演奏の精霊主義オクルチスムスに代る何物かを捜せ――という事だ。つまり、どこか他の場所に、響石か木片楽器めいたものでもあれば、それを音響学的に証明しろ――という意味にもなる。それに気が附いたので、僕は往昔マグデブルグ僧正館の不思議と唱われた、『ゲルベルトの月琴タムブル』――の故事を憶い出したよ」
「ゲルベルトの月琴タムブル※(感嘆符疑問符、1-8-78)」検事は法水の唐突な変説に狼狽ろうばいしてしまった。「いったい月琴タムブルなんてものが、鐘の化物ばけものにどんな関係があるね」
「そのゲルベルトと云うのが、シルヴェスター二世だからさ。あの呪法典を作ったウイチグスの師父に当るんだ」と法水は気魄のもった声で叫んだ。そして、床に映ったおぼろな影法師をみつめながら、夢幻的な韻を作って続ける。
「ところでペンクライク(十四世紀英蘭の言語学者)が編纂した『ツルヴェール史詩集成』の中に、ゲルベルトに関する妖異譚が載っている。勿論当時のサラセン嫌悪の風潮で、ゲルベルトをまるで妖術師扱いにしているのだが、とにかくその一節を抜萃ぬきだしてみよう。一種の錬金抒情詩アルケミー・リリックなんだよ。

ゲルベルト畢宿七星アルデパランを仰ぎ眺めて
平琴ダルシメルを弾ず
はじめ低絃をはじきてのち黙す
しかるにその寸後しばしのち
かたわら月琴タムブルは人なきに鳴り
もののの声の如く、高き絃音にてこた
されば
傍人かたわらのひと、耳を覆いてのがれ去りしとぞ

 ところが、キイゼヴェッテルの「古代楽器史」を見ると、月琴タムブルは腸線楽器だが、平琴ダルシメルの十世紀時代のものになると、腸線の代りに金属線が張られていて、その音がちょうど、現在の鉄琴グロッケンシュピールに近いと云うのだがね。そこで、僕はその妖異譚の解剖を試みたことがあった。ねえ熊城君、中世非文献的史詩と殺人事件との関係つながりを、ここで充分咀嚼そしゃくしてもらいたいと思うのだよ」
「フン、まだあるのか」と熊城は、つばきで濡れたたばことともに、吐き出すように云った。「もう角笛や鎖帷子かたびらは、先刻さっき人殺し鍛冶屋ヴェンヴェヌート・チェリニで終りかと思ったがね」
「あるともさ。それが、史家ヴィラーレの綴った、『ニコラ・エ・ジャンヌ』なんだ。奇蹟処女ジャンヌ・ダルクを前にすると、顧問判官どもがブルブルふるえだして、実に奇怪きわまる異常神経を描き出したのだ。その心理を、後世裁判精神病理学の錚々そうそうたる連中が何故引用しないのだろうと、僕はすこぶる不審に思っているくらいなんだよ。ところで、この場合は、すこぶる妖術的な共鳴現象を思いついたのだ。つまり、それを洋琴ピアノで喩えて云うと、最初音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜キイを音の出ないように軽く押さえて、それから音名「い」の全音符を表わす楽譜の鍵を強く打ち、その音が止んだ頃に音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜キイを押さえた指を離すと、それからは妙に声音的な音色で、音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜の音が明らかに発せられる。無論共鳴現象だ。つまり、音名「い」の全音符を表わす楽譜の音の中には、その倍音すなわち二倍の振動数を持つ音名「一点ハ」の全音符を表わす楽譜の音が含まれているからなんだが、しかしそういう共鳴現象を鐘に求めるということは、理論上全然不可能であるかもしれない。けれども、それからまた要素的な暗示が引き出せる。と云うのが、擬音なんだよ。熊城君、君は木琴シロフォーンを知っているだろう。つまり、乾燥した木片なり、ある種類の石を打つと、それが金属性の音響を発するということなんだ。古代支那には、編磬ピエンチンのような響石楽器や、方響ファンシアンのような扁板打楽器があり、古代インカの乾木鼓テポナットリやアマゾン印度人インディアンの刃形響石も知られている。しかし、僕が目指しているのは、そういう単音的なものや音源を露出した形のものじゃないのだ。ところで君達は、こういう驚くべき事実を聴いたらどう思うね――。孔子こうししゅんの韻学の中に、七種の音を発する木柱のあるのを知って茫然となったと云う。また、秘露ペルートルクシロの遺跡にも、トロヤ第一層都市遺跡(紀元前一五〇〇年時代すなわち落城当時)の中にも、同様の記録が残されている……」と該博な引証を挙げた後に、法水はこれら古史文の科学的解釈を、一々殺人事件の現実的な視覚に符合させようと試みた。
「とにかく、魔法博士デイの隠顕ドアがあるほどだからね。この館にそれ以上、技巧呪術アート・マジックの習作が残されていないとは云えまい。きっと、最初の英人建築技師ディグスビイの設計を改修した所に、算哲のウイチグス呪法精神がもっているに違いないのだ。つまり、一本の柱、貫木たるきにもだよ。それから蛇腹じゃばら、また廊下の壁面を貫いている素焼テラコッタの朱線にも、注意を払っていいと思う」
「すると、君は、この館の設計図が必要なのかね」と熊城が呆れ返って叫ぶと、
「ウン、全館のを要求する。そうすればたぶん、犯人の飛躍的な不在証明アリバイを打破出来やしないかと思うよ」と法水は押し返すように云ったが、続いて二つの軌道を明示した。「とにかくはてしない旅のようだけども、風精ジルフェを捜す道はこの二つ以外にはない。つまり、結果において、ゲルベルト風の共鳴弾奏術が再現されるとなれば、無論問題なしに、伸子が自企的な失神を計ったと云って差支えあるまい。また、何か擬音的な方法が証明されるようなら、犯人は伸子に、失神を起させるような原因を与えて、しかる後に鐘楼から去った――と云うことが出来るのだ。いずれにしろ、倍音が発せられた当時、ここには伸子のほか誰もいなかったのだ。それだけは明らかなんだよ」
「いや、倍音は附随的なものさ」と熊城は反対の見解を述べた。「要するに、君の難解嗜好癖なんだ。たかが、論理形式の問題にすぎんじゃないか。伸子が失神した原因さえ解れば、なにも君みたいに、最初から石の壁の中に頭を突っ込む必要はないと思うよ」
「ところが熊城君」と法水は皮肉にやり返して、「たぶん伸子の答弁だけをあてにしたら、まずこんな程度にすぎまいと思うがね。気分が悪くなって、その後の事はいっさい判りません――て。いや、そればかりじゃない。あの倍音の中には、失神の原因をはじめとして、鎧通しを握っていた事から、先刻さっき僕が指摘した廻転椅子の矛盾に至るまでの、ありとあらゆる疑問が伏さっているに違いないのだ。事によると、易介事件の一部まで、関係してやしないかと思われるくらいだよ」
「ウン、たしかに心霊主義スピリチュアリズムだ」と検事が暗然とつぶやくと、法水はあくまで自説を強調した。
「いやそれ以上さ。だいたい、楽器の心霊演奏は必ずしも例に乏しい事じゃない。シュレーダーの『生体磁気説レーベンス・マグネチスムス』一冊にすら、二十に近い引例が挙げられている。しかし、問題は音の変化なのだ。ところがさしもの聖オリゲネスさえ嘆称を惜しまなかったと云う、千古の大魔術師――亜歴山府アレキサンドリアのアンティオクスでさえも、水風琴ヒドラリウムの遠隔演奏はしたと云うけれど、その音調についてはいっこうに記されていない。また、例のアルベルツス・マグヌス(十三世紀の末、エールブルグのドミニク僧団にいた高僧。錬金魔法師の声名高しといえども、通性論哲学者であり、かつまた中世著名の物理学者ことに心霊術士としては古今無双ならんと云わる。)が携帯用風琴レガールおこなった時も同じ事なんだ。それから近世になって、伊太利イタリーの大霊媒ユーザピア・パラルディノが、金網の中に入れた手風琴アッコーディオンを動かしたけれども、肝腎かんじんの音色については、狂学者フラマリオンすら語るところがないのだ。つまり、心霊現象でさえ、時間空間には君臨することが出来ても、物質構造マッスだけにはなんらの力も及ばないことが判るだろう。ところが熊城君、その物質構成の大法則が、小気味よく顛覆てんぷくを遂げているんだ。ああ、なんという恐ろしいやつだろう。風精ジルフェ――空気と音の妖精――やつは鐘を叩いて逃げてしまったのだ」
 結局倍音についての法水の推断は、明確はっきりと人間思惟創造の限界を劃したに止まっていた。しかし、犯人は、それすらあっけなく踏み越えて、誰しも夢にも信じられなかったところの、超心霊的な奇蹟をなし遂げているのだ。それであるからして、紛乱した網をっと跳ね退けたかと思うと、眼前の壁はすでに雲を貫いている。そうなると、伸子の陳述にも、さした期待が持てなくなったことは云うまでもないが、別して法水が顕示した、不思議な倍音に達する二つの道にも、万が一の僥倖ぎょうこうを思わせるのみのことで、早くも忘れ去られようとするほどの心細さだった。やがて、鐘鳴器カリルロン室を出てダンネベルグ夫人のへやに戻ると、夫人の死体は、とうに解剖のため運び去られていて、その陰気な室の中には、先刻さっき家族の動静調査を命じておいた、一人の私服が、ポツネンと待っていた。傭人やといにんの口から吐かせた調査の結果は、次のとおりだった。

 降矢木旗太郎。正午昼食後、他の家族三人と広間サロンにて会談し、一時五十分経文歌モテットの合図とともに打ちそろって礼拝堂に赴き、鎮魂楽レキエムの演奏をなし、二時三十五分、礼拝堂を他の三人とともに出て自室に入る。
 オリガ・クリヴォフ(同前)
 ガリバルダ・セレナ(同前)
 オットカール・レヴェズ(同前)
 田郷真斎。一時三十分までは、召使二人とともに過去の葬儀記録中より摘録をなしいたるも、訊問後は自室にて臥床す。
 久我鎮子。訊問後は図書室より出でず、その事実は、図書運びの少女によって証明さる。
 紙谷伸子。正午に昼食を自室に運ばせた時以外は、廊下にて見掛けたる者もなく、自室に引き籠れるものと推察さる。一時半頃鐘楼階段を上り行く姿を目撃したる者あり。
 以上の事実の外いっさい異状なし。

「法水君、ダマスクスへの道は、たったこの一つだよ」と検事は熊城と視線を合わせて、さも悦に入ったように揉手もみてをしながら「見給え。すべてが伸子に集注されてゆくじゃないか」
 法水はその調査書を衣袋ポケットに突き込んだ手で、先刻拱廊そでろうかで受け取った、硝子の破片とその附近の見取図を取り出した。が、開いてみると、実にこの事件で何度目かの驚愕きょうがくが、彼等の眼を射った。二条にじょうの足跡が印されている、見取図に包まれているのが何であったろうか、意外にもそれが、写真乾板の破片だったのである。

    二、死霊集会シエオールの所在

 沃化ようか銀板――すでに感光している乾板を前にして、法水もさすが二の句が継げなかった。事実この事件とは、異常に隔絶した対照をなしているからであった。それなので、紆余曲折うよきょくせつをたどたどしく辿たどって行って、最初からの経過を吟味してみても、だいたい乾板などという感光物質によって、標章形象化される個所ところは勿論のことだが、それに投射し暗喩するような、連字符一つさえ見出されないのである。それがもし、実際に犯罪行動と関係あるものなら、恐らく神業であるかもしれない。こうして、しばらく死んだような沈黙が続いた。その間召使が炉に松薪まつまきを投げ入れ、室内がぽっかり暖まってくると、法水は焔の舌を見やりながら、微かに嘆息した。
「ああ、まるで恐竜ドラゴンの卵じゃないか」
「だが、いったい何に必要だったのだろう?」と検事は法水の強喩法カタクレーズを平易に述べた。そして、開閉器スイッチひねると、
「まさか撮影用じゃあるまいが」と熊城は、不意の明るさに眼をしばたたきながら、「いや、死霊おばけは事実かもしれん。第一、易介が目撃したそうだが、昨夜神意審問会の最中に、隣室の張出縁で何者かが動いていて、その人影が地上に何か落したと云うそうじゃないか。しかも、その時七人のうちでへやを出たものはなかったのだ。だいたい階下の窓から落されたものなら、こんなに細かく割れる気遣いはないよ」
「うん、その死霊おばけは恐らく事実だろうよ」と法水はプウと煙の輪を吐いて、「しかし、彼奴あいつがその後に死んでいるという事も、また事実だろう」と意外な奇説を吐いた。「だって、ダンネベルグ事件とそれ以後のものを、二つに区分して見給え。僕の持っているあの逆説パラドックスが、綺麗きれいさっぱりと消えてしまうじゃないか。つまり、風精ジルフェ水神ウンディネのいたのを知って、それを殺したのだ。けっして、あの二つの呪文が連続しているのに、くらまされちゃならん。ただし、犯人は一人だよ」
「では、易介以外にも」熊城は吃驚びっくりして眼を円くしたが、それを検事が抑えて、
「なあに、捨てておき給え。自分の空想に引っ張り廻されているんだから」と法水をたしなめるように見た。「どうも、君の説は世紀児的アンファン・デュ・シエクルだ。自然と平凡を嫌っている。粋人的な技巧には、けっして真性も良識もないのだ。現に、先刻さっきも君は夢のような擬音でもって、あの倍音に空想を描いていた。しかし、同じような微かな音でも、伸子の弾奏がそれに重なったとしたらどうするね?」
「これは驚いた! 君はもうそんな年齢としごろになったのかね」と道化おどけした顔をしたが、法水は皮肉に微笑み返して、「だいたいヘンゼンでもエーワルトでもそうだが、お互いに聴覚生理の論争はしていても、これだけは、はっきりと認めている。つまり、君の云う場合に当る事だが……たとえば同じような音色で微かな音が二つ重なったにしても、その音階の低い方は、内耳の基礎膜に振動を起さないと云うのだ。ところが、老年変化が来ると、それが反対になってしまうのだよ」と検事をきめつけてから、再び視線を乾板の上に落すと、彼の表情の中に複雑な変化が起っていった。
「だが、この矛盾的産物はどうだ。僕にもさっぱり、この取り合わせの意味がみ込めんよ。しかし、ピインと響いてくるものがある。それが妙な声で、ツァラツストラはかく語りき――と云うのだ」
「いったいニイチェがどうしたんだ?」今度は検事が驚いてしまった。
「いや、シュトラウスの交響楽詩シムフォニック・ポエムでもないのさ。それが、陰陽教ゾロアスターツァラツストラが創始せる波斯(ペルシヤ)の苦行宗教)の呪法綱領なんだよ。神格よりうけたる光は、その源の神をもたおす事あらん――と云ってね。勿論その呪文の目的は、接神の法悦をねらっている。つまり、飢餓入神を行う際に、その論法を続けると、苦行僧に幻覚の統一が起ってくると云うのだ」と法水は彼に似げない神秘説を吐いたが、云うまでもなく、奥底知れない理性の蔭に潜んでいるものを、その場去らずに秤量しょうりょうすることは不可能だった。しかし、法水のことばを、神意審問会の異変と対照してみると、あるいは、死体蝋燭ろうそく燭火しょくかをうけた乾板が、ダンネベルグ夫人に算哲の幻像を見せて、意識を奪ったのではないか。――と云うような幽玄きわまる暗示が、しだいに濃厚となってくるけれども、その矢先思いがけなく、それをやや具体的にほのめかして、法水は立ち上った。
「しかし、これでいよいよ、神意審問会の再現が切実な問題になってきたよ。さて、裏庭へ行って、この見取図に書いてある二条の足跡を調べることにするかな」
 ところが、その途中通りすがりに、階下の図書室の前まで来ると、法水は釘付けされたように立ち止ってしまった。熊城は時計を眺めて、
「四時二十分――もうそろそろ、足許が分らなくなってくるぜ。言語学の蔵書なら後でもいいだろう」
「いや、鎮魂楽レキエムの原譜を見るのさ」と法水はキッパリ云い切って、他の二人を面喰めんくらわせてしまった。しかしそれで、先刻さっきの演奏中終止符近くになって、二つの提琴ヴァイオリンが弱音器をつけた――そのいかにも楽想を無視している不可解な点に、法水が強い執着を持っているのが判った。彼は背後で、把手とってを廻しながら、続いて云った。
「熊城君、算哲という人物は、実に偉大な象徴派詩人サムボリストじゃないか。この尨大ぼうだいやかたもあの男にとると、たかが『影と記号で出来た倉』にすぎないのだ。まるで天体みたいに、多くの標章をけておいて、その類推と総合とで、ある一つの恐ろしいものを暗示しようとしている。だから、そういう霧を中に置いて事件を眺めたところで、どうして何が判ってくるもんか。あの得体の知れない性格は、あくまでも究明せんけりゃならんよ」
 その最終の到達点というのが、黙示図の知られてない半葉を意味していると云うことも……また、その一点に集注されてゆく網流の一つでもと、いかに彼が心中あえ苛立いらだって捜し求めているか、十分想像に難くないのであった。しかし、ドアを開くと、そこには人影はなかったけれど、法水は眼のくらむような感覚に打たれた。四方の壁面は、ゴンダルド風の羽目パネルで区切られていて、壁面の上層には囲繞いにょう式の採光層クリアストーリーが作られ、そこに並んでいる、イオニア式の女像柱カリアテイデが、天井の迫持せりもちを頭上で支えている。そして、採光層クリアストーリーから入る光線は、「ダナエの金雨受胎」を黙示録の二十四人長老で囲んでいる天井画に、なんとも云えぬ神々しい生動を与えているのだった。なお床に、チュイルレー式の組字をつけた書室家具が置かれてあるところと云い、また全体の基調色として、乳白大理石と焦褐色ヴァンダイクブラウンの対比を択んだところと云い、そのすべてが、とうてい日本においては片影すら望むことの出来ない、十八世紀維納クムメルスブリュケル風の書室造りだったのである。そのがらんとした図書室を横切って、突当りの明りが差している扉を開くと、そこは、好事家こうずか垂涎すいぜんの思いをさせている、降矢木の書庫になっていた。二十層あまりに区切られている、書架の奥に事務机があって、そこには、久我鎮子の皮肉な舌が待ち構えていた。
「オヤ、この室にお出でになるようじゃ、たいした事もなかったと見えますね」
「事実そのとおりなんです。あれ以後人形が出ない代りに、死霊おばけは連続的に出没していますよ」と法水は先を打たれて、苦笑した。
「そうでしょう。先刻さっきはまた妙な倍音が聴えましたわ。でも、まさか伸子さんを犯人になさりゃしないでしょうね」
「ああ、あの倍音を御存じでしたか」と法水は瞼を微かにおののかせたが、かえって探るような眼差で相手を見て、
「しかし、この事件全体の構成だけは判りましたよ。それが、貴女あなたの云われたミンコフスキーの四次元世界なんです」といっこう動じた色も見せず、続いて本題を切り出した。
「ところで、その過去圏を調べにまいったのですが、たしか、鎮魂楽レキエムの原譜はあるでしょうな」
鎮魂楽レキエム※(感嘆符疑問符、1-8-78)」と鎮子は怪訝けげんな顔をして、「だが、あれを見て、いったいどうなさるのです?」
「それでは、まだ御存じないのですか」法水はちょっと驚いた素振を見せたが、厳粛な調子で云った。
「実は、終曲フィナーレ近くで、二つの提琴ヴァイオリンが弱音器を付けたのですよ。ですから、かえって私は、ベルリオーズの幻想交響楽シンフォニカ・ファンタジアでも聴く心持がしました。たしかあれには、絞首台に上った罪人が地獄に堕ちる――その時の雷鳴を聴かせるというところに、ひょうのような椀太鼓ティムパニー独奏ソロがありましたっけね。そこに私は、算哲博士の声を聴いたような気がしたのです」
「マア、とんでもない誤算ですわ」と鎮子は憫笑びんしょうを湛えて、
「あれは、算哲様の御作ではございません。威人ウェルシュの建築技師クロード・ディグスビイ自作ものなのです。とにかく、あんなものをお気になさるようじゃ、もう一人死霊おばけがふえた訳ですわね。ですが、貴方の対位法的推理にぜひ必要なものなら、なんとか捜し出してまいりましょう」
 法水がしばらく自己を失っていたのも、けっして無理ではなかった。彼がジョン・ステーナー(今世紀の当初病歿した牛津(オックスフォード)の音楽科教授)の作と推測し、それに算哲が、何かの意志で筆を加えたものと信じていた鎮魂曲レキエムが、人もあろうに、この館の設計者ディグスビイの作だったのだ。帰国の船中蘭貢ラングーンで投身したと云われる威人ウェルシュの建築技師が、この不思議な事件にも何か関係かかわりを持っているのではないのだろうか。しかし法水が、最初から死者の世界にも、詮索を怠らなかったことは、さすがに烱眼けいがんであると云えよう。
 鎮子が原譜を探している間、法水は書架に眼をせて、降矢木の驚嘆すべき収蔵書を一々記憶に止めることが出来た。それが、黒死館において精神生活の全部を占めるものであることは云うまでもないが、あるいはこの書庫のどこかに、底知れない神秘的な事件の、根源をなすものが潜んでいないとも限らないのである。法水は背文字を敏速すばやく追うていって、しばらくの間、紙と革のいきれるような匂いの中で陶酔していた。
 一六七六年(ストラスブルグ)版のプリニウス「万有史ナトウラリス・ヒストリア」の三十冊と、古代百科辞典の対として「ライデン古文書パピルス」が、まず法水に嘆声を発せしめた。続いてソラヌスの「使者神指杖カデュセウス」をはじめ、ウルブリッジ、ロスリン、ロンドレイ等の中世医書から、バーコー、アルノウ、アグリッパ等の記号語使用の錬金薬学書、本邦では、永田知足斎ちそくさい、杉田玄伯、南陽原みなみようげん等の蘭書釈刻をはじめ、古代支那では、隋の「経籍志」、「玉房指要」、「蝦蟇図経かばくずきょう」、「仙経」等の房術書医方。その他、Susrtaスシュルタ, Charaka Samhitaチャラカ・サンヒター 等の婆羅門ばらもん医書、アウフレヒトの「愛経カーマ・スートラ」梵語原本。それから、今世紀二十年代の限定出版として有名な「生体解剖要綱ヴィヴィセクション」、ハルトマンの「小脳疾患者の徴候学ディ・ジンプトマトロギイ・デル・クラインヒルン・エルクランクンゲン」等の部類に至るまで、まさに千五百冊に垂々なんなんとする医学史的な整列だった。次に、神秘宗教に関する集積もかなりな数に上っている。倫敦ロンドン亜細亜アジア協会の「孔雀王呪経くじゃくおうじゅきょう」初版、暹羅シャム皇帝勅刊の「※(「口+它」、第3水準1-14-88)曩胝アタナテイ経」、ブルームフィールドの「黒夜珠吠陀クリシュナ・ヤジュル・ヴェーダ」をはじめ、シュラギントヴァイト、チルダース等の梵字密教経典の類。それに、猶太ユダヤ教の非経聖書アポクリファ黙示録アポカリプス伝道書コヘレット類の中で、特に法水の眼を引いたのは、猶太教会音楽の珍籍としてフロウベルガーの「フェルディナンド四世の死に対する悲嘆」の原譜と、聖ブラジオ修道院から逸出を伝えられている手写本中の稀書、ヴェザリオの「神人混婚ベネエ・エロヒイム」が、秘かに海を渡って降矢木の書庫に収まっていることだった。それから、ライツェンシュタインの「密儀宗教ミステリエン・レリギオネン」の大著からデ・ルウジェの「葬祭儀式リチュエル・フュネレイル」。また、抱朴子ほうぼくしの「遐覧からん篇」費長房の「歴代三宝記」「老子化胡経けこきょう」等の仙術神書に関するものも見受けられた。しかし、魔法本では、キイゼルヴェターの「スフィンクス」、ウェルナー大僧正の「イングルハイム呪術マジック」など七十余りに及ぶけれども、大部分はヒルドの「悪魔の研究エチュード・スル・レ・デモン」のような研究書で、本質的なものは算哲の焚書ふんしょに遇ったものと思われた。さらに、心理学に属する部類では、犯罪学、病的心理学心霊学に関する著述が多く、コルッチの「擬佯の記録レ・グラフィケ・デラ・シムラツオネ」リーブマンの「精神病者の言語ディ・シュプラヘ・デス・ガイステスクランケン」、パティニの「蝋質撓拗性フレシビリタ・チェレア」等病的心理学の外に、フランシスの「死の百科辞典エンサイクロペジア・オヴ・デッス」、シュレンク・ノッチングの「犯罪心理及精神病理的研究クリミナルサイコロジイ・アンド・サイコパソロジック・スタディ」、グアリノの「ナポレオン的面相ファキス・ナポレオニカ」、カリエの「憑着及殺人自殺の衝動の研究コントリビュション・ア・レチュード・デ・ゾプセッシヨン・エ・デ・ザムプルシヨン・ア・ロミシイド・エ・オー・スイシイド」、クラフト・エーヴィングの「裁判精神病学教科書レールブッフ・デル・ユリスティッシェン・プシヒョパトロギイ[#ルビの「レールブッフ・デル・ユリスティッシェン・プシヒョパトロギイ」は底本では「レールブッフ・デル・ユリスティッシェン・・プシヒョパトロギイ」]」、ボーデンの「道徳的癡患の心理ディ・プシヒョロギイ・デル・モラリッシェ・イディオチイ」等の犯罪学書。なお、心霊学でも、マイアーズの大著「人格及びその後の存在ヒューマン・パーソナリチー・エンド・サーヴァイヴァル・オヴ・ボディリー・デッス」サヴェジの「遠感術は可能なりやキャン・テレパシイ・エキスプレイン」ゲルリングの「催眠的暗示ハンドブッフ・デル・ヒプノチッシェン・ズゲスチヨン」シュタルケの奇書「霊魂生殖説トラデュチアニスムス」までも含む尨大ぼうだいな集成だった。そして、医学、神秘宗教、心理学の部門を過ぎて、古代文献学の書架の前に立ち、フィンランド古詩「カンテレタル」の原本、婆羅門音理字書「サンギータ・ラトナーカラ」、「グートルーン詩篇」サクソ・グラムマチクスの「丁抹史ヒストリア・ダニカ」等に眼を移した時だった。鎮子がようやく、鎮魂楽レキエムの原譜を携えて現われた。その譜本は、焦茶色に変色していて、かえって女王クインアンの透し刷が浮いて見え、歌詞はほとんど判らなかった。法水は手に取ると、さっそく最終の頁に眼を落したが、
「ハハア、古式の声音符記号で書いてあるな」とつぶやいただけで、無雑作に卓子テーブルの上に投げ出した。そして、鎮子に云った。「ところで久我さん、貴女は、この部分に何故弱音器符号を付けたものか、御承知ですか?」
「存じませんとも」鎮子は皮肉に笑った。「Conコン sordinoソルディノ には、弱音器を附けよ――以外の意味があるのでしょうか。それとも、Homホモ Fugeフゲ(人の子よ逃れ去れ)とでも」
 法水は、鎮子の辛辣しんらつ嘲侮ちょうぶにもたじろがず、かえって声を励ませて云った。
「いや、かえって此の人を見よエッケ・ホモ――の方でしょうよ。これは、ワグネルの『パルシファル』を見よ――と云っているのですからね」
「パルシファル※(感嘆符疑問符、1-8-78)」鎮子は法水の奇言に面喰めんくらったが、彼は再びその問題には触れず、別の問いを発した。
「それから、もう一つ御無心があるのですが、レッサーの『死後機械的暴力の結果に就いてユーベル・ディ・フォルゲ・デル・ポストモルタラー・メカニシェル・ゲヴァルトアインヴィルクンゲン』がありましたら……」
「たぶんあったと思いますが」と鎮子はしばらく考えた後に云った。「もしお急ぎでしたら、彼方あちらの製本に出す雑書の中を探して頂きましょう」
 鎮子に示された右手のくぐり戸を上げると、その内部の書架には、再装を必要とするものが無雑作に突き込まれていて、ただABCアルファベット順に列んでいるのみだった。法水は、Uの部類を最初から丹念に眼を通していったが、やがて、彼の顔にさわやかな色がうかんだと思うと、「これだ」と云って、簡素な黒布クロース装幀の一冊を抜き出した。見よ、法水の双眼には、異常な光輝がみなぎっているではないか。この片々たる一冊が、はたして何ものをもたらそうとするのだろうか※(感嘆符疑問符、1-8-78) ところが、表紙を開くと、意外な事に、彼の顔をサッと驚愕きょうがくの色がかすめた。そして、思わずその一冊を床上に取り落してしまったのだった。
「どうしたのだ?」検事は吃驚びっくりして、詰め寄った。
「いかにも、表紙だけはレッサーの名著さ」と法水は下唇をギュッと噛み締めたが、声のふるえは治まっていなかった。
「ところが、内容なかみはモリエルの『タルチュフ』なんだよ。見給え、ドーミエの口絵で、あの悪党坊主ブラック・モンクわらっているじゃないか」
「あッ、鍵がある!」その時熊城が頓狂な声で叫んだ。彼が床からその一冊を取り上げた時に、ちょうど内容の中央辺と覚しいあたりから、旆斧はたおののような形をした、金属が覗いているのに気が付いたからだった。取り出してみると、輪形に小札がぶら下っていて、それには薬物室と書かれてあった。
「タルチュフと紛失した薬物室の鍵か……」法水は空洞うつろな声でつぶやいたが、熊城をかえりみて、「このさらふだの意味はどうでも、だいたい犯人の芝居気たっぷりなところはどうだ?」
 熊城は憤懣のり場を法水に向けて、毒づいた。
「ところが、役者はこっちの方だと云いたいくらいさ、最初から、給金しんしょうも出ないくせにわらわれどおしじゃないか」
「どうして、あんな淫魔インキブス僧正どころの話じゃない」と検事は熊城をたしなめるような軽い警句を吐いたが、かえって、それが慄然ぞっとするような結論を引き出してしまった。「事実まったく、クォーダー侯のマクベス様(四人の妖婆の科白)――とでも云いたいところなんだよ。どうして彼奴あいつが死霊でもなければ、法水君が見当をつけたものを、それ以前に隠すことなんて出来るものじゃない」
「うん、まさに小気味よい敗北さ。実は、僕も忸怩じくじとなっているところなんだよ」法水は何故か伏目になって、神経的な云い方をした。「先刻さっき僕は、鍵の紛失した薬物室に犯人をはかるものがあると云った。また、易介の死因に現われた疑問を解こうとして、レッサーの著書に気がついたのだ。ところが、その結果、理智の秤量しょうりょうが反対になってしまって、かえってこっちの方が、犯人のしつらえた秤皿さらの上に載せられてしまったのだよ。しかし、こうやってわらいの面を伏せておくところを見ると、案外あの著述にも、僕が考えたような本質的な記述はないのかもしれない。とにかく、易介の殺害も、最初から計画表スケジュールの中に組まれてあったのだよ。どうして、あの死因に現われた矛盾が、偶然なもんか」
 法水は、彼がレッサーの著述を目した理由を明らかにしなかったけれども、ともかくそこに至るまでの彼等の進路が、腑甲斐ふがいないことに、犯人の神経繊維の上を歩いていたものであることは確かだった。のみならず、ここで明らかに、犯人が手袋を投げたということも、また、想像を絶しているその超人性も、この一つで十分裏書されたと云えよう。やがて、もとの書庫に戻ると、法水は未整理庫の出来事をあからさまには云わず、鎮子に訊ねた。
遂々とうとう、事件の波動がこの図書室にも及んできましたよ。最近この潜り戸を通った人物を御記憶でしょうか」
「マア、そんな事ですか。では、この一週間ほどのあいだダンネベルグ様ばかりと申し上げたら」と鎮子しずこの答弁は、この場合詐弁さべんとしか思われなかったほどに意外なものだった。「あの方は何かお知りになりたいものがあったと見えて、この未整理庫の中をしきりと捜してお出でのようでございましたが」
「昨夜はどうなんです?」と熊城は、たまりかねたような声で云った。
「それが、生憎あいにくとダンネベルグ様のお附添で、図書室に鍵を下すのを迂闊うっかりしてしまいました」と無雑作に答えて、それから鎮子は、法水に皮肉な微笑を送った。「つきましては貴方に、賢者の石シュタイン・デル・ヴァイゼンをお贈りしたいと思うのですが、クニッパーの『生理的筆蹟学フィジカル・グラフォロジイ』ではいかがでございましょう?」
「いや、かえって欲しいのはマーローの『ファウスト博士の悲史トラジカル・ヒストリー・オヴ・ドクター・フォースタス』なんですよ」と法水が挙げたその一冊の名は、呪文の本質を知らない相手の冷笑を弾き返すに十分だったが、なおそれ以外に、ロスコフの「Volksbuch の研究ディ・シュトゥディエ・フォン・フォルクスブッフ」(ファウスト伝説の原本と称されている)、バルトの「ヒステリー性睡眠状態に就いてユーベルヒステリッシェ・シュラフツステンデ」、ウッズの「王家の遺伝メンタル・エンド・モラル・ヒディリティ・イン・ロヤリティ」をも借用したい旨を述べて、図書室を出た。そして、鍵が手に入ったのをしおに、続いて薬物室を調べることになった。
 次の薬物室は階上の裏庭側にあって、かつては算哲の実験室に当てられるはずだった、空室くうしつを間に挾み、右手に、神意審問会が行われたへやと続いていた。しかし、そこには薬室特有の浸透的な異臭が漂っているのみで、そこの床には、証明しようのないスリッパの跡が縦横に印され、それ以外には、袖摺れ一つ残されていなかった。したがって、彼等に残された仕事というのは、十にあまる薬品棚の列と薬ばことを調べて、薬瓶くすりびんの動かされた跡と、内部の減量を見究めるにすぎなかった。けれども、一方五分あまりも積み重なっている埃の層が、かえって、その調査を容易に進行させてくれた。最初眼に止ったのは、壜栓びんせんの外れた青酸加里シヤンニック・ポッタシウムであった。
「うんよし、では、その次……」と法水は一々書き止めていったが、続けて挙げられた三つの薬名を聴くと、彼は異様に眼をまたたき、懐疑的な色をうかべた。何故なら、硫酸マグネシウムに沃度ヨードフォルムと抱水クロラールは[#「抱水クロラールは」は底本では「泡水クロラールは」]、それぞれに、きわめてありふれた普通薬ではないか。検事も怪訝けげんそうに首をかしげて、つぶやいた。
「下剤(瀉痢塩が精製硫酸マグネシウムなればなり)、殺菌剤、睡眠薬だ。犯人は、この三つで何をしようとするんだろう?」
「いや、すぐに捨ててしまったはずだよ。ところが、まされたのは吾々われわれなんだ」と法水はここでもまた、彼が好んで悲劇的準備トラギッシェ・フォルベライツングと呼ぶ奇言をもてあそぼうとする。
「なに僕等が」と、熊城は魂消たまげて叫んだ。
「そうさ、匿名とくめい批評には、毒殺的効果があると云うじゃないか」法水はグイと下唇を噛み締めたが、実に意表外な観察を述べた。「で、最初に硫酸マグネシウムだが、勿論内服すれば、下剤に違いない。しかし、それをモルヒネに混ぜて直腸注射をすると、爽快な朦朧もうろう睡眠を起すのだ。また、次の沃度ヨードフォルムには、嗜眠性の中毒を起す場合がある。それから、抱水クロラールになると、他の薬物ではとうてい睡れないような異常亢進の場合でも、またたく間に昏睡させることが出来るのだよ。だから、新しい犠牲者に必要どころの話じゃない。全然、犯人の嘲笑癖が生んだ産物にすぎないのだ。つまり、この三つのものには、僕等の困憊こんぱい状態が諷刺されているのだよ」
 眼に見えない幽鬼は、このへやにも這い込んでいて、例により黄色い舌を出し横手を指して、わらっているのだった。しかし、調査はそのまま続けられたが、結局収穫は次の二つにすぎなかった。その一つは、密陀僧みつだそう即ち酸化鉛)の大壜に開栓した形跡があるのと、もう一つは、再度死者の秘密が現われた事だった。と云うのは、危く看過みすごそうとするところだったが、奥まった空瓶の横腹に、算哲博士の筆蹟で次の一文がしたためられている事だった。

ディグスビイ所在を仄めかすも、遂に指示する事なくこの世を去れり――

 要するに、算哲が求めていたものと云うのは、何かの薬物であろう。しかし、それが何であるかということよりかも、法水の興味は、むしろこの際、なんらの意義もないと思われる空瓶の方にかれていって、それに限りない神秘感を覚えるのだった。それは、荒涼たる時間の詩であろう。この内容なかみのない硝子器が、絶えず何ものかを期待しながらも、空しく数十年を過してしまって、しかも未だもって充されようとはしないのだ。つまり、算哲とディグスビイとの間に、なんとなく相闘うようなものがあるかに感ぜられるのだった。また、酸化鉛のような製膏剤に働いていった犯人の意志も、この場合謎とするよりほかにないのだった。いずれにしても以上の二つからは、事件の隠顕両面に触れる重大な暗示をうけたのであったが、法水等三人は、それを将来に残して、薬物室を去らねばならなかった。
 続いて、昨夜神意審問会が行われたへやを調べることになったが、そこは、この館にはめずらしい無装飾のしつで、確かに最初は、算哲の実験室として設計されたものに相違なかった。広さの割合に窓が少なく、へやの周囲は鉛の壁になっていて、床の混凝土たたきの上には、昨夜の集会だけに使ったものと見え、安手の絨毯じゅうたんが敷かれてあった。なお、庭に面した側には窓が一つしかなく、それ以外には、左隅の壁上に、換気筒の丸い孔が、ポツリと一つ空いているにすぎなかった。そして、周壁を一面に黒幕で張りめぐらしてあるので、たださえ陰気な室がいっそう薄暗くなってしまって、そこには、とうてい動かし難い沈鬱な空気が漂っているのだった。しなびた栄光の手ハンド・オヴ・グローリーの一本一本の指の上に、死体蝋燭ろうそくを差して、それが、懶気ものうげな音を立ててともりはじめた時の――あの物凄い幻像が、未だに弱い微かな光線となって、この室のどこかに残っているかのように思われた。その室を一巡してから、法水は左隣りの空室くうしつに行った。そこは、昨夜易介が神意審問会の最中に人影を見たと云う、張出縁のある室だった。その室は、広さも構造もほとんど前室と同じであったが、ただ窓が四つもあるので、室の中は比較的明るかった。床には粗目あらめのズックようのものが敷いてあって、その上に不用な調度類が、白い埃を冠ってうず高く積まれてあった。法水は扉の横手にある水道栓に眼を止めたが、それからは、昨夜のうちに誰か水を出したと見えて、蛇口から蚯蚓みみずのような氷柱つららが三、四本垂れ下っている。云うまでもなく、それは昨夜ダンネベルグ夫人が失神すると、すぐに水を運んで来たとか云う――紙谷伸子の行動を裏書するものにすぎなかった。
「とにかく、問題はこの張出縁だ」と熊城は、右外れの窓際に立って憮然ぶぜんと呟いた。その窓の外側には、アカンサスの拳葉けんよう亜剌比亜模様アラベスクが作られている、古風な鉄柵縁が張り出されてあった。そこからは、裏庭の花卉かき園や野菜園を隔てて、遠く表徴樹トピアリーの優雅な刈りまがきが見渡される。暗く濁って、塔櫓に押し冠さるほど低く垂れ下った空は、その裾に、わずか蝋色の残光を漂わせるのみで、籬の上方にはすでに闇が迫っていた。そして、時々合間を隔てて、ヒュウと風のきしる音が虚空ですると、鎧扉がわびしげに揺れて、雪片が一つ二つ棧の上でひしげて行く。
「ところが、死霊おばけは算哲ばかりじゃないさ」と検事が応じた。「もう一人ふえたはずだよ。だがディグスビイという男はたいしたものじゃない。たぶん彼奴あいつ魑魅魍魎ポルターガイストだろうぜ」
「どうして、やつは大魔霊デモーネン・ガイストさ」と法水は意外なことばを吐いた。「あの弱音器記号には、中世迷信の形相すさまじい力がこもっているのだよ」
 楽譜の知識のない二人には、法水が闡明せんめいするのを待つよりほかになかった。法水は一息深く煙を吸い込んで云った。
「勿論、Conコン Sordinoソルディノ では意味をなさないのだが、それには、一つだけ例外があるのだ。と云うのは、僕が先刻さっき鎮子を面喰めんくらわせた、『パルシファル』なんだよ。ワグネルはあの楽劇の中で、フレンチ・ホルンの弱音器記号によこじゅうじという符号を使っている。ところが、それは傍ら棺龕カタファルコ十字架の表象シムボルでもあり、また数論占星学では、三惑星の星座連結を表わしているのだ」と法水は、指でてのひらに描いたその記号の三隅に、ちょうど+となるような位置で、点を三つ打った。
「そうすると、いったいその棺龕カタファルコと云うのは、どこにあるのだね?」検事が問い返すと、法水はちょっと凄惨な形相をして、耳を窓外へかしげるような所作しぐさをした。
「聞えないかい、あれが。風の絶え間になると、錘舌クラッパーが鐘に触れる音が、僕には聞えるのだがね」
「ああなるほど」そうは云ったものの、熊城は背筋に冷たいものを感じて、自分の理性の力を疑わざるを得なかった。葉摺れの噪音ざわめきに入り交って、微かに、軽く触れた三角錘トライアングルのような澄んだ音が聞えるのだけれども、その音はまさしく、七葉樹とちのきで囲まれていて、そこには何ものもないと思われていた、裏庭の遙か右端の方から響いて来るのだった。しかし、それは神経の病的作用でもなく、勿論妖しい瘴気しょうき所業しわざであり得よう道理はない。すでに法水は、墓※ぼこう[#「穴かんむり/石」、165-12]の所在を知っていたのである。
先刻さっき窓越しに、太いぶなの柱を二本見たので、それが棺駐門であるのを知ったのだよ。いずれ、ダンネベルグ夫人のひつぎがその下で停るとき、頭上の鐘が鳴らされるだろう。けれども、それ以前に僕は、他の意味であの墓※ぼこう[#「穴かんむり/石」、165-16]を訪れねばならないのだ。何故なら、あのよこじゅうじの記号――ディグスビイが楽想を無視してまで、暗示しなければならなかったものが何であるか。それを知るには、あの墓※[#「穴かんむり/石」、165-18]と鐘楼の十二宮以外にはないように思われるからなんだよ」
 それから裏庭へ出るまでに、雪はやや繁くなってきたので、急いで足跡の調査を終らねばならなかった。まず法水は、左右から歩み寄って来た二条の足跡が合致している点に立って、そこから、左方にかけての一つを追いはじめた。そこはちょうど、死霊が動いていたと云われる張出縁の真下に当っているのだが、なおその附近に、もう一つ顕著な状況が残っていた。と云うのは、ごく最近に、その辺一帯の枯芝を焼いたらしい形跡が残っている事だった。その真黒な焦土こげつちが、昨夜来の降雨のために、じとじと泥濘ぬかるんでいるので、その上には銀色をしたくらのような形で、中央の張出間アプスが倒影していた。のみならず、焼け残りの部分が様々な恰好で、焦土の所々に黄色く残っているところは、ちょうど焼死体の腐爛ふらんした皮膚を見るようで、薄気味悪く思われるのだった。
 ところで、その二すじの足跡を詳細に云うと、法水が最初辿たどりはじめた左手のものは、全長が二十センチほどの男の靴跡で、はなはだしく体躯たいく矮小わいしょうな人物らしく思われるが、全体が平滑で、いぼも連円形もない印像の模様を見ると、それが特種の使途に当てられる、護謨ゴム製の長靴らしく推定された。それを順々に追うて行くと、本館の左端と密着して建てられていて、造園倉庫という掛札のしてある、シャレイ式(瑞西(スイス)山岳地方、即ちアルペン風の様式)の洒落しゃれた積木小屋から始まっている。また、もう一つの方は全長二十六、七センチほどで、この方はまさに常人型と思われる、男用の套靴オヴァ・シューズの跡だった。本館の右端に近い出入扉から始まっていて、張出間アプスの外側を弓形に沿い、現場に達しているが、その二つはいずれも、乾板の破片が落ちている場所との間を往復していた。
 法水は衣袋ポケットから巻尺を取り出して、一々印像に当て靴跡の計測を始めた。套靴オヴァ・シューズの方は、歩幅にはやや小刻みというのみの事で、これぞと云う特徴はなく、きわめて整然としている。が、印像には不審なものが現われていた。すなわち、爪先とかかとと、両端だけがグッと窪んでいて、しかも内側へ偏曲した内翻の形を示しているが、さらに異様な事には、その両端のものが、中央へ行くに従い浅くなっているのだった。また、護謨ゴム製の長靴らしく思われる方は、形状の大きさに比例すると歩幅が狭く、さらにいちじるしく不揃いであるばかりでなく、後踵部には重心があったと見え、特に力の加わった跡が残っていた。のみならず、印像全体の横幅も、わずかながら一つ一つ異なっていたのである。その上、爪先の部分を中央部に比較すると、均衡上幾分小さいように思われて、それがやや不自然な観を与える。また、その部分の印像が特に不鮮明で、形状の差異も、その辺が最もはなはだしかった。そして、往路の歩線は建物に沿うているが、復路には造園倉庫まで直線に行こうとしたものらしく、七、八歩進んで焼け残りの枯芝の手前まで来ると、幅三尺ほどにすぎない帯状のそれを、またぎ越えた形跡を残している。ところが、それから二歩目になると、まるで建物が大きな磁石ででもあるかのように、突然歩行が電光形に屈折していて、そこから、横飛びに建物と擦々すれすれになり、今度は、往路に印された線の上を辿たどって、出発点の造園倉庫に戻っていた。なお、復路に掛ろうとする最初の一歩は、右足で身体を廻転させ左足から踏み出しており、枯芝を越えた靴跡は、左足で踏み切って、右足でまたいでいる。のみならず、二様の靴跡のいずれにも、建物に足を掛けたらしい形跡は残されていなかった。(以上一六六頁の図参照
裏庭の足跡の図
 以上述べたところの、総体で五十に近い靴跡には、周囲の細隙から滲み込んだ泥水が、底ひたひたによどんでいるだけで、印像の角度は依然鮮明に保たれていた。すなわち、雨に叩かれた形跡は、些細ささいなものも現われていないのである。してみると、靴跡が印されたのは、昨夜雨が降り止んだ十一時半以後に相違ない。しかも、その二様の靴跡について、前後を証明するものがあった。と云うのは、乾板の破片を中心に、二つの靴跡が合流している附近に、一ヶ所套靴オヴァ・シューズの方が、片方の上を踏んでいる跡が残っていた。したがって、套靴オヴァ・シューズを付けた人物の来た時刻が、護謨ゴム製の長靴と思われる方と同時か、あるいはそれより以後である事は明らかなのである。続いて、法水の調査が造園倉庫にも及んだのは当然であるが、そのシャレイ風の小屋は床のない積木造りで、内部からドア一つで本館に通じていた。そして、各種の園芸用具や害虫駆除の噴霧器などが、雑然と置かれてあった。法水は、本館に出入りする扉の側で、一足の長靴を見付けだした。それは先が喇叭ラッパ形に開いていて、ももの半分ぐらいまでも埋まってしまう、純護謨製ピュアー・ラバーの園芸靴だった。しかも、底に附着している泥の中で、砂金のように輝いているのが、乾板の微粒だったのである。のみならず、後刻になって、その園芸用の長靴は、川那部易介の所有品である事が判明した。
 そうなってみると読者諸君は、この二様の靴跡に様々な疑問を覚えられるであろうが、ことに、ある一つの驚くべき矛盾に気づかれたことと思う。また、靴跡相互の時間的関係から推しても、夜半陰々たる刻限に、二人の人物によって何事が行われたのか――恐らくその片影すら、うかがうことは不可能であるに相違ない。云うまでもなく法水でさえも、原型を回復することは勿論のこと、この紛乱錯綜した謎のはなには、疑義を挾む一言半句さえ述べる余地はなかったのである。しかし法水は、心中何事かひらめいたものがあったとみえて、鑑識課員に靴跡の造型を命じた後に、次項どおりの調査を私服に依頼した。
一、附近の枯芝は何時いつ頃焼いたか?
一、裏庭側全部の鎧扉に附着している氷柱つららの調査。
一、夜番について、裏庭における昨夜十一時半以後の状況聴取。
 それからほどなく、闇の中を点のようなあかい灯が動いていったと云うのは、法水等が網龕灯あみがんどうを借りて、野菜園の後方にある墓地におもむいたからだった。その頃は雪が本降りになっていて、烈風は櫓楼をしょうのようにうならせ、それが旋風つむじと巻いて吹き下してくると、いったん地面に叩き付けられた雪片が再び舞い上ってきて、たださえほの暗い灯の行手を遮るのだった。やがて、凄愴せいそうな自然力におののいているとちの樹林が現われ、その間に、二本の棺駐門の柱が見えた。そこまで来ると、頭上の格の中から、歯ぎしりのような鐘を吊したかんきしりが聞え、振動のない鐘を叩く錘舌クラッパーの音が、狂った鳥のような陰惨な叫声を発している。墓地はそこから始まっていて、小砂利道の突当りが、ディグスビイの設計した墓※ぼこう[#「穴かんむり/石」、169-18]だった。
 墓※[#「穴かんむり/石」、170-1]の周囲は、約翰ヨハネと鷲、路加ルカと有翼こうしと云うような、十二師徒の鳥獣を冠彫かしらぼりにした鉄柵に囲まれ、その中央には、巨大な石棺としか思われない葬龕カタファルコが横たわっていた。さて、ここで墓柵の内部を詳述しなければならない。だいたいにおいて、サンガール寺院(瑞西(スイス)コンスタンス湖畔に六世紀頃愛蘭土(アイルランド)僧の建設したる寺院)や、南ウエイルズのペンブロークアベイなどにも現に残存している、露地式葬龕カタファルコを模したものであったが、それには、いちじるしい異色が現われていた。と云うのは、墓地樹として、典型的な、ななかまど枇杷びわたぐいがなく、無花果いちじく・糸杉・胡桃くるみ合歓樹ねむのき桃葉珊瑚あおき巴旦杏はたんきょう水蝋木犀いぼたのきの七本が、別図のような位置で配置されていた。またそれ等の樹木に取り囲まれた中央の葬龕カタファルコは、ウムブリヤの泣儒なきおとこ浮彫うきぼりにした薬研石やげんいしの台座まではともかくとして、その上に載せられた白大理石の棺蓋かんおおいになると、はじめて異様な構想が現われてくるのだった。伝統的な儀習としては、その上が、紋章あるいは人像か単純な十字架が通例だが、それには、音楽を伝統とする降矢木の標章としての三角琴プサルテリウム筋彫すじぼりにされ、その上に、鍛鉄製の希臘ギリシャ十字架と磔刑耶蘇はりつけやそが載せられてあった。しかも、その耶蘇もまた異形いぎょうなもので、首をやや左に傾けて、両手の指を逆にらせて上向きにねじり上げ、そろえた足尖つまさきを、さも苦痛をこらえているかのよう、内輪へ極度に反らせているところは……さらに、肋骨あばらが透いて見えて、いかにも貧血的な非化体相ひかたいそうと云い……そのすべてが、※祭カタコムブ[#「穴かんむり/石」、170-15]時代のものに酷似してはいる、がかえってそれよりも、ヒステリー患者の弓状硬直でも見るようで――いかにもそう云った、精神病理的な感じに圧倒されるのだった。ひととおり観察を終えると、法水は熱病患者のような眼をして検事を顧みた。
墓※[#「穴かんむり/石」]の周囲の図
「ねえ支倉君、キャムベルに云わせると、重症の失語症患者でも、人を呪う言葉は最後まで残っていると云うじゃないか。また、すべて人間が力尽きて、反噬はんぜいする気力を失ってしまった時には、その激情を緩解するものは、精霊主義オクルチスムス以外にはないと云うがね。明らかに、これは呪詛じゅそだよ。なにより、ディグスビイは威人ウエルシュなんだぜ。未だに、悪魔教バルダスの遺風が残っていて、ミュイヤダッハ十字架クロッス風の異教趣味に陶酔する者があると云われる――あのウエイルズ生れなんだ」
「いったい君は、何を云いたいんだ」と検事は、薄気味悪くなったように叫んだ。
「実は支倉君、この葬龕カタファルコは並大抵のものではないのだ。ボズラ(死海の南方)の荒野にあって、昼は鬣狗ハイエナが守護し、夜になると、魔神降下を喚き出すと伝えられる――死霊集会シエオールしるしなんだよ」と法水は横なぐりに睫毛まつげの雪を払って、云った。「だが僕は猶太ヤーウェ教徒でも利未リビ族(猶太教で祭司となる一族)でもないのだからね。眼前に死霊集会シエオールの標を眺めていても、それをモーゼみたいに、壊さねばならぬ義務はないと思うよ」
「そうすると」熊城はくように云った。「先刻さっきの弱音器記号の解釈は、どうしたんだ?」
「それなんだ熊城君、やはり、僕の推定が正しかったのだよ」と法水は、よこじゅうじの記号がもたらした解説を始めた。「僕が予想した三惑星の連結は、まさしく暗示されているのだ。最初に、墓地樹の配置を見給え。アルボナウト以後の占星学アストロロジイでは、一番手前の糸杉と無花果いちじくとが、土星と木星の所管とされているし、向う側の中央にある合歓樹ねむのきは、火星の表徴シムボルになっているのだ。またそれを、曼陀羅華マンドラゴーラ矢車草オーレゴニア苦艾アブサントと、草木類でも表わすことが出来るけれども……いったいその三外惑星の集合に、どういう意味があるかと云うと、モールレンヴァイデなどの黒呪術的占星学ブラックマジカル・アストロロジイでは、それが変死の表徴シムボルになっているのだ。ところで君達は、十一世紀独逸ドイツのニックス教(ムンメル湖の水精でニクジーと云う、基督教徒を非常に忌み嫌う妖精を礼拝する悪魔教)を知っているかね。あの悪魔教団に属していた毒薬業者の一団は、その三惑星の集合を、纈草かのこそう毒人蔘ヘムロック蜀羊泉ズルカマラの三草で現わしていて、その三つを軒辺のきべに吊し、秘かに毒薬の所在を暗示していたと伝えられている。それが、後世になって三樹の葉に代えられたと云うのだが、さてそこで、その三本の樹を連ねた、三角形と交わるものが何だろうか?」

(註)(一)纈草。敗醤【オミナエシ】科の薬用植物で、癲癇てんかん、ヒステリー痙攣けいれん等に特効あるため、学者の星と云われる木星の表徴とす。
(二)毒人蔘。繖形科の毒草にして、コニインを多量に含み、最初運動神経が痳痺[#「痳痺」はママ]するため、妖術師の星と称される土星の表徴とす。
(三)蜀羊泉。茄科の同名毒草にして、その葉には特にソラニン、デュルカマリンを含むものなれば、灼熱感を覚えると同時に中枢神経がたちどころに痳痺[#「痳痺」はママ]するため、火星の表徴とす。

 網龕灯あみがんどうあか黒い灯が、薄く雪の積った聖像の陰影を横に縦に揺り動かして、なんとも云えぬ不気味な生動を与える。また、その光は、法水の鼻孔や口腔を異様に拡大して見せて、いかにも、中世異教精神を語るにふさわしい顔貌を作るのだった。しかし、熊城は不審を唱えた。
「だが、胡桃・巴旦杏・桃葉珊瑚あおき水蝋木犀いぼたのきの四本では、結局正方形になってしまうぜ」
「いや、それが魚なんだよ」と法水は突飛なげんを吐いた。
埃及エジプトの大占星家ネクタネブスは、毎年ニイルの氾濫を告げる双魚座ピスケスを、「χ」の中央に横棒が入った形でなしに「長方形/三角形」という記号で現わしている。と云うのは、いま君の云った正方形が、いわゆる天馬星ペガススの大正方形であって、天馬座ペガスス鞍星マルカブの外二星にアンドロメダ座のアルフェラッツ星を結び付け、そうして出来る正四角形を指しているからなんだ。そして、この三角琴プサルテリウム筋彫すじぼり三角座トリアングルムとすれば、その中央に挾まれた聖像は、天馬座ペガスス三角座トリアングルムの間にある、双魚座ピスケス[#ルビの「ピスケス」は底本では「ピスセス」]ではないだろうか。ところで、一五二四年にもそれがあって、当時有名な占星数学者ストッフレルが再洪水説を称えたと云うほどで、とにかく三つの外惑星が双魚座ピスケスと連結するという天体現象は、大凶災のちょうとされているのだ。しかし、凶災を人為的に作ろうとするのが、呪詛じゃないか。ともあれ、これを見給え。実は、先刻さっき図書室で見たマクドウネルの梵英辞典に、見なれない蔵書印がしてあった。しかし、いま考えると、それがディグスビイの印らしいので、それから推すとたぶんこの葬龕カタファルコも、あの男の奇異ふしぎな趣味と、病的な性格を語るものに相違ないのだよ」
 と法水が、聖像の周囲ぐるりにある雪を払い退けると、鍛鉄の十字架から浮び上った痛ましい全身には、みるみる不思議な変化が現われていった。それは、あるいは彼が魔法を使ったのではないかと疑われたほどに、よもや人間の世界にあろうとは思われぬ奇怪な符号だった。磔身たくしんの頭から爪尖つまさきまでが、白く底本が「ラン」とルビを付した梵字ラン形で残されてしまったからだ。しかし、法水は静かに、聖像から変化した不可解な記号の事を説きはじめた。
「ねえ支倉君、黒呪術ブラックマジックは異教と基督キリスト教を繋ぐ連字符である――とボードレールが云うじゃないか。まさしくこれは、調伏ちょうぶく呪語に使う梵語の底本が「ラン」とルビを付した梵字ランの字なんだよ。また、三角琴プサルテリウム「×」の中央よりやや上方に横棒に似た形は、呪詛調伏アビチャーラカの黒色三角炉に、欠いてはならぬ積柴法形せきさいほうがたなのだ。チルダースの『呪法僧アンギラス』の中に、不空羂索神変真言経ふくうけんじゃくじんべんしんごんぎょうの解釈が載っているが、それによると、底本が「ラン」とルビを付した梵字ランは、火壇かだんに火天を招く金剛火だ。その字片を「×」の中央よりやや上方に横棒の形に積んだしばの下に置いて、それに火を点じ、白夜珠吠陀シュクラ・ヤジュル・ヴェーダの呪文底本が「オム」とルビを付した梵字オム底本が「ア」とルビを付した梵字底本が「ギア」とルビを付した梵字ギァ底本が「ナウ」とルビを付した梵字ナウ底本が「エイ」とルビを付した梵字エイ底本が「ソワ」とルビを付した梵字ソワ底本が「カ」とルビを付した梵字を唱えると、千古の大史詩『摩訶婆羅多マハーバーラタ』の中に現われる毘沙門天ヴァイシュラヴァナの四大鬼将――乾闥婆大刀軍将げんだつばだいりきぐんしょう大竜衆たつちむーか鳩槃荼大臣大将くばんだだいじんたいしょう・北方薬叉鬼将の四鬼神が、秘かに毘沙門天ヴィシュラヴァナの統率を脱し来り、また、史詩『羅摩衍那ラーマーヤナ』の中に現われる羅刹らせつ羅縛拏ラーヴァナも、十のかしらを振り立て、悪逆火天となって招かれると云うのだ。だから、僕がもし仏教秘密文学の耽溺たんでき者だとしたら、毎夜この墓※[#「穴かんむり/石」、174-17]では、眼に見えない符号呪術の火がかれていて、黒死館の櫓楼の上を彷徨ほうこうする、黒い陰風がある――と結論しなければならないだろう。しかし、とうてい僕には、それを一片の心霊分析としか解釈できない。そして、ディグスビイという神秘的な性格を持つ男が、生前抱いていた意志である――という推断だけに止めておきたいのだ。何故なら熊城君、すでに僕は危険を悟って、心理学の著述などは、ロッジの『レイモンド』ボルマンの『蘇格蘭人デル・スコッテホーム』の改訂版以後は読まないのだし、また、『妖異評論オカルト・レヴュー』の全冊を焼き捨ててしまったほどだからね」
 最後に至って、法水は鉄のような唯物主義者の本領を発揮した。けれども、彼の張りきった絃線のような神経に触れるものは、たちどころに、その場去らず類推の花弁となって開いてしまうのだ。わずか一つの弱音器記号からでも、当の館の人々にさえ顔相かおかたちすら知られていない、故人クロード・ディグスビイの驚くべき心理をさらけ出したのであった。それから、法水等は墓地を出て、風雪の中を本館の方に歩んで行ったが、こうして、捜査は夜になるも続行されて、いよいよ、黒死館における神秘の核心をなすと云われる、三人の異国楽人と対決することになった。

      三、莫迦ばか、ミュンスターベルヒ!

 一同が再びもとへやに戻ると、法水はさっそく真斎を呼ぶように命じた。間もなく、足萎あしなえの老人は四輪車を駆ってやって来たが、以前の生気はどこへやらで、先刻うけた呵責かしゃくのため顔は泥色に浮腫むくんでいて、まるで別人としか思われぬような憔悴やつれ方だった。この老史学家は指を神経的にふるわせ、どことなく憂色を湛えていて、明らかに再度の喚問を忌怖きふするの情を示していた。法水は自分から残酷な生理拷問を課したにかかわらず、空々しく容体を見舞った後で、きりだした。
「実は田郷さん、僕には、この事件が起らない以前から知りたい事があったのですよ。と云うのは、殺されたダンネベルグ夫人をはじめ四人の異国人に関する事なんですが、いったいどうして算哲博士は、あの人達を幼少の頃から養わねばならなかったのでしょうか?」
「それが判れば」と真斎はホッと安堵あんどの色をうかべたが、先刻とは異なり率直な陳述を始めた。「この館が、世間から化物屋敷のようには云われませんじゃろう。御承知かもしれませんが、あの四人の方々は、まだ乳離れもせぬ揺籃の頃、それぞれ本国にいる算哲様の友人の方々から送られてまいったそうです。しかし、日本に着いてからの四十年余りの間と云うものは、確かに美衣美食と高い教程でもってはぐくまれていったのですから、外見だけでは、十分宮廷生活と申せましょう。ですが、わしにはそう申すよりも、むしろそういう高貴な壁でめぐらされた、牢獄と云った方がふさわしいような感じがしますのじゃ。ちょうどそれが、「ハイムスクリングラ](オーディン神より創まっている古代諾威王歴代記)」にある、僧正テオリディアルの執事そっくりじゃ。あの当時の日払租税のために、一生金勘定をし続けたと云うザエクスおやじと同様、あの四人の方々も、この構内から一歩の外出すら許されていなかったのです。それでも、永年の慣習しきたりというものは恐ろしいもので、かえって御当人達には、人に接するのを嫌う――いわば厭人えんじんとでも云うような傾向が強くなってまいりました。年に一度の演奏会でさえも、招かれた批評家達には、演奏台の上から目礼するのみのことで、演奏が終れば、サッサと自室に引っ込んでしまうといった風なのでした。ですから、あの方々が、何故揺籃のうちにこの館に連れて来られ、そうして鉄の籠の中で、老いの始まるまで過さねばならなかったかということは、もう今日では、過ぎ去った古話ザガにすぎません。ただそういった記録だけを残したままで、算哲様は、そっくりの秘密を墓場の中へ運ばれてしまうのです」
「ああ、ロエブみたいなことを……」と法水は、道化おどけたような嘆息をしたが、「いま貴方は、あの人達の厭人癖を植物向転性トロピズムみたいにお考えでしたね。しかし、たぶんそれは、単位の悲劇なんでしょう」
「単位? 無論四重奏クワルテット団としては、一団をなしておられたでしょうが」と真斎は単位と云った法水の言葉に、深遠な意義が潜んでいるのを知らなかった。「ところで、あの方々とお会いになられましたかな。どなたも冷厳なストイシャンです。よしんば傲慢ごうまんや冷酷はあっても、あれほど整美された人格が、真性の孤独以外に求められようとは思われませんな。ですから、日常生活では、たいしてお互いが親密だと云うほどでもなく、若い頃にも密接した生活にかかわらず、いっこう恋愛沙汰など起らなかったのでしたよ。もっとも、お互いに接近しようとする意識のないせいもあるでしょうが、感情の衝突などということは、あの一団にも、また異人種の吾々われわれに対しても、かつて見たことがないというほどですのじゃ。とにかく、やはり算哲様でしょうかな――あの四人の方々が、一番親愛の情を感じていた人物と云えば」
「そうですか、博士に……」といったん法水は意外らしい面持をしたが、けむりをリボンのように吐いて、ボードレールを引用した。
「では、さしずめその関係と云うのが、吾が懐かしき魔王よオー・モン・シェル・ベルゼビュットなんでしょうか」
「そうです。まさに吾なんじを称えんジュ・タドール――じゃ」真斎は微かに動揺したが、劣らず対句で相槌あいづちを打った。
「しかし、ある場合は」と法水はちょっと思案気な顔になり、「洒落者や阿諛者はひしめき合ってゼ・ボー・エンド・ウイットリング・ペリシュト・イン・ゼ・スロング――」と云いかけたが、急にポープの『髪盗みレープ・オヴ・ゼ・ロック』を止めて『ゴンザーゴ殺し』(ハムレット中の劇中劇)の独白せりふを引き出した。
「どのみち、汝真夜中の暗きに摘みし草の臭き液よザウ・ミクスチュア・ランク・オヴ・ミッドナイト・ウイーズ・コレクテッド――でしょうからね」
「いや、どうして」と真斎はくびを振って、「三たび魔神の呪詛に萎れ、毒気に染みぬるウイズ・ヘキッツ・バン・スライス・プラステッド・スライス・インフェクテッド――とは、けっして」と次句で答えたが、異様な抑揚で、ほとんど韻律を失っていた。のみならず、何故か周章あわてふためいて復誦したが、かえってそれが、真斎を蒼白なものにしてしまった。法水は続けて、
「ところで田郷さん、事によると、僕は幻覚を見ているのかもしれませんが、この事件に――しかるに上天の門は閉されバット・ジ・イシリアル・ゲート・クローズト――と思われる節があるのですが」と法水は、ゲートという一字をミルトンの『失楽園』の中で、ルシファの追放を描いている一句に挾んだ。
「ところが、このとおり」真斎は平然としながらも、妙に硬苦かたくるしい態度で答えた。「隠扉かくしどもなければ、揚蓋あげぶたも秘密階段もありません。ですから、確実に、再び開く事なしナット・ロング・ディヴィジブル――なのです」
「ワッハハハハ、いやかえって、異常に空想が働き、男自ら妊れるものと信ずるならんメン・プルーヴ・ウイズ・チャイルド・アズ・パワーフル・ファンシイ・ウォークス――かもしれませんよ」と法水が爆笑を揚げたので、それまで、陰性のものがあるように思われて、妙に緊迫していた空気が、偶然そこでほぐれてしまった。真斎もホッとした顔になって、
「それより法水さん、この方をわしは、処女は壺になったと思い三たび声を上げて栓を探すエンド・メイド・ターンド・ボットルス・コール・アラウド・フォア・コークス・スライス――だと思うのですが」
 この奇様な詩文の応答に、側の二人は唖然あぜんとなっていたが、熊城は苦々しく法水に流眄ながしめをくれて、事務的な質問を挾んだ。
「ところで、お訊ねしたいのは、遺産相続の実状なんです」
「それが、不幸にして明らかではないのですよ」真斎は沈鬱な顔になって答えた。「勿論その点が、この館に暗影を投げていると云えましょう。算哲様はお歿なくなりになる二週間ほど前に、遺言状を作成して、それを館の大金庫の中に保管させました。そして、鍵も文字合わせの符表もともに、津多子様の御夫君押鐘おしがね童吉博士にお預けになったのですが、何か条件があるとみえて、未だもって開封されてはおりません。わしは相続管理人に指定されているとは云い条、本質的には全然無力な人間にすぎんのですよ」
「では、遺産の配分に預かる人達は?」
「それが奇怪な事には、旗太郎様以外に、四人の帰化入籍をされた方々が加わっております。しかし、人員はその五人だけですが、その内容となると、知ってか知らずか、誰しも一言半句さえ洩らそうとはせんのです」
「まったく驚いた」と検事は、要点を書き留めていた鉛筆を抛り出して、
「旗太郎以外にたった一人の血縁を除外しているなんて。だが、そこには何か不和とでも云うような原因が……」
「それがないのですから。算哲様は津多子様を一番愛しておられました。また、その意外な権利が、四人の方々には恐らく寝耳に水だったでしょう。ことにレヴェズ様のごときは、夢ではないかと申されたほどでした」
「それでは田郷さん、さっそく押鐘博士に御足労願うことにしましょう」と法水は静かに云った。「そうしたら、幾分算哲博士の精神鑑定が出来るでしょうからな。では、どうぞこれでお引き取り下さい。それから、今度は旗太郎さんに来て頂きますかな」
 真斎が去ると、法水は検事の方へ向き直って、
「これで、二つ君の仕事が出来た訳だよ。押鐘博士に召喚状を出す事と、もう一つは、予審判事に家宅捜査令状を発行してもらう事なんだ。だって、僕等の偏見を溶かしてしまうものは、この場合、遺言状の開封以外にはないじゃないか。どのみち、押鐘博士もおいそれとは承諾しまいからね」
「時に、君と真斎がやった、いまの詩文の問答だが」と熊城は率直に突っ込んだ。「あれは、何か物奇主義ディレッタンティズムの産物かね」
「いやどうして、そんな循環論的なしろものなもんか。僕がとんだ思い違いをしているか、それとも、ユングやミュンスターベルヒが大莫迦ばか野郎になってしまうかなんだ」
 法水は曖昧な言葉で濁してしまったが、その時、廊下の方から口笛の音が聞えてきた。それが止むと、扉が開いて旗太郎が現われた。彼はまだ十七にすぎないのだが、態度がひどく大人びていて、誰しも成年期を前に幾分残っていなければならぬ、童心などは微塵も見られない。ことに、媚麗うつくしい容色の階調を破壊しているのが、落着きのない眼と狭い額だった。法水は丁寧に椅子を薦めて、
「僕はその『ペトルーシュカ』が、ストラヴィンスキーの作品の中では、一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原罪哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓はかあなが待っているのですからね」
 冒頭に旗太郎は、全然予期してもいなかった言葉を聴いたので、その蒼白くすんなり伸びた身体が、急に硬ばったように思われ、神経的につばみはじめた。法水は続けて、
「と云って、貴方が口笛で『乳母の踊り』の個所ところを吹くと、それにつれて、テレーズの自動弾条人形ペトルーシュカが動き出すというのではないのです。それに、また昨夜ゆうべ十一時頃に、貴方が紙谷伸子と二人でダンネベルグ夫人を訪れ、それからすぐ寝室に入られたという事も判っているのですからね」
「それでは、何をお訊ねになりたいのです?」と旗太郎は十分声音変化のきている声で、反抗気味に問い返した。
「つまり、貴方がたに課せられている、算哲博士の意志をですがね」
「ああ、それでしたら」と旗太郎は、微かに自嘲めいた亢奮こうふんうかべて、「確かに、音楽教育をしてくれた事だけは、感謝してますがね。でなかった日には、とうに気狂いになっていますよ。そうでしょう。倦怠けんたい、不安、懐疑、廃頽はいたい――と明け暮れそればかりです。誰だって、こんな圧しつぶされそうな憂鬱の中で、古びた能衣裳みたいな人達といっしょに暮してゆけるもんですか。実際父は、僕に人間惨苦の記録を残させる――それだけのために、細々と生を保ってゆくすべを教えてくれたのです」
「そうすると、それ以外のすべてを、四人の帰化入籍が奪ってしまったという訳ですか?」
「たぶんそうともなりましょうね」と旗太郎は妙に臆したような云い方をして、「いや、事実未だに、その理由が判然はっきりとしておりません。なにしろ、グレーテさんはじめ四人の人達の意志が、それには少しも加わっていないのですからね。ところで、こういう女王クイーンアン時代の警句を御存じですか。陪審人が僧正ビショップの夕餐にあずかるためには、罪人が一人くびり殺される――って。だいたい、父という人物が、そういった僧正ビショップみたいな男なんです。魂の底までも、秘密と画策に包まれているんですから、たまりませんよ」
「ところが旗太郎さん、そこに、この館の病弊があるのですよ。いずれ除かれることでしょうが、だが貴方にしたところで、なにも博士の精神解剖図を、持っているという訳じゃありますまい」と相手の妄信をたしなめるように云ってから、法水は再び事務的な質問を放った。
「ところで、入籍の事を、博士から聴かれたのは何日頃です?」
「それが、自殺する二週間ほど前でした。その時遺言状が作成されて、僕は、自分自身に関する部分だけを父から読み聴かされたのです」と云いかけたが、旗太郎は急に落着かない態度になって、「ですけれど法水さん、僕には、その部分をお聴かせする自由がないのですよ。口に出したら最後それは持分の喪失を意味するのですからね。それに、他の四人も同様で、やはり自分自身に関する事実よりほかに知らないのです」
「いやけっして」と法水は、諭すような和やかな声音こわねで、「だいたい日本の民法では、そういう点がすこぶる寛大なんですから」
「ところが駄目です」と旗太郎は蒼ざめた顔で、キッパリ云い切った。「何より、僕は父の眼が怖ろしくてならないのです。あのメフィストのような人物が、どうして後々にも、何かの形で陰険な制裁方法を残しとかずにはおくものですか。きっとグレーテさんが殺されたのだって、そういう点で、何か誤ちを冒したからに違いありません」
「では、酬いだと云われるのですか」と熊城は鋭く切り込んだ。
「そうです。ですから、僕が云えないという理由は、十分お解りになったでしょう。そればかりでなく、第一、財産がなければ、僕には生活というものがないのですからね」と平然と云い放って、旗太郎は立ち上った。そして、提琴奏者ヴァイオリニスト特有の細く光った指を、十本卓子テーブルの端に並べて、最後に彼はひどく激越な調子で云った。
「もうこれで、お訊ねになる事はないと思いますが、僕の方でも、これ以上お答えすることは不可能なのです。しかし、この事だけは、はっきり御記憶になって下さい。よく館の者は、テレーズ人形のことを悪霊だと申すようですが、僕には、父がそうではないかと思われるのです。いいえ、確かに父は、この館の中にまだ生きているはずです」
 旗太郎は、遺言書の内容にはきわめて浅く触れたのみで、再度鎮子に続いて、黒死館人特有の病的心理を強調するのだった。そうして陳述を終ると、淋しそうに会釈してから、戸口の方へ歩んで行った。ところが、彼の行手に当って、異様なものが待ち構えていたのである。と云うのは、扉の際まで[#「際まで」は底本では「際まる」]来ると、何故かその場で釘付けされたように立ちすくんでしまい、そこから先へは一歩も進めなくなってしまった。それは、単純な恐怖とも異なって、ひどく複雑な感情が動作の上に現われていた。左手を把手ノッブにかけたままで、片腕をダラリと垂らし、両眼を不気味に据えて前方を凝視しているのだった。明らかに彼は、何事か扉の彼方に、忌怖きふすべきことを意識しているらしい。がやがて、旗太郎は、顔面をビリリと怒張させて、醜い憎悪の相を現わした。そして、ひっつれたような声を前方に投げた。
「ク、クリヴォフ夫人……貴女は」
 そう云った途端に、ドアが外側から引かれた。そして、二人の召使バトラーしきいの両側に立つと見る間に、その間から、オリガ・クリヴォフ夫人の半身が、傲岸ごうがんな威厳に充ちた態度で現われた。彼女は、てんで高い襟のついた剣術着フェンシング・ケミセットのような黄色い短衣ジャケットの上に、天鵞絨びろうど袖無外套クロークを羽織っていて、右手に盲目のオリオンとオリヴァレス伯(一五八七―一六四五。西班牙(スペイン)フィリップ四世朝の宰相)の定紋が冠彫かしらぼりにされている、豪奢な講典杖キャノニスチック・ケーンをついていた。その黒と黄との対照が、彼女の赤毛に強烈な色感を与えて、全身が、ほのおのような激情的なものに包まれているかの感じがするのだった。頭髪を無雑作に掻き上げて、耳朶みみたぶが頭部と四十五度以上も離れていて、その上端が、まるで峻烈な性格そのもののように尖っている。やや生え際の抜け上った額は眉弓が高く、灰色の眼が異様な底光りを湛えていて、眼底の神経が露出したかと思われるような鋭い凝視だった。そして、顴骨かんこつから下が断崖状をなしている所を見ると、その部分の表出が険しい圭角的なもののように思われ、また真直に垂下した鼻梁にも、それが鼻翼よりも長く垂れている所に、なんとなく画策的な秘密っぽい感じがするのだった。旗太郎は摺れ違いざまに、肩口から見返して、
「オリガさん、御安心下さい。何もかも、お聴きのとおりですから」
「ようく判りました」とクリヴォフ夫人は鷹揚おうように半眼でうなずき、気取った身振をして答えた。「ですけど旗太郎さん、仮りにもし私の方が先に呼ばれたのでしたら、その場合の事もお考え遊ばせな。きっと貴方だって、私どもと同様な行動に出られるにきまってますわ」
 クリヴォフ夫人が私どもと複数を使ったのに、ちょっと異様な感じがしたけれども、その理由は瞬後に判明するに至った。扉際に立っていたのは彼女一人だけではなく、続いてガリバルダ・セレナ夫人、オットカール・レヴェズ氏が現われたからだった。セレナ夫人は、毛並の優れたセントバーナードドッグの鎖を握っていて、すべてが身長と云い容貌と云い、クリヴォフ夫人とは全く対蹠たいせき的な観をなしていた。暗緑色のスカートに縁紐バンドで縁取りされた胸衣ボディスをつけ、それにひじまで拡がっている白いリンネルの襟布カラー、頭にアウグスチン尼僧が被るような純白の頭布カーチーフを頂いている。誰しもその優雅な姿を見たら、この婦人が、ロムブローゾに激情性犯罪のまちと指摘されたところの、南伊太利イタリーブリンデッシ市の生れとは気づかぬであろう。レヴェズ氏はフロックに灰色のトラウザー、それに翼形ウイングカラーをつけ、一番最後に巨体を揺って現われたが、先刻さっき礼拝堂で遠望した時とは異なり、こう近接して眺めたところの感じは、むしろ懊悩的で、一見心のどこかに抑止されているものでもあるかのような、ひどく陰鬱気な相貌をした中老紳士だった。そして、この三人は、まるで聖餐祭の行列みたいに、ノタリノタリと歩み入って来るのだった。恐らくこの光景は、もしこの時、綴織ツルネーの下った長管喇叭トロムパの音が起って筒長太鼓ライディング・ティンパニイが打ち鳴らされ、静蹕せいひつを報ずる儀仗ぎじょう官の声が聴かれたなら、ちょうどそれが、十八世紀ヴュルッテムベルクかケルンテン辺りの、小ぢんまりした宮廷生活を髣髴ほうふつたらしめるものであろうし、また反面には、従えた召使バトラーの数に、彼等の病的な恐怖が窺えるのだった。さらに、いま旗太郎との間に交された醜悪な黙闘を考えると、そこに何やら、犯罪動機でも思わせるような、くろずんだ水が揺ぎ流れるといった気がしないでもなかった。けれども、なによりこの三人には、最初から採証的にも疑義を差し挾む余地はなかったのである。やがて、クリヴォフ夫人は法水の前に立つと、ケーンの先で卓子テーブルを叩き、命ずるようなきつい声音で云った。
「私どもは、して頂きたい事があってまいったのですが」
「と云うと何でしょうか。とにかくお掛け下さい」法水がちょっと躊躇たじろぎを見せたのは、彼女の命令的な語調ではなかった。遠見でホルバインの、「マーガレット・ワイヤット(ヘンリー八世の伝記者、タマス・ワイヤット卿の[#「タマス・ワイヤット卿の」は底本では「タマスワイヤット卿の」])の像」に似ていると思われたクリヴォフ夫人の顔が、近づいてみると、まるで種痘痕ほうそうあとのような醜い雀斑そばかすだったからである。
「実は、テレーズの人形を焚き捨てて頂きたいのです」とクリヴォフ夫人がキッパリ云い切ると、熊城は吃驚びっくりして叫んだ。
「なんですと。たかが人形一つを。それは、また何故にです?」
「そりゃ、人形だけなら死物でしょうがね。とにかく、私どもは防衛手段を講ぜねばなりません。つまり、犯人の偶像を破棄して欲しいのです。時に貴方は、レヴェンスチイムの『迷信と刑事法典アーベルグラウベ・ウント・フェルブレヒェリッシュ・ローデル(註)』――をお読みになったことがございまして?」
「では、ジュゼッペ・アルツォのことを仰言おっしゃるのですね」それまで法水は、しきりになにやら沈思げな表情をしていたが、はじめて言葉を挾んだ。

(註)キプロスの王ピグマリオンに始めて偶像信仰を記したる犯罪に関する中にあり。羅馬ローマ人マクネージオと並称さるるジュゼッペ・アルツオは、史上著名なる半陰陽にして、男女二基の彫像を有し、男となる時には女の像を、女としての際には男の像に礼拝するを常とせり。而して詐偽、窃盗、争闘等を事とせしも、一度男の像を破棄さるるに及び、その不思議な二重人格は身体的にも消失せりと伝えらる。

「まさにそうなのです」とクリヴォフ夫人は得たり顔にうなずいて、他の二人に椅子をすすめてから、「私はなんとかして、心理的にだけでも犯人の決行力を鈍らしたいと思うのですわ。次々と起る惨劇を防ぐには、もう貴方がたの力を待ってはおられません」
 それに次いでセレナ夫人が口を開いたけれども、彼女は両手を怯々おずおずと胸に組み、むしろ哀願的な態度で云った。
「いいえ、心理的に崇拝物トーテムどころの話ですか。あの人形は犯人にとると、それこそグンテル王の英雄(ニーベルンゲン譚中、グンテル王の代りに、ブルンヒルト女王と闘ったジーグフリートの事)なんでございますからね。今後も重要な犯罪が行われる場合には、きっと犯人は陰険な策謀の中に隠れていて、あのプロヴィンシア人だけが姿を現わすにきまってますわ。だって、易介や伸子さんとは違って、私達は無防禦ではございませんものね。ですから、たとえばり損じたにしても、捕えられるのが人形でしたら、また次の機会がないとも限りませんわ」
「さよう、どのみち三人の血を見ないまでは、この惨劇は終らんでしょうからな」レヴェズ氏は脹れぼったい瞼をおののかせて、悲しげに云った。「ところが、わしどもには課せられている律法おきてがありますのでな。それで、この館から災を避けることは不可能なのです」
「その戒律ですが、たぶんお聴かせ願えるでしょうな?」と検事はここぞと突っ込んだが、それをクリヴォフ夫人はやにわに遮って、
「いいえ、私達には、それをお話しする自由はございません。いっそ、そんな無意味な詮索をなさるよりも……」とにわかに激越な調子になり声をふるわせて、「ああ、こうして私達は暗澹たる奈落の中でプランキング・イン・ジス・ダーク・アビス火焔の海中にあるのですサファリング・イン・ザ・シー・オブ・ファイア。それを、貴方は何故そう好奇ものずきの眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、新しい悲劇を待っておられるのでしょう?」と悲痛な声でヤングの詩句を叫ぶのだった。
 法水は三人を交互かわるがわるに眺めていたが、やがて乗り出すように足を組換え、薄気味悪い微笑が浮び上ると、
「さよう、まさに、永続、無終エヴァラスチング・エンド・エヴァなんです」と突然、狂ったのではないかと思われるような、言葉を吐いた。「そういう残酷な永遠刑罰を課したというのも、みんな故人の算哲博士なんですよ。たぶん旗太郎さんが云われたことをお聴きでしたでしょうが、博士こそ、爾を父と呼びつつあるのを得たり気な歓喜をもって瞰視しているヒイ・イズ・ルッキング・ダウン・フロム・パーフェクト・ブリス・コーリング・ジイ・ファザーのです」
「マア、お父様が」セレナ夫人は姿勢かたちを改めて、法水を見直した。
「そうです。罪と災の深さを貫きスルー・オール・デプス・オヴ・シン・アンド・ロッス吾が十字架の測鉛は垂るドロップス・ゼ・プラメット・オヴ・マイ・クロッス――ですからな」と法水が自讃めいた調子でホイッチアを引用すると、クリヴォフ夫人は冷笑を湛えて、
「いいえ、されど未来の深淵は、その十字架の測り得ざるほどに深しイエット・フュチャア・アビス・ウォズ・ファウンド・ディバー・ザン・クロッス・クッド・サウンド――ですわ」と云い返したが、その冷酷な表情が発作的に痙攣けいれんを始めて、「ですが、ああきっと、ほどなくしてその男死にたり――でしょうよ。貴方がたは、易介と伸子さんの二つの事件で、とうに無力を曝露ばくろしているのですからね」
「なるほど」と簡単にうなずいたが、法水はいよいよ挑戦的にそして辛辣しんらつになった。「しかし、誰にしろ、最後の時間がもう幾許いくばくか測ることは不可能でしょうからね。いや、かえって昨夜などは、かしこ涼し気なる隠れ家に、不思議なるもの覗けるがごとくに見ゆシャイント・ドルト・イン・キューレンシャウエルン・アイン・ゼルトザメス・ツ・ラウエルン――と思うのですが」
「では、その人物は何を見たのでしょうな。わしはとんとその詩句を知らんのですよ」レヴェズ氏が暗い怯々おどおどした調子で問い掛けると、法水はずるそうに微笑ほほえんで、
「ところがレヴェズさん、心も黒く夜も黒し、薬も利きて手も冴えたり――なんです。そして、その場所が、折もよし人も無ければ――でした」
 と云い出したのは、一見見え透いた鬼面のようでもあり、また、故意に裏面に潜んでいるいばらのような計謀を、露わにさらけ出したような気がしたけれども、しかし彼の巧妙な朗誦法エロキューションは、妙に筋肉が硬ばり、血が凍りつくような不気味な空気を作ってしまった。クリヴォフ夫人は、それまで胸飾りのテュードル薔薇ローズ六弁の薔薇)をいじっていた手を卓上に合わせて、法水に挑み掛るような凝視を送りはじめた。が、その間のなんとなく一抹いつまつの危機をはらんでいるような沈黙は、戸外で荒れ狂う吹雪ふぶきうなりを明瞭はっきりと聴かせて、いっそう凄愴なものにしてしまった。法水はようやく口を開いた。
「しかし、原文には、また真昼を野の火花が散らされるばかりに、日の燃ゆるときウント・ミタハス・ウエン・ディ・ゾンネ・グリュート・ダス・ファスト・ディ・ハイデ・フンケン・スプリュート――とあるのですが、そこは不思議なことに、真昼や明りの中では見えず、夜も、闇でなくては見ることの出来ぬ世界なのです」
「闇に見える※(感嘆符疑問符、1-8-78)」レヴェズ氏は警戒を忘れたように反問した。
 法水はそれには答えず、クリヴォフ夫人の方を向いて、
「時に、その詩文が誰の作品だか御存じですか?」
「いいえ存じません」クリヴォフ夫人はやや生硬な態度で答えたが、セレナ夫人は、法水の不気味な暗示に無関心のような静けさで、
「たしか、グスタフ・ファルケの『樺の森ダス・ビルケンヴェルドヘン』では」
 法水は満足そうにうなずき、やたらに煙の輪を吐いていたが、そのうち、妙に意地悪げな片笑がうかび上がってきた。
「そうです。まさに『樺の森ダス・ビルケンヴェルドヘン』です。昨夜このへやの前の廊下で、確かに犯人は、その樺の森を見たはずです。しかし、かれ夢みぬ、されど、そを云う能わざりきイーム・トラウムテ・エル・コンテス・ニヒト・ザーゲン――なんですよ」
「では、その男は死人の室を、親しきものが行き通うがごとくに、戻っていったと仰言おっしゃるのですね」とクリヴォフ夫人は、急にはしゃぎ出したような陽気な調子になって、レナウの「秋の心ヘルプストゲフュール」を口にした。
「いえ、滑り行く――なんてどうして、彼奴は蹌踉き行ったのですよ。ハハハハハ」と法水は爆笑を上げながら、レヴェズ氏をかえりみて、
「ところでレヴェズさん、勿論それまでには、その悲しめる旅人は伴侶を見出せりアイン・トリュベル・ワンドラー・フィンデット・ヒエル・ゲノッセン――なんでしたからな」
「そ、それを御承知のくせに」とクリヴォフ夫人はたまらなくなったように立ち上り、ケーンを荒々しく振って叫んだ。「だからこそ私達は、その伴侶を焼き捨てて欲しいと御願いするのです」
 ところが、法水はさも不同意をほのめかすように、たばこの紅い尖端をみつめていて答えなかった。が、側にいる検事と熊城には、いつ上昇がやむか涯しのない法水の思念が、ここでようやく頂点に達したかの感を与えた。けれども、法水の努力は、いっかな止もうとはせず、この精神劇ゼーレン・ドラマにおいて、あくまでも悲劇的開展を求めようとした。彼は沈黙を破って、いどむような鋭い語気で云った。
「ですがクリヴォフ夫人、僕はこの気狂い芝居が、とうてい人形の焼却だけで終ろうとは思えんのですよ。実を云うと、もっと陰険朦朧とした手段で、別に踊らされている人形があるのです。だいたいプラーグの万国操人形聯盟インターナショナル・リーダ・オヴ・マリオネットにだって、最近『ファウスト』が演ぜられたという記録はないでしょうからな」
「ファウスト※(感嘆符疑問符、1-8-78) ああ、あのグレーテさんが断末魔に書かれたと云う紙片の文字のことですか」レヴェズ氏は力をめて、乗り出した。
「そうです。最初の幕に水精ウンディネ、二幕目が風精ジルフェでした。いまもあの可憐な空気の精ジルフェが、驚くべき奇蹟を演じてのがれ去ってしまったところなんですよ。それにレヴェズさん、犯人は Sylphusジルフス と男性に変えているのですが、貴方は、その風精ジルフスが誰であるか御存じありませんか」
「なに、わしが知らんかって※(感嘆符疑問符、1-8-78) いや、お互いに洒落しゃれは止めにしましょう」レヴェズ氏は反撃を喰ったように狼狽うろたえたが、その時、不遜をきわめていたクリヴォフ夫人の態度に、突如いきなりすくんだような影が差した。そして、たぶん衝動的に起ったらしい、どこか彼女のものでないような声が発せられた。
「法水さん、私は見ました。その男というのを確かに見ましたわ。昨夜私の室に入って来たのが、たぶんその風精ジルフスではないかと思うんです」
「なに、風精ジルフスを」熊城の仏頂面が不意に硬くなった。「しかし、その時ドアには、鍵が下りていたのでしょうな」
「勿論そうでした。それが不思議にも開かれたのですわ。そして、背の高い痩せぎすな男が、薄暗いドアの前に立っているのを見たのです」クリヴォフ夫人は異様に舌のもつれたような声だったが語り続けた。「私は十一時頃でしたが、寝室へ入る際に確かに鍵を下しました。それから、しばらく仮睡まどろんでから眼が覚めて、さて枕元の時計を見ようとすると、どうした事か、胸の所が寝衣ねまきの両端をとめられているようで、また、頭髪かみのけが引っれたような感じがして、どうしても頭が動かないのです。平生髪を解いて寝る習慣がございますので、これは縛りつけられたのではないかと思うと、背筋から頭の芯までズウンとしびれてしまって、声も出ず身動みじろぎさえ出来なくなりました。すると、背後うしろにそよそよ冷たい風が起って、滑るような微かな跫音あしおとが裾の方へ遠ざかって行きます。そして、その跫音の主は、扉の前で私の視野の中に入ってまいりました。その男は振り返ったのです」
「それは誰でした?」そう云って、検事は思わず息をめたが、
「いいえ、判りませんでした」とクリヴォフ夫人は切なそうな溜息を吐いて、「卓上灯スタンドの光が、あの辺までは届かないのですから。でも、輪廓だけは判りましたわ。身長が五フィート四、五インチぐらいで、スンナリした、痩せぎすのように思われました。そして、眼だけが……」と述べられる肢体は、様子こそ異にすれ、何とはなしに旗太郎を髣髴ほうふつとさせるのだった。
「眼に※(感嘆符疑問符、1-8-78)」熊城はほとんど慣性で一言挾んだ。すると、クリヴォフ夫人は俄然傲岸ごうがんな態度に返って、
「たしかバセドー氏病患者の眼を暗がりで見て、小さな眼鏡に間違えたとか云う話がございましたわね」と皮肉に打ち返したが、しばらく記憶を摸索するような態度を続けてから云った。
「とにかく、そういう言葉は、感覚外の神経で聴いて頂きたいのです。いて申せば、その眼が真珠のような光だったと云うほかにございません。それから、その姿がドアの向うに消えると、把手ノッブがスウッと動いて、跫音あしおとが微かに左手の方へ遠ざかって行きました。それで、ようやく人心地がつきましたけども、いつの間にか髪が解かれたと見えて、私は始めて首を自由にすることが出来たのです。時刻はちょうど十二時半でございましたが、それからもう一度鍵を掛け直して、把手ノッブを衣裳戸棚に結び付けました。けれども、そうなると、もう一睡どころではございませんでした。ところが、朝になって調べても、室内にはこれぞという異状らしい所がないのです。して見ると、てっきりあの人形使いに違いございませんわ。あの狡猾こうかつな臆病者は、眼を醒ました私には、指一本さえ触れることが出来なかったのです」
 結論として大きな疑問を一つ残したけれども、クリヴォフ夫人の口誦くちずさむような静かな声は、かたわらの二人に悪夢のようなものを掴ませてしまった。セレナ夫人もレヴェズ氏も両手を神経的に絡ませて、言葉を発する気力さえ失せたらしい。法水は眠りから醒めたような形で、あわててたばこの灰を落したが、その顔はセレナ夫人の方へ向けられていた。
「ところでセレナ夫人、その風来坊はいずれ詮議するとして、時にこういうゴットフリートを御存じですか。吾れ直ちに悪魔と一つになるを誰が妨ぎ得べきやヴァス・ヒエルテ・ミッヒ・ダス・イヒス・ニヒト・ホイテ・トイフェル――」
「ですけど、その短剣ゼッヒ……」と次句を云いかけると、セレナ夫人はたちまち混乱したようになってしまって、冒頭の音節から詩特有の旋律を失ってしまった、「その短剣の刻印に吾が身は慄え戦きぬゼッヒ・シュテムペル・シュレッケン・ゲエト・ドゥルヒ・マイン・ゲバイン――が、どうして。ああ、また何故に、貴方はそんなことをお訊きになるのです?」としだいに亢奮こうふんしていって、ワナワナ身をふるわせながら叫ぶのだった。「ねえ、貴方がたは捜していらっしゃるのでしょう。ですけど、あの男がどうして判るもんですか。いいえ、けっしてけっして、判りっこございませんわ」
 法水は紙巻を口の中でもてあそびながら、むしろ残忍に見える微笑を湛えて相手を眺めていたが、
「なにも僕は、貴女の潜在批判を求めていやしませんよ。あんな風精ジルフェ黙劇ダム・ショウなんざあ、どうでもいいのです。それよりこれを、いずこに住めりや、なんじ暗き音響ひびきね――なんですがね」とデーメールの「沼の上ユーベル・デン・ジュムフェン」を引き出したが、相変らずセレナ夫人から視線を放そうとはしなかった。
「ああ、それではあの」とクリヴォフ夫人は、妙に臆したような云い方をして、「でも、よくマア、伸子さんが間違えて、朝の讃詠アンセムを二度繰り返したのを御存じですわね。実は、今朝あの方は一度、ダビデの詩篇九十一番のあの讃詠アンセムを弾いたのですが、昼の鎮魂楽レキエムの後には、火よあられよ雪よ霧よ――を弾くはずだったのです」
「いや、僕は礼拝堂の内部なかの事を云っているのですよ」と法水は冷酷に突き放した。「実は、この事を知りたいのです。あの時、確かそこにあるは薔薇なり、その附近には鳥の声は絶えて響かずドッホ・ローゼン・ジンデス・ウォバイ・カイン・リード・メール・フレテット――でしたからね」
「それでは、薔薇乳香ローゼン・ヴァイラウフいた事ですか」レヴェズ氏も妙にギコちない調子で、探るように相手を見やりながら、
「あれはオリガさんが、後半よほど過ぎてから一時演奏を中止して焚いたのですが、しかし、これでもう、滑稽な腹芸はやめて頂きましょう。わしどもは貴方から、人形の処置について伺えばよいのですから」
「とにかく明日あしたまで考えさせて下さい」法水はキッパリ云い切った。「しかし、つまるところ僕等は、人身擁護の機械なんですからね。護衛という点では、あの魔法博士に指一本差させやしませんよ」
 法水がそう云い終ると同時に、クリヴォフ夫人は憤懣のり場を露骨に動作に現わして、性急せわしく二人を促し立ち上った。そして、法水を憎々しげに見下して悲痛な語気を吐き捨てるのだった。
「やむを得ません。どうせ貴方がたは、この虐殺史を統計的な数字としかお考えにならないのですからね。いいえ、結局私達の運命は、アルビ教徒(註一)か、ウェトリヤンカ郡民(註二)のそれに異ならないかもしれません。ですけど、もし対策が出来るものなら……ああ、それが出来るのでしたら、今後は、私達だけですることにいたしますわ」

(註)(一)アルビ教徒――南フランス、アルビに起りし新宗教、摩尼マニ教の影響をうけて、新約聖書のすべてを否定したるによって、法王インノセント三世の主唱による新十字軍のために、一二〇九年より一二二九年まで約四十七万人の死者を生ずるにいたれり。
(二)ウェトリヤンカ郡民――一八七八年露領アストラカンの黒死病猖獗しょうけつ期において、ウェトリヤンカ郡を砲兵を有する包囲線にて封鎖し、空砲発射並びに銃殺にて威嚇いかくせしめ、郡民は逃れ得ず、ほとんど黒死病のためにたおれたり。

「いやどうして」と法水はすかさず皮肉に応酬した。「ですがクリヴォフ夫人、たしかセントアムブロジオだったでしょうか、死は悪人にもまた有利なり――と云いましたからな」
 鎖を忘れられたセントバーナードドックが、物悲しげにきながら、セレナ夫人の跡を追うて行ったのが最後で、三人が去ってしまうと、入れ違いに一人の私服が先刻命じておいた裏庭の調査を完了して来た。そして、調査書を法水に渡してから、
鎧通よろいどおしは、やはりあの一本だけでした。それから、本庁の乙骨おとぼね医師には、御申し付けどおりに渡しておきましたが」と復命すると、それに法水は、尖塔にある十二宮の円華窓えんげまどを撮影するように命じてから、その私服を去らしめた。熊城は当惑げな顔で、微かに嘆息した。
「ああまたドアと鍵か、犯人はまじない屋か錠前屋か、いったいどっちなんだい。まさかにジョン・デイ博士の隠顕扉が、そうザラにあるという訳じゃあるまい」
「驚いたね」法水は皮肉な微笑を投げた。「あんなもののどこに、創作的な技巧があってたまるもんか。そりゃ、この館から一歩でも外へ出れば、無論驚くべき疑問に違いないさ。けれども、先刻さっき君は書庫の中で、犯罪現象学の素晴らしい書目ビブリオグラフィーを見たはずだっけね。つまり、その扉を鎖させなかった技巧というのが、この館の精神生活の一部をなすものなんだ。庁へ帰ってからグロース(註)でも見れば、それで何もかも判ってしまうのだよ」

(註)法水がグロースと云ったのは、「予審判事要覧」中の犯人職業的習性の章で、アッペルトの「犯罪の秘密」から引いた一例だと思う。以前召使だった靴型工の一犯人が、ある銀行家の一室に忍び入り、その室と寝室との間の扉を鎖さしめないために、あらかじめかんぬき穴の中に巧妙に細工した三稜柱形の木片を插入して置く。それがために銀行家は、就寝前に鍵を下そうとしても閂が動かないので、すでに閉じたものと錯覚を起し、犯人の計画はまんまと成功せしと云う。

 法水があえて再言しようとはせず、そのまま不可避的なものとして放棄してしまったことは、平生検討的な彼を知る二人によると、異常な驚愕きょうがくに違いないのだった。が畢竟ひっきょうするところ、この事件の深さと神秘を、彼が書庫において測り得た結果であると云えよう。検事は再び法水の粋人的な訊問態度をなじりかかった。
「僕はレヴェズじゃないがね。君にやってもらいたいのは、もう動作劇ハンドルングスドラマだけなんだ。ああいう恋愛詩人ツルヴェール趣味のうた合戦はいい加減にして、そろそろクリヴォフ夫人がそれとなしにほのめかした、旗太郎の幽霊を吟味しようじゃないか」
「冗談じゃない」法水は道化おどけたようななにげない身振をしたが、その顔にはいつもの幻滅的な憂鬱が一掃されていた。
「どうして、僕の心理表出摸索劇は終ったけれども、あれは歴史的な葛藤さ。ところが、僕が引っ組んだのは、あの三人じゃないのだ。ミュンスターベルヒなんだ。やはり、あいつは大莫迦ばか野郎だったよ」
 そこへ、警視庁鑑識医師の乙骨耕安おとぼねこうあんが入って来た。
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  第四篇 詩と甲胄と幻影造型
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    一、古代時計室へ

 伸子の診察を終って入って来た乙骨おとぼね医師は、五十をよほど越えた老人で、ヒョロリと瘠せこけて蟷螂かまきりのような顔をしているが、ギロギロ光る眼と、一種気骨めいた禿げ方とが印象的である。が、庁内きっての老練家だったし、ことに毒物鑑識にかけては、その方面の著述を五、六種持っているというほどで、無論法水のりみずとも充分熟知の間柄だった。彼は座につくと無遠慮にたばこを要求して、一口うまそうに吸い込むと云った。
「さて法水君、僕の心像鏡的証明法は、遺憾ながら知覚喪失オーンマハトだ。だいたい廻転椅子がどうだろうがこうだろうが、結局あの蒼白く透き通った歯齦はぐきを見ただけで、僕は辞表をけてもいいと思う。まさしく単純失神トランスと断言して差支えないのだ。ところで、ここで特に、熊城君に一言したいのだが、あの女が兇器の鎧通しを握っていたと聴いて、僕は数当て骨牌チックタッキング・カードの裏を見たような気がしたのだよ。あの失神は、実に陰険朦朧もうろうたるものなんだ。あまりに揃い過ぎているじゃないか」
「なるほど」法水は失望したようにうなずいたが、「とにかく細目をうけたまわろうじゃないか。あるいはその中から、君の耄碌もうろくさ加減が飛び出して来んとも限らんからね。ところで、君の検出法は?」
 乙骨医師はところどころ術語を交えながら、きわめて事務的に彼の知見を述べた。
「無論吸収の早い毒物はあるにゃあるがね。それに、特異性のある人間だと、中毒量はるか以下のストリキニーネでも、屈筋震顫症アテトージス間歇強直症テタニイに類似した症状を起す場合がある。しかし、中毒としては末梢的所見はないのだし、胃中の内容物はほとんど胃液ばかりなんだ。――これはちょっと不審に思われるだろう。けれども、あの女が消化のよい食物を摂ってから二時間ぐらいでたおれたのだとしたら、胃の空虚にはごうも怪しむところはない。それから、尿にも反応的変化はないし、定量的に証明するものもない。ただいたずらに、燐酸塩が充ち溢れているばかりなんだ。あの増量を、僕は心身疲労の結果と判断するが、どうだい」
「明察だ。あの猛烈な疲労さえなければ、僕は伸子の観察を放棄してしまっただろう」法水は何事かをほのめかして、相手の説を肯定したが、「ところで、君が投じた試薬リアクティヴは、たったそれだけかね」
「冗談じゃない。結局徒労には帰したけれども、僕は伸子の疲労状態を条件にして、ある婦人科的観察を試みたんだ。法水君、今夜の法医学的意義は、Pennyroyalペニイロイヤル毒性を有する薬草)一つに尽きるんだよ。あの×・××ぐらいを健康未妊娠子宮に作用させると、ちょうど服用後一時間ほどで、激烈な子宮痳痺[#「痳痺」はママ]が起る。そして、ほとんど瞬間的に失神類似の症状が現われるんだ。ところが、その成分である Oleum Hedeomae Apiol さえ検出されない。勿論あの女には、既往において婦人科的手術をうけた形跡がないばかりでなく、中毒に対する臓器特異性を思わせるふしもないのだ。そこで法水君、僕の毒物類例集は結局これだけなんだけども、しかし結論として一言云わせてもらえるなら、あの失神の刑法的意義は、むしろ道徳的感情にあると云うに尽きるだろう。つまり、故意か内発か――なんだ」と乙骨医師は卓子テーブルをゴツンと叩いて、彼の知見を強調するのだった。
「いや、純粋の心理病理学プシヒョバトロギイさ」法水は暗い顔をして云い返した。「ところで、頸椎けいついは調べたろうね。僕はクインケじゃないが、恐怖と失神は頸椎の痛覚なり――と云うのは至言だと思うよ」
 乙骨医師はたばこの端をグイと噛み締めたが、むしろ驚いたような表情をうかべて、
「うん僕だって、ヤンレッグの『病的衝動行為についてユーベル・クランクハフテ・トリープハンドルンゲン』や、ジャネーの『験触野シヤン・エステジオメトリック』ぐらいは読んでいるからね。いかにも、第四頸椎に圧迫がある場合に衝動的吸気インスピラチヨンを喰うと、横隔膜に痙攣けいれん的な収縮が起る。だがしかしだ。その肝腎かんじん傴僂せむしというのは、あの女じゃない。それ以前に、一人亀背ポット病患者が殺されているという話じゃないか」
「ところがねえ」と法水はあえぎ気味に云った。「無論確実な結論ではない。恐らく廻転椅子の位置や不思議な倍音演奏を考えたら、一顧する価値もあるまいよ。けれども一説として、僕はヒステリー性反覆睡眠に思い当ったのだ。あれを失神の道程に当ててみたいのだよ」
「もっとも法水君、元来僕は非幻想的な動物なんだがね」と乙骨医師は眩惑を払い退けるような表情をして、皮肉に云い返した。「だいたいヒステリーの発作中には、モルヒネに対する抗毒性が亢進するものだよ。しかし、どうあっても皮膚の湿潤だけは免れんことなんだがね」
 ここで乙骨医師が、モルヒネを例に亢進神経の鎮静云々うんぬんを持ち出したのは、勿論法水に対する諷刺ではあるけれども、それは、折ふし人間の思惟限界を越えようとする、彼の空想に向けられていたのだ。と云うのは、そのヒステリー性反覆睡眠という病的精神現象が、実に稀病中の稀病であって、日本でも明治二十九年八月福来ふくらい博士の発表が最初の文献である。現に、好んで寺院や病的心理を扱う小城こしろ魚太郎(最近出現した探偵小説家)の短篇中にも――殺人を犯そうとする一人の病監医員が、もともと一労働者にすぎないその患者に、医学的な術語を聴かせ、それを後刻の発作中にしゃべらせて、自分自身の不在証明アリバイに利用する――という作品もあるとおりで、自己催眠的な発作が起ると、自分が行いかつ聴いたうちの最も新しい部分を、それと寸分たがわぬまでに再演しかつ喋るのであるから、別名としてのヒステリー性無暗示後催眠現象と呼ぶ方が、かえって、この現象の実体に相応するように思われるのである。それであるからして乙骨医師が、内心法水の鋭敏な感覚に亢奮こうふんを感じながらも、表面痛烈な皮肉をもって異議を唱えたのも無理ではなかった。それを聴くと、法水はいったん自嘲めいた嘆息をしたが、続いて、彼にはめずらしい噪狂的な亢奮こうふんが現われた。
「勿論稀有けうに属する現象さ。しかし、あれを持ち出さなくては、どうして伸子が失神し鎧通しを握っていたか――という点に説明がつくもんか。ねえ乙骨君、アンリ・ピエロンは、疲労にもとづくヒステリー性知覚脱失の数十例を挙げている。また、あの伸子という女は、今朝弾いてその時弾くはずでなかった讃詠アンセムを、失神直前に再演したのだったよ。だから、その時何かのはずみで腹を押したとすれば、その操作で無意識状態に陥るという、シャルコーの実験を信じたくなるじゃないか」
「すると、君が頸椎けいついを気にした理由も、そこにあるのかね」と乙骨医師はいつの間にか引き入れられてしまった。
「そうなんだ。事によると、自分がナポレオンになるような幻視アウロラを見ているかもしれないが、先刻さっきから僕は、一つの心像的標本を持っているのだ。君はこの事件に、ジーグフリードと頸椎――の関係があるとは思わないかね」
「ジーグフリード※(感嘆符疑問符、1-8-78)」これには、さすがの乙骨医師も唖然あぜんとなってしまった。「もっとも、帰納的に頭の狂っている男は、その標本を一人僕も知っているがね」
「いや、結局はレイショの問題さ。しかし僕は、知性にも魔法的効果があると信じているよ」と法水は充血した眼に、夢想の影を漂わせて云った。「ところで、強烈な擽痒感覚かゆみに、電気刺戟と同じ効果があるのを知っているかね。また、痳痺[#「痳痺」はママ]した部分の中央に、知覚のある場所が残ると、そこに劇烈な擽痒かゆみが発生するのも、たぶんアルルッツの著述などで承知のことと思うよ。ところが君は、伸子の頸椎に打撲したような形跡はないと云う。けれども乙骨君、ここにった一つ、失神した人間に反応運動を起させる手段がある。生理上けっして固く握れる道理のない手指の運動を、不思議な刺戟で喚起する方法があるのだ。そうしてそれが、[#ここから横組み]ジーグフリード+木の葉[#ここで横組み終わり]――の公式で表わされるのだがね」
「なるほど」と熊城は皮肉にうなずいて、「たぶんその木の葉と云うのが、ドン・キホーテなんだろうよ」
 法水はいったんかすかに嘆息したが、なおも気魄をらして、神業かみわざのような伸子の失神に絶望的な抵抗を試みた。
「マア聴き給え。恐ろしく悪魔的なユーモアなんだから。エーテルを噴霧状にして皮膚に吹きつけると、その部分の感覚が滲透的に脱失してしまう。それを失神した人間の全身にわたって行うのだが、手の運動を司る第七第八頸椎けいついに当る部分だけを、ちょうどジーグフリードの木の葉のように残しておくのだ。何故なら、失神中は皮膚の触覚を欠いていても、内部の筋覚や関節感覚、それに、擽痒かゆみの感覚には一番刺戟されやすいのだからね。すると、当然その場所に、劇烈な擽痒かゆみが起る。そうしてそれが電気刺戟のように、頸椎神経の目的とする部分を刺戟して、指に無意識運動を起させるに違いないのだ。つまりこの一つで、伸子がいかにして鎧通しを握ったか――という点に、根本の公式を掴んだような気がしたのだ。乙骨君、君は故意か内発かと云ったけれども、僕は、故意かエーテルに代る何物かと云いたいんだ。どうして、その本体を突き詰めるまでには、まだまだ繊細微妙な分析的神経が必要なんだよ」と彼の表情に、みるみる惨苦の影が現われてゆき、打って変って沈んだ声音でつぶやいた。
「ああ、いかにも僕はしゃべったよ。しかし、結局廻転椅子の位置は……あの倍音演奏はどうなってしまうんだ?」
 そうしてから、しばらく法水は煙の行方を眺めていて、発揚状態を鎮めているかに見えたが、やがて乙骨医師に向って、話題を転じた。
「ところで、君に依頼しておいたはずだが、伸子の自署をとってくれただろうか」
「だがしかしだ。これには充分質問例題とする価値があるぜ。何故どうして君は、伸子が覚醒した瞬間に、自分の名前を書かせたのだったね」と云って、乙骨医師が取り出した紙片に、俄然三人の視聴が集められてしまった。それには、紙谷かみたにではなく、降矢木ふりやぎ伸子と書かれてあったからだ。法水はちょっとまたたいたのみで、彼が投じた波紋を解説した。
「いかにも乙骨君、僕は伸子の自署が欲しかったのだ。と云って、なにも僕はロムブローゾじゃないのだからね。水精ウンディネ風精ジルフェを知ろうとして、クレビエの『筆蹟学グラフォロジイ』までも剽竊ひょうせつする必要はないのだよ。実を云うと、往々失神によって、記憶の喪失を来す場合がある。それなので、もし伸子が犯人でない場合に、このまま忘却のうちに葬られてしまうものがありゃしないかと、実は内々でそれをおそれていたからなんだよ。ところで、僕の試みは、『マリア・ブルネルの記憶』に由来しているんだ」

(註)ハンス・グロスの「予審判事要覧」の中に、潜在意識に関する一例が挙げられている。すなわち一八九三年三月、低バイエルン、ディートキルヘンの教師ブルネルの宅において、二児が殺害され、夫人と下女は重傷を負い、主人ブルネルが嫌疑者として引致されたという事件である。ところが、夫人は覚醒して、訊問調書に署名を求められると、マリア・ブルネルとは記さずに、マリア・グッテンベルガーと書いたのであった。しかし、グッテンベルガーと云うのは、夫人の実家の姓でもなく、しかもそれなりで、夫人は記憶の喚起を求められても、その名については知るところがなかった。つまりその時以来、意識の水準下に没し去ったのである。ところが、調査が進むと、下女の情夫にその名が発見されて、ただちに犯人として捕縛さるるに至った。すなわち、マリア・グッテンベルガーと書いた時は、兇行の際識別した犯人の顔が、頭部の負傷と失神によって喪失されたが、偶然覚醒後の朦朧状態において、それが潜在意識となって現われたのである。

「マリア・ブルネル……」だけで喚起したものがあったと見え、三人の表情には一致したものが現われた。法水は、新しいたばこに口をつけて続けた。
「だから乙骨君、僕が伸子の、開目の際を条件としたのも、つまるところは、マリア・ブルネル夫人と同じ朦朧もうろう状態をねらい、あわよくば、まさに飛び去ろうとする潜在意識を記録させようとしたからなんだよ。ところが、やはりあの女も、法心理学者の類例集カズイステイクから洩れることは出来なかったのだ。ねえ、伸子の先例は、オフィリアに求められるのだろうね。しかしオフィリアの方は、単に狂人きちがいになってから、幼い頃乳母から聴いた――(あすはヴァレンタインさまの日)の猥歌ざれうたを憶い出したにすぎない。ところが、伸子の方は、降矢木というすこぶる劇的ドラマチックな姓を冠せて、物凄い皮肉を演じてしまったのだよ」
 その署名には、恐ろしい力できつけるようなものがあった。しばらく釘付けになっているうちに、まず直情的な熊城くましろが気勢を上げた。
「つまり、[#ここから横組み]グッテンベルガー=降矢木旗太郎[#ここで横組み終わり]なんだ。これで、クリヴォフ夫人の陳述が、綺麗きれいさっぱり割り切れてしまうぜ。サア法水君、君は旗太郎の不在証明アリバイを打ち破るんだ」
「いや、この評価は困難だよ。依然降矢木Xさ」と検事は容易に首肯した色を見せなかった。そして、暗に算哲の不思議な役割をほのめかすと、法水もそれにうなずいて、はげしい皮肉を酬いられたかのように、錯乱した表情をうかべるのだった。事実、それが幽霊のような潜在意識だとすれば、恐らく法水の勝利であろう。けれども、もし単に、一場の心的錯誤パラムネジイだとしたら、それこそ推理測定を超越した化物に違いないのである。乙骨医師は時計を見て立ち上ったが、この毒舌家は、一言皮肉を吐き捨てるのを忘れるような親爺おやじではなかった。
「さて、今夜はもう仏様も出まいて。しかし法水君、問題は、空想より論理判断力のいかんにあるよ。その二つの歩調が揃うようなら、君もナポレオンになれるだろうがな」
「いや、トムセン(丁抹(デンマーク)の史学者。バイカル湖畔南オルコン河の上流にある突厥人の古碑文を読破せり)で結構さ」と法水は劣らず云い返したが、その言葉の下から、俄然ただならぬ風雲を捲き起してしまった。「勿論僕に、たいした史学の造詣ぞうけいはないがね。しかし、この事件では、オルコン以上の碑文を読むことが出来たのだ。君はしばらく広間サロンにいて、今世紀最大の発掘を待っていてくれ給え」
「発掘※(感嘆符疑問符、1-8-78)」熊城は仰天せんばかりに驚いてしまった。しかし、法水が心中何事を企図しているのか知る由はないといっても、その眉宇びうの間にうかんでいる毅然きぜんたる決意を見ただけで、まさに彼が、乾坤一擲けんこんいってき大賭博おおばくちを打たんとしていることは明らかだった。間もなく、この胸苦しいまでに緊迫した空気の中を、乙骨医師と入れ違いに、ばれた田郷真斎が入って来ると、さっそく法水は短刀直入に切り出した。
「僕は率直にお訊ねしますが、貴方は、昨夜八時から八時二十分までの間に邸内を巡回して、その時古代時計室に鍵を下したそうでしたね。しかし、その頃から姿を消した一人があったはずです。いいえ田郷さん、昨夜神意審問会の当時この館にいた家族の数は、たしか五人ではなく、六人でしたね」
 途端に、真斎の全身が感電したように[#「感電したように」は底本では「感電しように」]おののいた。そして、何かすがりたいものでも探すような恰好で、きょろきょろ四辺あたりを見廻していたが、いきなり反噬はんぜい的な態度に出て、
「ホホウ、この吹雪の最中に算哲様の遺骸を発掘するとなら、あんた方は令状をお持ちとみえますな」
「いや、必要とあらば、たぶん法律ぐらいは破りかねぬでしょう」と法水は冷然と酬い返した。が、この上真斎との応酬を無用とみて、率直に自説を述べはじめた。
「だいたい、貴方がおいそれと最初から口を開こうなどとは、夢にも期待していなかったのですよ。ですから、まず僕の方で、その消え失せた一人を、外包的に証明してゆきましょう。ところで貴方は、盲人の聴触覚標型という言葉を御存じですか。盲人は視覚以外のあらゆる感覚を駆使して、その個々に伝わってくる分裂したものを綜合するのです。そうして、自分に近接している物体の造型を試みようとするのですよ。ねえ田郷さん、勿論僕の眼に、その人物の姿が映ろう道理はありません。しかも、物音も聴かなければ、その一人に関する些細ささいな寸語さえ耳にしていないのです。しかし、この事件の開始と同時に、ある一つの遠心力が働いて、そうしてその力が、関係者の圏外はるかへ抛擲ほうてきしてしまった一人があったのですよ。僕は、最初この館に一歩踏み入れたとき、すでにある一つの前兆とでも云いたいものを感じました。それを、召使バトラーの行為から観取することが出来たのでしたよ」
「すると、僕が訊ねた……」検事は異様に亢奮こうふんして叫んだ。そして、自分の疑念が氷解してゆく機に、達したのを悟ったのであった。法水は、検事に微笑で答えてから続けた。
「つまり、この神経黙劇にとると、最初召使バトラーに導かれて大階段を上って行った時が、そもそもの開緒アインライツングなのでした。その折、けたたましい警察自動車の機関エンジンの響がしていたのですが、その召使バトラーは、僕の靴が偶然きしって微かな音を立てると、何故か先に歩んでいるにもかかわらず、すくんだような形で、身体を横に避けるのです。僕はそれを悟ると、思わず、神経にき上げてくるものがありました。ですから、階段を上り切るまでの間、試みに再三同じ動作を演じてみたのですが、そのつど、召使バトラーも同様のものを繰り返してゆくのです。明らかに、この無言の現実は、何事かを語ろうとしています。そこで、僕は推断を下しました。機関エンジンの騒音があるにもかかわらず、当然圧せられて消されねばならない、いや、通常の状態では絶対に聴くことの出来ぬ音を聴いたからだ――と。しかし、それは当然奇蹟でもなければ、勿論僕の肝臓に変調を来した結果でもありません。医学上の術語でウィリス徴候と云って、劇甚な響と同時にくる微細な音も、聴き取ることが出来るという――聴覚の病的過敏現象にすぎんのですよ」
 法水はおもむろにたばこに火を点けて、一息吸うと続けた。
「云うまでもなくその徴候は、ある種の精神障礙しょうがいには前駆となって来るものです。けれども、チーヘンの『忌怖きふの心理』などを見ると、極度の忌怖感に駆られた際の生理現象として、それに関する数多あまたの実験的研究が挙げられています。ことに、最も興味をかれるのは、ドルムドルフの『死仮死及び早期の埋葬トット・シャイントット・ウント・フリューヘ・ベエールディグング』中の一例でしょうかな。確か一八二六年に、ボルドーの監督僧正エピスコーポドンネが急死して、医師が彼の死を証明したので、棺に蔵め埋葬式を行うことになりました。ところが、その最中ドンネは棺中で蘇生したのです。しかし、声音の自由を失っているので救いを求めることも出来ず、渾身こんしんの力をふるって棺の蓋をわずかにすかしまでしたのでしたが、そのまま彼は力尽きて、再び棺中で動けなくなってしまいました。ところが、その生きながら葬られようとする言語に絶した恐怖の中で、折から荘厳な経文歌の合唱がとどろいているにもかかわらず、彼の友人二人が、秘かに私語する声を聴いたと云うのですよ」それから法水は、その現象をこの事件の実体の中に移した。
「そうなると、勿論この場合、一つの疑題クエスチョネアです。だいたい召使バトラーなどというものは、傍観的な亢奮こうふんこそあれ、また現場に達しもせぬ捜査官が、何か訊ねようとして近接する気配を現わしたにしても、それになんらの畏怖いふを覚えるべき道理はありません。ですから、その時僕は、ある出来事の前提とでも云うような、薄気味悪い予感に打たれました。云わば、過敏神経の劇的ドラマチックな遊戯なんでしょうが、ちょっと口には云えない、一種異様に触れてくる空気を感じたのです。それが明瞭はっきりとしたものでないだけに、なおさら※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいてでも近づかねばならぬような力にそそられました。そうして間もなく、貴方の嵌口令かんこうれいが生んだ、産物であるのを知ると同時に、いて覆い隠そうとした運命的な一人を、その身長まで測ることが出来たのです」
「身長を?」真斎はさすがに驚いてまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったが、ここで三人は、かつて覚えたことのない亢奮にせり上げられてしまった。
「そうです。あのかぶと前立星まえたてぼしが、此の人を見よエッケ・ホモ――と云っているのです」と法水は椅子を深く引いて、静かに云った。「たぶん貴方もお聴きになったでしょうが、拱廊そでろうかの古式具足のうちで、円廊側の扉際にある緋縅錣ひおどししころの上に、猛悪な黒毛三枚鹿角立しかつのだての兜が載っていました。また、その前列で吊具足になっている洗革胴あらいかわどうの一つが、これは美々しい獅子噛座のついた、星前立細鍬形の兜を頂いていて、その二つの取り合わせから判断すると、歴然たる置き換えの跡が残っているのです。そればかりでなく、その置き換えの行われたのが、昨夜の七時以後であることも、召使の証言によって確かめることが出来ました。しかし、その置き換えには、すこぶる繊細デリケートな心像が映っているのですよ。そして、それが円廊の対岸にある二つの壁画とって、始めてこの本体を明らかにするのでした。御承知のとおり、右手のものは『処女受胎の図』で、聖母マリアが左端に立ち、左手の『カルバリ山の朝』は、右端に耶蘇イエスを釘付けにした十字架が立っているのです。つまりその二つの兜を置き換えないでは、聖母マリアが十字架に釘付けされるという、世にも不可思議な現象が現われるからでした。しかし、その原因は容易たやすく突き究めることが出来たのです。ねえ田郷さん、円廊の扉際には、外面艶消つやけしの硝子で平面の弁と凸面の弁を交互にして作った、六弁形の壁灯がありましたっけね。実は、緋縅錣ひおどししころの方に向いている平面の弁に、一つの気泡があるのを発見したのです。ところで、眼科に使うコクチウス検眼鏡の装置を御存じでしょうか。平面反射鏡の中央に微孔を穿うがって、その反対の軸に凹面鏡を置き、そこに集った光線を、平面鏡の細孔から眼底に送ろうとするのですが、この場合は、天井のシャンデリアの光が凹面の弁に集って、それが前方の平面弁にある気泡を通ってから、向う側にある前立星に照射されたからでした。つまりそれが判ると、前立星の激しい反射光をうけねばならない位置を基礎にして、眼の高さが測定されるのでしょう」
「しかし、その反射光が何を?」
「ほかでもない、複視が起されるのですよ。催眠中でさえも眼球を横から押すと、視軸が混乱して複視を生ずるのですが、横から来る強烈な光線でも、同様の効果を生みます。つまりその結果、前方にある聖母マリアが十字架と重なるので、ちょうど聖母マリア磔刑はりつけになったような仮像が起る訳でしょう。云うまでもなく、その置き換えた人物と云うのは、婦人なのです。何故なら、そうして幻のように現われる聖母マリア磔刑の仮像は、第一、女性として最も悲惨な帰結を意味しています。また一面には、天来の瞰視かんしをうけているような意識に駆られて、審判とか刑罰とか云うような、妙に原人ぽい恐怖がもたらされてくるのですよ。だいたいそう云った宗教的感情などというしろものは、一種の本能的潜在物なんですからね。どんな偉大な知力をもってしても、容易に克服できるものではありません。直観的ではあるが、けっして思弁的ではないのです。もともと刑罰神一神説ヤーヴィズムは……公教精神カトリシズムは、セントアウグスチヌスが永劫えいごう刑罰説を唱えたとき、すでに超個人的な、抜くべからざる力に達していたのですからね。ですから、不慮であると否とにかかわらず、その大魔力はたちまちに精神の平衡を粉砕してしまいます。ことに、もろい、変化をうけ易い、何か異常な企図を決行しようとする際のような心理状態では、その衝撃には恐らくひとたまりもないことでしょう。……つまり田郷さん、そういった動揺を防ぐために、その婦人は二つのかぶとを置き換えたのですよ。しかし、前立の星と並行する位置で、おおよその身長が測定されるのですが、五フィート四インチ――その高さを有する婦人は、いったい誰でしょうか。云うまでもなく、傭人どもなら大切な装飾品の形を変えるようなことはしないでしょうし、四人の外人は論なしとしても、伸子も久我鎮子も、それぞれに一、二インチほど低いのです。ところが田郷さん、その婦人は、まだこの館の中に潜んでいるのですよ。ああいったい、それは誰なんでしょうかね」と再三真斎の自供を促しても、相手は依然として無言である。法水の声にいどむような熱情がこもってきた。
「それから僕の脳裡で、その一つの心像が、しだいに大きな逆説パラドックスとなって育っていったのですが、しかし、先刻さっき貴方の口から、ようやくその真相が吐かれました。そして、僕の算定が終ったのです」
「何と云われる。わしの口からとは?」真斎は驚き呆れるよりも、瞬間変転した相手の口吻こうふんに、嘲弄されたような憤りを現わした。「それが、貴方にあるたった一つの障害なのじゃ。歪んだ空想のために、常軌を逸しとるのです。わし虚妄うそ烽火のろしには驚かんて」
「ハハハハ、虚妄うそ烽火のろしですか」法水はとたんに爆笑を上げたが、静かな洗煉された調子で云った。
「いや、打たれし牝鹿は泣きて行けホワイ・レット・ゼ・ストリクン・ディーア・ゴー・ウイープ無情の牡鹿は戯るるゼ・ハート・アンギャラント・プレイ――の方でしょうよ。しかし、先刻さっき貴方は、僕が『ゴンザーゴ殺し』の中の汝真夜中の暗きに摘みし草の息液よザウ・ミックスチュア・ランク・オヴ・ミッドナイト・ウイーズ・コレクテッド――と云うと、その次句の三たび魔女の呪詛に萎れ毒気に染みぬるウイズ・ヘキッツ・バン・スライス・プラステッド・スライス・インフェクテッド――で答えましたっけね。その時どうして、三たびスライス以後の韻律を失ってしまったのでしょう。また、どうした理由かそれを云い直した時に Withウイズ Hecatesヘキッツ を一節にして、Ban と thrice とを合わせ、しかもまたいぶかしいことには、その Banthriceバンスライス を口にした時に、貴方はいきなり顔色を失ってしまったのです。勿論僕の目的は、文献学上の高等批判をしようとしたのではありません。この事件の発端とそっくりで、実に物々しく白痴嚇こけおどし的な、三たび魔女のウイズ・ヘキッツ・バン……以下を貴方の口から吐かせようとしたからです。つまり、詩語には、特に強烈な聯合作用が現われる――という、ブルードンの仮説セオリー剽竊ひょうせつして、それを、殺人事件の心理試験に異なった形態かたちで応用しようとしたのです。云わば、武装を隠した詩の形式でしょうかな。それで、貴方の神経運動を吟味しようと試みたのですが、とうとうその中から、一つの幽霊的な強音アクセントを摘み出しましたよ。ところでバーベージ(エドマンド・キーン以前の沙翁劇名優)は、沙翁シェークスピアの作中に律語的な部分、すなわち希臘ギリシャ式量的韻律法が多いのを指摘していますね。つまり、一つの長い音節シラブルが、量において二つの短い音節シラブルに等しいというのが原則で、それに、頭韻アリテレーション尾韻エンドライム強音アクセントなどを按配した抑揚格アイアムバスを作って、詩形に音楽的旋律を生んでいくのです。ですから、一語でもその朗誦法を誤ると、韻律が全部の節にわたって混乱してしまいます。しかし貴方が三たびスライスつかえて、それ以後の韻律を失ってしまったのは、けっして偶然の事故ではないのですよ。その一語には、少なくとも匕首あいくちくらいの心理的効果があるからなんです。ですから貴方は、それが僕を刺戟するのに気がついたので、すぐに周章あわてふためいて云い直したのでしょう。けれども、その復誦には、今も云った韻律法を無視しなければなりませんでした。それが僕の思う壺だったので、かえって収拾のつかない混乱を招いてしまったのです。と云うのは、thriceスライス を避けて、前節の Banバン と続けた Banthriceバンスライス が、Bansheeバンシイケルト伝説にある告死婆)が変死の門辺に立つとき化けると云う老人――すなわち Banshriceバンシュライス のように響くからなんですよ。ねえ田郷さん、僕が持ち出した汝真夜中のザウ・ミックスチュア・ランク……の一句には、こういう具合に、二重にも三重にもの陥穽かんせいが設けられてあったのです。勿論僕は、貴方がこの事件で、告死老人バンシュライスの役割をつとめていたとは思いませんが、しかしその、魔女ヘカテが呪い毒に染んだという三たびスライスは、いったい何事を意味しているでしょうか。ダンネベルグ夫人……易介……そうして三度目は?」
 そう云って法水は、しばらく相手を正視していたが、真斎の顔は、しだいに朦朧もうろうとした絶望の色に包まれていった。法水は続けて、
「それから僕は、その『ゴンザーゴ殺し』の三たびスライスを再び俎上そじょうに載せて、今度は反対に、下降して行く曲線として観察したのです。そして、いよいよその一語に、供述の心理を徹頭徹尾支配している、恐ろしい力があるのを確かめることが出来ました。そのために、ポープの『髪盗みレープ・オヴ・ゼ・ロック』の中で一番道化ている、異常に空想が働き、男自ら妊れるものと信ずるならんメン・プルーヴ・ウイズ・チャイルド・アズ・パワーフル・ファンシイ・ウォークス――を引き出して、ごうも心中策謀のないのを、貴方にほのめかしたのです。ところが、その次句の、処女は壺になったと思いエンド・メイド・ターント・ボトルス三たび声を上げて栓を探すコール・アラウド・フォア・コークス・スライス――で答えた貴方は、その中に thriceスライス という字があるのをほとんど意識しないかのように、平然としかも、きわめて本格的な朗誦法で口にしているではありませんか。勿論それは、弛緩した心理状態にありがちな盲点現象です。さらに、前後の二つを対比してみると、同じ thriceスライス 一字でも、『ゴンザーゴ殺し』に現われているのと『髪盗みレープ・オヴ・ゼ・ロック』のそれとでは、心理的影響において、いちじるしい差異があるのを測ることが出来たのでした。そこで僕は、結論をよりいっそう確実にするために、今度はセレナ夫人から、昨夜この館にいた家族の数を引き出そうと試みました。ところが、僕の云ったゴットフリートの――吾今ただちに悪魔と一つになるを誰か妨げ得べきウァス・ヒエルテ・ミッヒ・ダス・イヒス・ニヒト・ホイテ・トイフェル――に対して、セレナ夫人は、その次句の――短剣の刻印に吾身は慄え戦きぬゼッヒ・シュテムペル・シュレッケン・ゲエト・ドゥルヒ・マイン・ゲバイン――で答えたのです。しかし、何故か sechゼッヒ短剣)と云うと狼狽ろうばいの色が現われて、しかも、短剣の刻印ゼッヒ・シュテムペルと、頭韻アリテレーションを響かせて一つの音節シラブルにして云うところを、sechゼッヒStempelシュテムペル刻印)の間に不必要な休止ポーズを置いたのですから、それ以下の韻律を混乱におとしいれてしまったことは云うまでもありません、何故セレナ夫人は、そういう莫迦ばかげた朗誦法を行ったのでしょうか。それはとりもなおさず、Sechsゼックス Tempelテムペル六つの宮)と響くのをおそれたからです。その伝説詩の後半に現われて、『神の砦デイフォデュルム』(現在のメッツ附近)の領主の魔法でヴァルプルギス・ナハトの森林中に出現すると云う――その六つ目の神殿に入ると、入った人間の姿は再び見られないと云うのですからね。ですから、セレナ夫人が問わず語らずのうちに暗示した、その六番目の人物と云うのは……。いや、昨夜この館から、突然消え去った六人目があったという事は、僕の神経に映った貴方がた二人の心像だけででも、もはや否定する余地がなくなりました。こうして、僕の盲人造型は完成されたのです」
 真斎は、たまりかねたらしく、肱掛ひじかけを握った両手が怪しくもふるえ出した。
「すると、あんたの心中にあるその人物というのは、いったい誰を指して云うことですかな?」
「押鐘津多子です」法水はすかさず凜然りんぜんと云い放った。「かつてあの人は、日本のモード・アダムスと云われた大女優でした。五フイート四インチという数字は、あの人の身長以外にはないのですよ。田郷さん、貴方はダンネベルグ夫人の変死を発見すると同時に、昨夜から姿の見えない津多子夫人に、当然疑惑の眼を向けました。しかし、光栄ある一族の中から犯人を出すまいとすると、そこになんらかの措置そちで、覆わねばならぬ必要に迫られたのです。ですから、全員に嵌口令かんこうれいを敷き、夫人の身廻り品を、どこか眼につかない場所に隠したのでしょう。無論そういう、支配的な処置に出ることの出来る人物と云えば、まず貴方以外にはありません。この館の実権者をさておいて、他にそれらしい人を求められよう道理がないじゃありませんか」
 押鐘津多子おしがねつたこ――その名は事件の圏内に全然なかっただけに、この場合青天の霹靂へきれきに等しかったであろう。法水の神経運動ナアヴァシズムが微妙な放出を続けて、上りつめた絶頂がこれだったのか。しかし、検事も熊城もしびれたような顔になっていて、容易に言葉も出なかった。と云うのは、これがはたして法水の神技であるにしても、とうていそのままを真実として鵜呑うのみに出来なかったほど、むしろ怖れに近い仮説だったからである。真斎は手働四輪車を倒れんばかりに揺って、激しく哄笑こうしょうを始めた。
「ハハハハハ法水さん、下らん妖言浮説は止めにしてもらいましょう。貴方が云われる津多子夫人は、昨朝早々にこの館を去ったのですじゃ。だいたい、どこに隠れていると云われるのです。人間わざで入れる個処ところなら、今までに残らず捜し尽されておりましょう。もし、どこかに潜んで居るのでしたら、わしから進んで犯人として引き出して見せますわい」
「どうして、犯人どころか……」法水は冷笑を湛えて云い返した。「その代り鉛筆と解剖刀メスが必要なんですよ。そりゃ僕も、一度は津多子夫人を、風精ジルフェの自画像として眺めたことはありましたがね。ところが田郷さん、これがまた、悲痛きわまる傍説エピソードなんですよ。あの人は、死体となってからも、喝采かっさいをうける時機を失ってしまったのですからね。それが、昨夜の八時以前だったのです。その頃にはとうに津多子夫人は、遠く精霊界フェアリー・ランドに連れ去られていたのです。ですから、あの人こそ、ダンネベルグ夫人以前の……、つまり、この事件では最初の犠牲者だったのですよ」
「なに、殺されて※(感嘆符疑問符、1-8-78)」真斎は恐らく電撃に等しい衝撃ショックをうけたらしい。そして、思わず反射的に問い返した。「す、すると、その死体はどこにあると云うのです?」
「ああ、それを聴いたら、貴方はさぞ殉教的な気持になられるでしょうが」と法水は、いったん芝居がかった嘆息をして、「実を云うと、貴方はその手で、死体の入っている重い鋼鉄を閉めたのでしたからね」とキッパリ云い放った。
 とたんに三つの顔から、感覚がことごとく失せ去ったのも無理ではない。法水は、あたかもこの事件が彼自身の幻想的ファンタスチックな遊戯ででもあるかのように、吐き続ける一説ごとに、奇矯な上昇を重ねてゆく。そして、ちょうどこの超頂点ウルトラクライマックスが、はっきりと三人の感覚的限界を示していたからであった。そこで法水は、この北方ゴート式悲劇に次幕の緞帳カーテンを上げた。
「ところで田郷さん、昨夜の七時前後と云えば、ちょうど傭人達の食事時間に当っていたそうですし、また拱廊そでろうかで、かぶとが置き換えられた頃合にも符合するのですが、とにかくその前後に、大階段の両裾にあった二基の中世甲冑かっちゅう武者が、階段を一足跳びに上ってしまい、『腑分図』の前方に立ち塞がっていたのです。しかし、たったその一事だけで、津多子夫人の死体が古代時計室の中に証明されるのですがね。サァ論より証拠、今度はあの鋼鉄扉を開いて頂きましょうか」
 それから、古代時計室に行くまでの暗い廊下が、どんなに長いことだったか。恐らく、窓を激しく揺する風も雪も、彼等の耳には入らなかったであろう。熱病患者のような充血した眼をしていて、上体のみがいたずらに前へ出て、体躯たいくのあらゆる節度を失いきっている三人にとると、沈着をきわめた法水の歩行が、いかにももどかしかったに違いない。やがて最初の鉄柵扉が左右に押し開かれ、うるしで澄みわたった黒鏡のように輝いている鋼鉄扉の前に立つと、真斎は身体をかがめて、取り出した鍵で、右扉の把手ハンドルの下にある鉄製のはこを明け、その中の文字盤を廻しはじめた。右に左に、そうしてまた右にひねると、微かに閂止かんぬきどめの外れる音がした。法水は文字盤の細刻を覗き込んで、
「なるほど、これはヴィクトリア朝に流行はやった羅針儀式マリナース・コムパス文字盤の周囲は英蘭土(イングランド)近衛竜騎兵聯隊の四王標である。ヘンリー五世、ヘンリー六世、ヘンリー八世 女王エリザベスの袖章で細彫りがされ把手には the Right Hon'ble. JOHN Lord CHURCHIL の胸像が彫られてある)ですね」と云ったけれども、それがどことはなしに、失望したような空洞うつろな響を伝えるのだった。鍵の性能に対してほとんど信憑しんぴょうをおいていない法水にとると、恐らくこの二重に鎖された鉄壁が、彼の心中にわだかまっている、ある一つの観念を顛覆したに違いないのだった。
「サア、名称は存じませんが、合わせ文字を閉めた方向と逆に辿たどってゆくと、三回の操作でドアが開く仕掛になっております。つまり、閉める時の最終の文字が、開く時の最初の文字に当るわけですが、しかし、この文字盤の操作法と鉄函てつばこの鍵とは、算哲様の歿後、わし以外には知る者がないのです」
 次の瞬間、つばむ隙さえ与えられなかった一同が、息詰るような緊張を覚えたと云うのは、法水が両側の把手とってを握って、重い鉄扉を観音開きに開きはじめたからだった。内部なか漆黒しっこくの闇で、穴蔵のような湿った空気が、冷やりと触れてくる。ところが、どうしたことか、中途で法水は不意いきなり動作を中止して、戦慄せんりつを覚えたように硬くなってしまった。が、その様子は、どうやら耳をらしているように思われた。刻々チクタクと刻む物懶ものうげな振子の音とともに、地底からとどろいて来るような、異様な音響が流れ来たのであった。

    二、Salamander soll gluhen(火精ザラマンダーよ燃えたけれ)

 しかし、法水は、いったん止めた動作を再び開始して、両側の扉を一杯に開ききると、なかには左右の壁際に、奇妙な形をした古代時計がズラリと配列されていた。外光が薄くなって、奥の闇と交わっている辺りには、幾つか文字面の硝子らしいものが、薄気味悪げなうろこの光のように見え、そのほのかな光に生動が刻まれていく。と云うのは、所々に動いている長い短冊振子が、絶えず脈動のような明滅を繰り返しているからであった。この墓窖はかあなのような陰々たる空気の中で、時代の埃を浴びた物静けさが、そして、様々な秒刻の音が、未だに破られないのは、恐らく誰一人として、つめきった呼吸いきを吐き出さないからであろう。が、その時、中央の大きな象嵌ぞうがん柱身の上に置かれた人形時計が、突然弾条ぜんまいゆるむ音を響かせたかと思うと、古風なミニュエットを奏ではじめたのであった。廻転琴オルゴール反対の方向に動く二つの円筒を廻転せしめ、その上にある無数の棘をもって、梯状に並んでいる音鋼を弾く自動楽器)が弾き出した優雅な音色が、この沈鬱な鬼気を破ったとみえて、再び一同の耳に、あの引き摺るように重たげな音響が入ってきた。
「灯を※(感嘆符二つ、1-8-75)」熊城は吾に返ったかのごとくに呶鳴どなった。真斎の手で壁の開閉器スイッチひねられると、はたして法水の神測が適中していた。と云うのは、奥の長櫃キャビネットの上で、津多子夫人は生死を四人のさいの目に賭けて、両手を胸の上で組み、長々と横たわっているのであった。その端正な美しさは、とうてい陶器で作った、ベアトリチェの死像と云うほかにないであろう。しかし、引き摺るような鈍い音響は、まさに、津多子夫人が横たわっている附近から発せられてくる。薄気味悪い地動のようないびき声、それも病的な喘鳴ぜいめいでも交っているかのような……。ああ、法水が死体と推測した津多子夫人は、未だに生動を続けているではないか。皮膚はまったく活色を失い、体温は死温に近いほどに低下しているけれども、微かに呼吸を続け、微弱ながらも心音が打っている。そして、顔だけを除いて、全身を木乃伊ミイラのように毛布で巻き付けられているのだった。その時、廻転琴オルゴールのミニュエットが鳴り終ると、二つの童子人形は、かわるがわる右手のつちを振り上げて、チャペルを叩いた。そして、八時を報じたのであった。
「抱水クロラールだ」法水は呼気をいだ顔を離すと、元気な声で云った。「瞳孔も縮小しているし、臭いもそれに違いない。だが、生きていてくれてなによりだったよ。ねえ熊城君、津多子夫人の恢復かいふくで、この事件のどこかに明るみが差すかもしれないぜ」
「なるほど、薬物室の調査は無駄じゃなかったろうがね」と熊城は苦いものに触れたような顔になって、
「だが、おかげさまで、とんだ悲報を聴かされてしまったよ。物凄い幻滅だ。あの銅版刷みたいに鮮かな動機を持った女が、なんという莫迦ばかげた大砲を向けてきたんだい。一つ君に、霊媒でも呼んでもらおうかね」
 事実熊城が云ったように、遺産配分からただ一人除かれていて、最も濃厚な動機を持っているはずの押鐘津多子夫人には、どこかにもろい、破れ目でも出来そうなところがあるように思われていた。その矢先に、兇悪無惨な夢中の人物となって現われたばかりでなく、しかも、法水の推測をくつがえして、今度は不可解な昏睡状態に、微妙な推断を要求しているのだった。その予想を許されない逆転紛糾には、ひとり熊城ならずとも、まったくたまらない事件に違いないのである。検事も腹立たしげに吐息して云った。
「ただただ驚くばかりさ。僅々きんきん二十時間あまりの間に、二人の死者と二人の昏倒者が出来てしまったんだ。どのみち、問題になるのは、文字盤が廻される以前さ。それまでに、犯人は昏倒させた津多子を、ここへ運び入れたのだろう」と云って、法水を確信ありげな表情で見て、「しかし法水君、だいたいの薬量が判れば、それを咽喉のどに入れた時刻の見当がつくだろう。そこに僕は、何かあるのじゃないかと思うよ。この昏睡には、きっと裏のまたその裏があるに違いないのだ」と意気地なくも検事も、やはり津多子夫人にまつわる、動機の確固たる重さに引き摺られるのだった。
「たしかに明察だ」法水は満足そうにうなずいたが、「だが、薬量などはどうでもいい事なんだよ。何より問題なのは、犯人にこの人を殺す意志がなかったという事だ
「なに、殺す意志がない※(感嘆符疑問符、1-8-78)」検事は思わず鸚鵡おうむ返しに叫んだが、すぐに異議を唱えた。「しかし、薬量の誤測ということは、当然ないとは云えまい」
「ところが支倉君、この出来事には、薬量が根本から問題ではないのだ。ただ眠らせてこのへやに抛り込んでおきさえすれば、それが論なしに致死量になってしまうのだよ。多量の抱水クロラールには、いちじるしく体温を低下させる性能があるのだ。それにこの室は、石と金属とで囲まれていて、非常に温度が低い。だから、窓を開いて外気を入れさえすれば、この室の気温が、ちょうど凍死に恰好な条件になってしまうじゃないか。ところが犯人は、そういう最も安全な方法を択ばないばかりでなく、現在見るとおり木乃伊ミイラみたいにくるんでいて、不可解な防温手段を施しているんだよ」と相変らず法水は、奇矯をきわめる謎の中から、さらにまた異様な疑問を摘出するのだった。
 ところが、はたして彼のことばのごとく、窓の掛金には石筍せきじゅんのようなさびがこびり付いていて、しかも、清掃されている室内には、些細の痕跡すら留められていない。法水は、運び出されてゆく津多子夫人を凝然と見送りながら、なにかしら慄然りつぜんとしたような顔になって云った。
「たぶん明日一日おけば、充分訊問に耐えられるだろうとは思うが、しかしこの一事だけは、どうあっても記憶しておかなけりゃならん。何故に犯人が、津多子夫人の自由を奪って拘禁したか――という事なんだ。あるいは僕の思い過しかもしれないがね。そういう手段を採るに至った陰険な企みと云うのが、もしかしたら、意識が恢復してから吐かれる、言葉の中にあるのではないかと思われるんだよ。どうして、破れ目がありそうだと、そこにはきまって陥穽わながあるんだから」
 真斎は法水の驚くべき曝露に遇ったせいか、この十分ばかりの間に、見違えるほど憔悴しょうすいしてしまった。力のない手附で、四輪車を操りながら、何か云い出そうとして哀願的な素振をすると、
「判ってますよ田郷さん」と法水は軽く抑えて、「貴方の採った処置については、僕の方から、熊城君によろしく頼んでおきましょう。ところで、押鐘津多子夫人の姿が見えなくなったのは、昨夜何時頃でしたか」
「それが、大分遅くなってからでしてな。なにしろ、神意審問会に欠席されたので、その折初めて気がついたのですよ」と真斎はようやく安堵あんどの色を現わして云った。「ちょうど夕刻の六時頃に、御夫君の押鐘博士から電話が掛ってまいりました。そして、昨夜九時の急行で、九大の神経学会に行くとかいう旨を伝えられたそうですが、その時召使の一人が、津多子様が電話室からお出になったのを見たのみで、それなり、吾々われわれの眼には触れなくなってしまわれたのです。もっともこの電話のことは、御自宅を確かめた時に、先方の口から出た事実でしたが」
「なるほど、六時から八時――。とにかくその間の動静を、各個人それぞれに調べることだ。あるいはそこから、火繩銃ぐらいは飛び出さんとも限らんからね」と熊城がほとんど直観的に云うと、それを法水は、驚いたように見返して、
「冗談じゃない。なるほど、君は体力的だよ。しかし、あの狂人詩人のすることに、どうして不在証明アリバイなんて、そんな陳腐な軌道があってたまるもんか」と、てんで頭から相手にしなかった。それから彼は、片眼鏡モノクルでも欲しそうな鑑賞的な態度になって、物奇ものめずらしそうな視線を立ち並ぶ古代時計にせはじめた。
 それには、カルデアのロッサス日時計やビスマーク島ダクダク講社の棕櫚絲しゅろいと時計。水時計の類には、まず、トレミー朝歴代の埃及王ファラオやオシリス・マアアト等の諸神、それにセバウ・ナアウの蛇鬼神だきじんまでも両枠に彫り込んである――クテシビウス型を始めに、五世紀柔然アヴァール族(西域の民族。六世紀の末突厥人のためにカウカサスに逐い込まる)の椀形刻計儀に至るまでの、十数種があった。それから、ホーヘンシュタウフェン家の祖フレデリック・フォン・ビュレンの紋章が刻まれている、めずらしいディアボロ形の砂漏さろうなどが注目されたけれども、油時計や火繩時計のように中世西班牙イスパニアで跡を絶ったものには、ピヤリ・パシャ(一五七一年ヴェネチア共和国とレヴァントで海戦を演じたスルタンの婿)からの戦獲品や、仏蘭西フランス旧教徒の首領ギーズ公アンリー(聖バーセルミュウ祭の当日新教徒を虐殺した人物)から献上したもの等が眼に止った。なお、重錘初期以来のものは二十にあまるけれども、特に目立ったのは、巨大な海賊船ヴァイキング・シップの横腹に、時計や七曜円を附けたもので、刻字文によると、マーチャント・アドヴェンチュアラーズ会社からウイリアム・シシル卿(エリザベス朝に入ってから、ハンザ商人に弾圧を加えた政治家)に贈ったものであった。恐らくこれらは、古代時計の蒐集しゅうしゅうとして、世界に類を求め得ないほどに冠絶したものに違いなかった。しかし、その中央で王座のようにわだかまって君臨しているのが、黄銅製の台座の柱身にはオスマン風の檣楼しょうろう羽目パネルには海人獣が象嵌ぞうがんされていて、その上に、コートレイ式の塔形をなした人形時計が載せられている――一つがそれだった。それには、近世のもののような目盛盤がなく、塔上の円柵の中にはチャペルが一つあって、それを挾んで、和蘭オランダハーレム辺りの風俗をした、男女の童子人形が向き合っている。そして、一刻が来るたびに、それまで自動的に捲かれた弾条ぜんまいゆるみ、同時に内部の廻転琴オルゴールが鳴り出して、その奏楽が終ると、今度は二人の童子人形が、交互に撞木しゅもくを振り上げてはチャペルを叩き、定められた点鐘を報ずる仕掛になっていた。法水が横腹にある観音開きの扉を開くと、上部には廻転琴オルゴール装置があって、その下が時計の機械室だった。しかし、その時扉の裏側に、はしなくも異様な細字の篆刻てんこくを発見したのである。すなわち、その右側の扉には……
――天正十四年五月十九日 (羅馬ローマ天主デウス誕生以来一五八六年)西班牙エスパニア王フェリペ二世より梯状琴クラヴィ・チェムバロとともにこれをうく。
 また、左手の扉にも、次の文字が刻まれているのだった。
――天正十五年十一月二十七日 (羅馬暦天主デウス誕生以来一五八七年)。ゴアの耶蘇会ジェスイットセントパウロ会堂において、サンフランシスコ・シャヴィエル上人の腸丸ちょうがんをうけ、それをこの遺物筐シリケきょうに収めて、童子の片腕となす。
 それはまさしく、耶蘇会ジェスイット殉教史がしたたらせた、鮮血の詩の一つであったろう。しかし、後段に至ると、そのシャヴィエル上人の腸丸が、重要な転回を勤めることになるのであるが、その時はただ、法水が悠久※(「石+(蒲/寸)」、第3水準1-89-18)ほうはくたるものに打たれたのみで、まるで巨大なてのひらにグイと握りすくめられたかのような、一種名状の出来ぬ圧迫感を覚えたのであった。そして、しばらくその篆刻てんこく文をみつめていたが、やがて、
「ああ、そうでしたね。確か上川島サンシアンとう広東省珠江の河口附近)で死んだシャヴィエル上人は、美しい屍蝋しろうになっていたのでした。なるほど、その腸丸と遺物筐シリケきょうとが、童子人形の右腕になっているのですか」と低く夢見るような声で呟いたが、突然調子を変えて、真斎に訊ねた。
「ところで田郷さん、見掛けたところ埃がありませんけど、この時計室はいつ頃掃除したのです?」
「ちょうど昨日でした。一週に一回することになっておりますので」
 そうして、古代時計室を出ると、真斎は何より先に、彼を無惨な敗北に突き落したところの疑念を解かねばならなかった。法水は、真斎の問いに味のない微笑をうかべて、
「そうすると貴方は、デイやグラハムの黒鏡魔法ブラック・ミラー・マジックを御存じでしょうか」とひとまず念を押してから、けむりを吐いて語りはじめた。
先刻さっきも云ったとおり、その解語キイと云うのが、階段の両裾にあった二基の中世甲冑武者なんです。勿論装飾用のもので、たいした重量ではありませんが、あれは、御承知のように、ちょうど七時前後――折柄傭人達の食事時間を狙って、一足飛びに階段廊まで飛び上ってしまったのです。それに、双方とも長い旌旗せいきを持っているのですが、僕は最初、それを旌旗の入れ違いから推断して、犯人の殺人宣言と解釈したのです。しかし、ちょっと神経に触れたものがあったので、ひとまず二旒にりゅうの旌旗と、その後方にあるガブリエル・マックスの『腑分図』とを見比べて見ました。勿論画中の二人の人物には、津多子夫人の在所ありかを指摘するものはなかったのですが、その時ふと、二旒の旌旗が画面のはるか上方を覆うているのに気がついたのです。そこに、ダマスクスへの道を指し示している、里程標があったのですよ。つまり、その辺一帯の、一見絵刷毛ブラッシュを叩き付けたような、様々な色があるいは線をなし塊状をなしていて――色彩の雑群を作っている所が、すなわちそれだったのです。ところで、点描法ポアンチリズムの理論を御存じでしょうか。色と色を混ぜる代りに、原色の細かい線や点を交互に列べて、それをある一定の距離を隔てて眺めさせると、始めて観者の視覚の中で、その色彩分解が綜合されるのを云うのですよ。勿論、それよりわずかでも前後すれば、たちまち統一が破れて、画面は名状すべからざる混乱に陥ってしまうのです。つまりそれが、ルーアン本寺の門を描いたモネエの手法なのですが、それをいっそう法式化したばかりでなく、さらに理論的に一段階進めたものと云うのが、あの画中に隠されてあったのです」と法水はそこまで云うと、鋼鉄扉を閉じさせて、「では、一つ実験してみますかな――あの混乱した雑色の中に何が隠されているのか? 最初に熊城君、その壁にある三つの開閉器スイッチひねってくれ給え」
 さっそく熊城が法水の云うとおりにすると、最初に「腑分図」の上方にある灯が消え、続いて、右手のド・トリー作「一七二〇年馬耳塞マルセーユ黒死病ペスト」の上方から、右斜めに落ちている一つも消えたので、階段廊に残っている光と云えば、左手のジェラール・ダヴィッド作「シサムネス皮剥死刑之図」の横から発して、「腑分図ふわけのず」を水平に撫でている一つのみになってしまった。が、その一燈に当る開閉器スイッチは、階段の下にあるのだった。すると、それまで現われていた渋い定着が失われて、「腑分図」の全面には、眼のくらむような激しい眩耀ハレーションが現われた。さらに、最後の一つがひねられて頭上の灯が消えると、法水はポンと手を叩いて、
「これでいいのだ。やはり、僕の推測どおりだったよ」
 ところが、それからしばらくの間、前方の画中を血眼ちまなこになって探し求めていたけれども、三人の眼には、眩耀ハレーション以外の何ものも映らなかった。
「いったいどこに何があるんだ」と床を蹴って、熊城は荒々しく怫然ふつぜんと叫んだ。が、その時なにげなしに、真斎が後方の鋼鉄扉を振り向くと、そこには熊城の肩を、思わずも掴ませたものがあった。
「アッ、テレーズだ!」
 それは、まさしく魔法ではあるまいかと疑われたほど、不可思議奇態をきわめた現象であった。前方の画面がまばゆいばかりの眩耀ハレーションで覆われているにもかかわらず、その上方の部分が映っている後方の鋼鉄扉には、はたしてどこから映ったものか、くっきりと確かな線で、しかも典麗な若い女の顔が現われているのだった。さらにいっそう薄気味悪いことには、まがうかたなくそれが、黒死館で邪霊と云われるテレーズ・シニヨレだったのである。法水ははたの驚駭にはかまわず、その妖しい幻の生因を闡明せんめいした。
「判ったでしょう田郷さん、混乱した色彩があの距離まで来ると、始めて統一を現わすのですよ。しかし、その点描法ポアンチリズムの理論と云うのは、この場合単に、分裂した色彩を綜合する距離を示したのみのことです。無論その色彩だけでは、朦朧もうろうとしたものがこの漆扉うるしどへ映るにすぎないでしょう。実はその基礎理論の上に、さらに数層の技巧が必要なのです。と云うのは、ほかでもないのですが、今世紀の初めに黴毒菌スピロヘーター染色法として、シャウディンとホフマンが案出した『暗視野照輝法』なのですよ。元来黴毒菌スピロヘーターは無色透明の菌なので、そのまま普通の透視法を用いたのでは、顕微鏡下で実体を見ることは出来ません。それで、一案として顕微鏡の下に黒い背景バックを置き、光源を変えて水平から光線を送るようにしたのですが、その結果始めて、透明の菌だけから反射されてくる光線を見ることが出来たのでした。つまりこの場合は、左横の『シサムネス皮剥死刑之図』の脇から発して、画面を水平に撫でている光線が、それに当るのですよ。すると勿論、色彩から光度ヘリヒカイトの方に、本質が移ってしまいます。ですから、黄や黄緑のような比較的光度の高い色や、対比現象で固有のもの以上の光度を得ている色彩は、恐らく白光に近い度合で輝くでしょうし、またそれ以下のものは段階をなして、しだいに暗さを増してゆくに違いないのです。その光度の差が、この黒鏡ブラックミラーに映るといっそう決定的になってしまうのですが、一方実際問題として、膠質こうしつの絵具では全体にわたって眩耀ハレーションが起らねばなりません。しかし、色調を奪って、その眩耀ハレーションを吸収してしまうばかりでなく、それを黒と白の単色画モノクロームに、判然と区分してしまうものが、実にこの漆扉うるしど――すなわち黒鏡ブラックミラーなのでした。ですから、やや近い色でも、最も光度の高いものに対比されると、幾分暗さを増すに違いないのですから、そこにテレーズの顔が、ああいう確かな線で、くっきりと描き出された原因があるのですよ。ねえ田郷さん、貴方は史家ホルクロフトや、古書蒐集家ジョン・ピンカートンなどの著述をお読みになったでしょうが、かつて魔法博士デイやグラハムが、愚民を惑わした黒鏡魔法ブラック・ミラー・マジックも、底を割れば、たったこれだけの本体にすぎないのです。さて、三つの開閉器スイッチひねられて、この一帯が暗黒になると、その時、何故に、テレーズの像が現われなければならなかったのでしょう」
 そこで法水はちょっと一息入れてたばこに火を点けたが、再びこつこつ歩き廻りながら云いはじめた。
「それが、破邪顕正の眼なのです。たぶん、算哲博士は世界的の蒐集品を保護するために、文字盤を鉄函てつばこの中に入れただけでは不安だったのでしょう。それがために、こういうすこぶる芝居げたっぷりな装置を、こっそり設けて置いたのですよ。何故なら、考えてみて下さい。いま点滅した三つの灯は、いつも点け放しなんですからね。ですから、仮りにこの室に侵入しようとするものがあれば、自分の姿を認められないために、まず手近にある三つの開閉器スイッチひねり、この辺り一帯を暗黒にしなければならないでしょう。その上で鉄柵扉を開いたとすると、それまで頭上の灯で妨げられていたものが、突然漆扉うるしどの上に不気味な姿となって輝き出すでしょう。しかし、背後の『腑分図』は、その位置から見ただけだと、いたずらに色彩が分裂しているのみであって、しかもまばゆいばかりの、眩耀ハレーションで覆われているのですから、どこにその像の源があるのか判断がつかなくなって、結局仰天に価する妖怪現象となって残ってしまうのです。つまり、小胆で迷信深い犯人は、一度苦い経験を踏んで、たしかおびやかされたに違いありません。ですから、昨夜はこっそり甲冑武者を担ぎ上げて、二りゅう旌旗せいきで問題の部分を隠したと云う訳なんですよ。ねえ田郷さん、確かこれだけは、風精ジルフェが演じたうちで、一番下手な廷臣喜劇コーティア・プレイでしたね」
 法水が語り終えると、検事は冷たくなった手の甲をさすりながら、歩み寄って云った。
「素敵だ法水君、君はトムセンどころか、アントアンヌ・ロシニョール(史上最大の暗号解読家、ルイ十三十四世に仕え、ことに僧正リシュリュウに寵愛せらる)だよ」
「ああ、それは風精ジルフェ洒落しゃれじゃないか」法水は暗澹あんたんとした顔色になって嘆息した。「あの男は詩人のボア・ロベールから、暗号でもない『ファウスト』の文章で揶揄からかわれたのだからね」

     ×        ×        ×

 こうして事件の第一日は、矛盾撞着を山のごとくに積んだままで終ってしまった。が、はたして翌朝になると、あらゆる新聞はこの事件の報道で、でかでか一面を飾り立てて、日本空前の神秘的殺人事件と、すこぶる煽情せんじょう的な筆法で書き立てるのだった。ことに、事件の開始早々にもかかわらず、もう、愚にもつかない実際家じっさいか出の探偵小説家を掴まえてきて、それにくだくだしい推理談的な感想を述べさせているところなどを見ると、降矢木一族の底知れない神秘と関聯させて、この事件をジャーナリスチックにも、あおり立てる心算のように思われた。しかし、法水は終日書斎に閉じこもっていて、その日はとうとう黒死館を訪れなかったが、恐らくそれは、遺言状を開封させるために、福岡から召還した押鐘博士の帰京が、その翌日の午後になった事と、また一つには、津多子夫人の予後が未だ訊問に耐えられそうもないという――以上の二つが決定的な理由のように思われた。けれども、それを従来これまでの例に徴してみると、法水が静かな凝想の中で、何か一つの結論に到達しようと試みているのではないかと、推測されるのだった。勿論その日の午前中に、法医学教室から剖見の発表があった。その中から要点を摘出してみると、ダンネベルグ夫人の死因は明白な青酸中毒で、薬量も、驚くべきことには〇・五と計測されたが、肝腎かんじんの屍光と創紋とは、いずれも生因不明であって、単に蛋白尿が発見されたという一事に尽きていた。それから易介になると、絶命推定時刻は法水の推定どおりだったけれども、異様な緩性窒息の原因や、絶命時刻と齟齬そごしている脈動や呼吸などについては、まさに甲論乙駁おつばくの形で、わけても、易介が傴僂ポット病患者であるところから、その点に関した偏見が多いようだった。なかにも、もはや古典に等しいカスパー・リーマンの自企的絞死法などを持ち出してきて、死後切創きりきずが加えられる以前に、易介は自企的窒息を計ったのではないか――などという、すこぶる市井の臆測に堕したような異説も現われたくらいである。ところが、その翌朝、すなわち一月三十日、法水は突然各新聞通信社に宛てて、支倉検事と熊城捜査局長立会の下に、易介の死因を発表する旨を通告した。
 法水の書斎はきわめて簡素なもので、いたずらに積み重ねた書籍の山に囲まれているだけであったが、それでも、その存在は相当世間に鳴り響いていた。と云うのは、その壁面を飾るものに、現在は稀覯きこう中の稀覯ともいう銅版画で、一六六八年版の「倫敦ロンドン大火之図」が掲げられているからだった。いつもならそれを背にして、彼の最も偏奇な趣味である古今東西の大火史を、滔々とうとうと弁じ立てるのだが、その日は法水が草稿を手に扉を開くと、内部なかは三十人ほどの記者達で、身動きも出来ぬほどの雑沓ざっとうだった。法水は騒響ざわめきの鎮まるのを待って、草稿を読みはじめた。

 ――最初に降矢木家の給仕長川那部易介かわなべえきすけの死を発見した、その前後の顛末てんまつを概述しておこうと思う。すなわち、午後二時三十分拱廊そでろうかの吊具足の中で、正式に甲冑を着した姿で窒息し、死後咽喉部に、二条の「凵」のような形形をした切創をうけ、絶命しているのを発見された。明白に死体の諸徴候は、死後二時間以内である事を証明しているが、その窒息方法は緩慢に加わっていったものらしく、経路も全然不明である。しかも同じ傭人の一人は、一時やや過ぎた頃に、被害者が高熱を発しているのを知り、同時に脈動のあった事も確かめたと云うのみならず、さらに、死体発見を去る僅々きんきん三十分以前の正二時には、被害者の呼吸を耳にしたと云う――実に奇怪きわまる事実を陳述したのである。よって、上述の事実に基づき、ここに私見を明らかにしたいと思う。ところで、最初に原因不明の窒息については、それを器械的胸腺死メカニシェル・ティムストット――と云うよりも、胸腺に或る器械的な圧迫を外部から加えたものだと主張する、すなわち川那部易介は、成年に達しても依然発育した胸腺を有する、一種の特異体質者に相違ないのである。しかしてその方法は、頸輪くびわで頸動脈を強く緊縛したために脳貧血を起し、そのまま軽度の朦朧状態に陥ったのと、よろいを横向きに着させたために、胸板の才鎚環さいづちかんで強く鎖骨上部が圧迫され、その圧力が、左無名静脈に加わったのが主因であろう。したがって、それに注入する胸腺静脈に鬱血をきたし、さらに、それが胸腺にも及んで鬱血肥大を起したので、当然気管を狭搾きょうさくし、やや長時間にわたる漸増的な窒息の結果、死にいたらしめたものであると思う。しかしながら、解剖所見の発表を見るに、それには胸腺についてなんら記されているところはない。けれども、そうして不問に附せられているとは云い条、それ等の事実は、不可思議なる被害者の呼吸と重大なる因果関係を有するものである。さらに、その要点に言及すれば、何故に鏘々そうそうたる法医学者達が、二つの切創きりきずがともに中以上の血管では動脈を避け、静脈のみを胸腔にかけてえぐっているのに気付かぬのであろうか。そこに、人間生理の大原則を顛覆させた、犯人の詭計きけいが潜んでいるのは勿論のことである。ところで、「凵」のような形形に抉らねばならなかった切創の目的と云うのは、ほかでもない。肥大した胸腺を切断して収縮せしめたばかりではなくて、死後動脈収縮(死後ただちに静脈を切断しても、出血しはしないが、ややしばらく後には、動脈の収縮によって、喞筒状に血液を静脈に送り、流血せしむる。)によって流出した血液を胸腔内に充して、肺臓を圧迫し残気を吐き出さしめたと信ずるのである(死後残気の説については、ワグナー、マクドウガル等の実験で、約二十立方インチと計算されている)。次に、死後脈動及び高熱については、絞首――廻転――墜落と続く日本刑死記録においても、相当の文献があるのみならず、ハルトマンの名著「生体埋葬ベリード・アライヴ」一冊だけでも、有名なテラ・ベルゲンの奇蹟(心臓附近のマッサージによって、心音を起し、高熱を発せりと云うファレルスレーベンの婦人)や匈牙利ハンガリーアスヴァニの絞刑死体(十五分間廻転するがままに放置したる後引き下してみると、その後二十分も脈動と高熱が続いたと云う一八一五年ビルバウアー教授の発表)が挙げられているように、窒息死後、廻転するかして死体に運動が続けられる場合は、高熱を発し脈動を起す例が必ずしも皆無ではないのである。まさしく易介においても、絶命後具足の廻転が死体発見の一因として証明されているではないか。よって、上述したところを綜合すれば、易介の死は依然午後一時前後であって、彼がいかにして甲冑を着したかという点にも、北条流吊具足早着之法などの陣中心得は、無論この場合問題ではない。とうてい他人の力をりなければ、非力病弱の易介にはなし得ないと推断されるのである。しかし、今回の発表が、ただ単に死因の推定にのみ止まっていて、なんら事件の開展に資するところのないのは、捜査関係者として心から遺憾の意を表したいと思う。
 法水の朗読が終ると、詰められていた息が一度に吐かれた。そして、昂奮を投げ交すような声でしばらく騒然となっていたが、やがて熊城が、蹴散らすようにして記者達を追い出してしまうと、再びいつものような三人だけの世界に戻った。法水はしばらく凝然じっと考えていたが、めずらしく紅潮をうかべた顔を上げて云った。
「ねえ支倉君、とうとう僕は、ある一つの結論に到達したのだ。勿論外包的だよ。全部の公式はとうてい判っちゃいないがね。しかし、個々の出来事からでも、共通した因数ファクターを知ることが出来たとしたら、どうだろう」と二人の顔をサッとかすめた、驚愕きょうがくの色に流眄ながしめをくれて、「ところで君は、この事件の疑問一覧表を作ってくれたはずだったね。では、その一箇条一箇条の上に、僕の説を敷衍ふえんさせてゆくことにしようじゃないか」
 検事が固唾かたずみながら、懐中の覚書を取り出した時だった。ドアが開いて、召使が一通の速達を法水に手渡しした。法水は、その角封を開いて内容を一瞥いちべつしたが、格別の表情もうかべずに、すぐ無言のまま卓上の前方に投げ出した。ところが、それに眼を触れた検事と熊城はたちまちどうにもならない戦慄せんりつに捉えられてしまった。見よ、ファウスト博士から送られた三回目の矢文ではないか! それには、いつものゴソニック文字で、次の文章がしたためられてあった。
Salamander soll gluhen
     (火精ザラマンダーよ、燃えたけれ)
[#改丁]

[#ページの左右中央]
  第五篇 第三の惨劇
[#改ページ]


    一、犯人の名は、リュッツェン役の戦歿者中に

 Salamander soll gluhen(火精ザラマンダーよ、燃えたけれ)
 黒死館を真黒な翼で覆うている眼に見えない悪鬼が、三たびファウスト博士を気取って五芒星呪文の一句を送って来た。それには、なにより熊城くましろが、まず云いようのない侮辱を覚えずにはいられなかった。事実、残された四人の家族は熊城の部下によって、さながらゴート式甲冑のように、身動きも出来ぬほど装甲されているのである。それにもかかわらず、不敵きわまりない偏執狂的マニアックな実行を宣言して、ダンネベルグ夫人と易介えきすけに続く、三回目の惨劇を予告しているのではないか。そうなると、熊城の作り上げた人間の塁壁が、第一どうなってしまうのであろう。ほとんど犯罪の続行を不可能に思わせるほどの完璧なとりででさえも、犯人にとっては、わずか冷笑の塵にすぎないではないか。のみならず、そういう触れれば破滅を意味している、決定的な危険を冒してまでも敢行しようという、恐らく狂ったのでなければ意志に表わせぬような決慮を示しているのであるから、その不敵さに度胆を抜かれた形になってしまって、三人がしばらくの間声を奪われていたのも無理ではなかった。その日は何日目かの快晴だった。なごやかな陽差が、壁面を飾っている「倫敦ロンドン大火之図」の下方――ちょうどブリクストン附近に落ちていて、それがしだいにテムズを越えて、一面に黒煙のみなぎる、キングスクロスの方へ這い上って行こうとしている。しかしそれに引き換え室内の空気は、打てば金属かねのように響くかと思われるほどに緊張しきっていたが、法水のりみずは何か成算のあるらしい面持おももちで、ゆったりと眼をじ黙想にふけりながらも、絶えず微笑をうかべ独算気なうなずきを続けていた。やがて、熊城が無理に力味りきみ出したような声を出した。
「僕は真斎じゃないがね。虚妄うそ烽火のろしには驚かんよ。あの無分別者の行動も、いよいよこれで終熄しゅうそくさ。だって考えて見給え。現在僕の部下は、あの四人の周囲をたてのように囲んでいる。けれども、その反面の意味が、同時に犯人の行動記録計の役も勤めていることになるんだぜ。ハハハハ法水君、なんという皮肉だろう。もしかしたら、犯人にも護衛を附けてないとも限らんのだからね」
 検事は相変らず憂鬱な顔で、熊城の過信に反対の見解を述べた。
「どうして、あの四人をバラバラに離してみたところで、とうていこの惨劇は終りそうもないよ。人間の力では、どうしても止めることが不可能のような気がする。事実僕には、まだ誰か知られてない人物が、黒死館のどこかに潜んでいるような気がしてならないんだ」
「すると君は、ディグスビイが蘭貢ラングーンで死んだのではないと云うのか」熊城は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、身体を乗り出した。
「とにかく、冗談はやめてもらおう。それほど算哲の遺骸が気になるのだったら、その発掘は、この事件の大詰おおづめが済んでからのことにしようじゃないか」
「うん、神経かもしれないが。けっして小説的な空想じゃないよ。結局この神秘的な事件が、そこまで辿たどり着いて行きそうな気がするだけだけどもね」とそれなりで検事は、彼の譫妄うわごとめいたものを口には出さなかったけれども、それには背後から追い迫って来る、悪夢のような不思議な力が潜んでいた。割合夢想的な法水でさえも、その――ディグスビイの生死いかんにかけた疑問と算哲の遺骸発掘――という二つの提題からは、瞬間ではあったが、うずき上げてくるようなものを感じたことは事実だった。検事は椅子をグイと後に倒して、なおも嘆息を続けた。
「ああ、今度は火精ザラマンダー※(感嘆符疑問符、1-8-78) すると、拳銃ピストルか石火矢かい。それとも、古臭いスナイドル銃か四十二ポンド砲でも向けようという寸法かね」
 法水はその時不意にまぶたを開いて、そそられたように半身を卓上に乗り出した。
「四十二ポンド加農砲キャノン! そうだ支倉はぜくら君。しかし、君がそれを意識して云ったのなら、たいしたものだよ。今度の火精ザラマンダーには、けっして今までのような陰険朦朧もうろうたるものはないと思うのだ。きっと犯人の古典クラシック好みから、ロドマンの円弾まるだま海盤車ひとでのような白煙を上げて炸裂さくれつするだろうよ」
「ああ、相変らず豪壮な喜歌劇オペレッタかね。それなら、どうでもいいが」と熊城はいったん忌々いまいましそうに舌打ちしたが、坐り直した。「しかし、論拠のあるものなら、一応は聴かせてもらおう」
「勿論あるともさ」法水は無雑作にうなずいたが、その顔には制しきれない昂奮の色が現われていた。「と云うのは、今度の火精ザラマンダーだけに、水精ウンディヌス風精ジルフス――と前例のある、性別転換が行われてないという事なんだ。ところで、あの五芒星呪文に現われている四つの精霊だが、それぞれに水精ウンディネ風精ジルフェ火精ザラマンダー地精コボルト――と、物質構造の四大要素を代表している。云うまでもなく、中世の錬金道士パラツェリストが仮想していた、元素精霊エレメンタリー・スピリットには違いない。そして今までは、水精ウンディヌスと扉を開いた水、風神ジルフスと倍音演奏――と云っただけの、云わば要素的な符合しか判ってはいなかったのだ。けれども、いったんそれに性別転換の解釈を加えると、あのいかにも秘密教エルメチスムめいていたものが、たちどころに公式化されてしまうのだ。ねえ熊城君、水精ウンディヌスと男性に変えなければ、どうしてあのドアを開くことが出来なかったのだろうか。そこに、犯罪方程式の一部が精密な形で透し見えていたのを、僕等は、今まで何故に看過していたのだろうか」
「なに犯罪方程式※(感嘆符疑問符、1-8-78)」法水の意外なことばに、熊城は胸を灰だらけにして叫んだ。けれども、だいたいが真理などと云うものは、往々に、牽強附会この上なしの滑稽劇バーレスクにすぎない場合がある。しかも、きまっていつも、それは平凡な形で足下に落ちているものではないか。続いて、法水が曝露したその一側面と云うのが、いかに二人を唖然たらしめたことか……。
「ところで君は、スピルディング湖の水精ウンディネを描いた、ベックリンの装飾画を見たことがあるかね。鬱蒼うっそうとしたもみ林の底で、氷蝕湖の水が暗く光っているのだ。それが、群青ぐんじょうなまの陶土に溶かし込んだような色で、粘稠ねっとりよどんでいる。その水面に、※(「虫+礼のつくり」、第3水準1-91-50)みずちの背ではないかと思わせているのが、金色を帯びた美しい頭髪で、それが藻草のようにたなびいているのだよ。けれども熊城君。僕はなにも職業的な観賞家じゃないのだからね、猟館や瘤々した自然橋などを持ち出してまで、君達に瞑想をうながそうとする魂胆はない。そういう水精ウンディネを男性に変えてしまう段になると、真先に変化の起らねばならぬものが、そもそも何であるか――それを問いたいのだよ」
 と法水の顔に微かな紅潮がうかび上って、五芒星ペンタグラムマの不備を指摘する、メフィストの科白せりふその円に一個所誤謬があったためにその間隙を狙い、メフィストがファウストの鎖呪を破って侵入したのである)を口にした。「――とくと見給え。あの印呪は完全に引いてないよ。外側に向いている角が見るとおりに少し開いている
「ああなるほど、毛髪かみのけと鍵の角度に水! これは、博学なる先生に御挨拶申し上げます。すこぶる汗をかかされたものですわい」
 と同じく洒落しゃれた口調で、検事もメフィストの科白せりふ相槌あいづちを打ったけれども、それには、犯人と法水と、両様の意味で圧倒されてしまった。……あの夜ダンネベルグ夫人が死体となったへやドアには、鍵孔に注ぎ込んだ水の湿度によって毛髪が伸縮し、自働的に開閉されるデイ博士の隠顕扉装置が秘められてあった。ところが、それに必要な水と毛髪とが、カルデア古呪文の中に隠されていたのは未だしもの事で、より以上の驚きと云うのは、ほかにあったのだ。それは、その装置を力学的に奏効させるところの落し金の角度が、物もあろうに機械図のような精密さで、五芒星の封鎖を破ったメフィストの科白せりふの中に示されていた事である。そうなると、勿論その方程式は、事件中最大の疑問と云われる次の風精ジルフスに向って追及されねばならなかった。が、その解答を求めた検事の顔には、痛々しいまでの失意が現われた。
「すると、鐘鳴器カリリヨン室の風精ジルフスが、あの倍音演奏とどんな関係があるのだね。そのλラムダは、θシータは?」と検事があえぐように訊ねると、法水はにわかに態度を変えて、悲劇的に首を振った。
「冗談じゃない。どうしてあれが、そんな遊戯的衝動の産物なもんか。あれには、悪魔の一番厳粛な顔が現われているんだよ。ねえ、そうじゃないか支倉君、没頭と酷使とからは、きまって恐ろしいユーモアが放出されるんだぜ。だから、あの風精ジルフスのユーモアは、今のような論理追求だけでひしゃげてしまうようなしろものじゃない。きっと水精ウンディヌスなどとは似ても似つかぬほど、狂暴的な幻想的ファンタスチックなものに違いないのだ。それに、元来あの風精ジルフスと云うのが、眼には見えぬ気体の精インヴィジブル・フェアリーなんだからね。したがって、どこぞという特徴もないのだ」とむしろ冷酷に突き放してから、熊城の方を向くと、彼は満面に殺気をうかべて云い放った。
「つまり、きっと犯人の冷笑癖シニシズムが、結局自分の墓穴を掘ってしまったのだよ。試しに水精ウンディヌスと、性別転換の行われてない火精ザラマンダーとを比較して見給え。必ずその解答が、前例の二つとはてんで転倒した犯行形式に違いないのだ。犯人は隠微な手段をらずに、堂々と姿を現わして、ブラッケンベルグ火術の精華を打ち放すだろう。勿論標尺と引金を糸で結び付けて、反対の方向へ自働発射を試みるようなことはやらんだろうし、汁で縮むレットリンゲル紙を指に巻いて、引金に偽造指紋を残すような陋劣ろうれつな手段にも出まい。云わば、いっさいの陰険策を排除した騎士道精神なんだよ。しかし、僕等にもしこの用意がなかった日には、前例の二つに現われている、複雑微妙な技巧に慣れた眼で、必ずや錯覚を起すに違いないのだ。つまり、そこに犯人が目論もくろんだ、反対暗示があると云う訳だが、……今度こそはわらい返してやるぞ」
 勿論その一言は、今後の護衛方法に決定的な指針を与えるものに相違なかった。けれども、こうして法水の知脳が、次回の犯罪において全く犯人の機先を制したかのように見え、ことに火精ザラマンダーの一句が、結局犯人の破滅を引き出すかの観を呈したのだったけれども、従来これまで彼対犯人の間に繰り返されていった権謀術策の跡をかえりみると、法水の推断を底とするのが、まだまだ早計のようにも思われるではないか。しかし、五芒星呪文に対する彼の追及は、けっしてそれのみには尽きなかったのである。
「しかし、まだまだ僕は、あの五芒星呪文に、もっと深いところに内在している、核心のものがあると信じていたのだ。つまり、この事件の生因と関聯している、サア、犯罪動機と云うよりも、まだもっと深奥のものかもしれない。いや、もう少し広い意味で云うと、黒死館の地底には、一面に拡がっている幾つかの秘密の根がある。それが盤根錯綜として重なり合っている個所ところの形状を、何かの動機で知ることが出来はしまいかと考えたのだ。それで、試みに様々の角度を使って、一々あの呪文を映してみたのだよ」とそこまで云うと、法水はさすがに疲労の色を泛べて、昨日一日を費やした凄愴な努力を語るのだった。
 それによると、犯人を一種の展覧狂と信じている法水は、最初伝説学に考察の矢を向けたのだった。アナトール・ル・ブラの「ブリトン伝説学」やガウルドの「オールド・ニック」までも渉猟しょうりょうして、性別転換の深奥に潜んでいて犯罪動機に符合するものを、中欧死神アンカウ口碑の中に見出そうとした。また、シェラッハウヘンの「シュワルツブルグ城」その他から、妖精の名称に関する語源学的な変転を知ろうとした。つまり、水精ウンディヌス水魔ニックスとの間に一致があれば、女神フリーヤー(すなわちニケーアあるいはニックスと一体で善悪二様の化身のあるヴォーダン神の妻)の化身と云われる白夫人ホワイト・レディ伝説のなかに、異様な二重人格的意義を発見できはしまいかと考えたからである。さらに、「Volksbuchフォルクスブッフ」やゴットフリート(フォン・シュトラスブルグ)の神秘詩や、ハーゲンやハイステルバッハ、それから、ゲーテの「ファウスト第一稿ウル・ファウスト」と第二稿、第三稿との比較も試みたけれども、結局その第一稿ウル・ファウストには、第二稿以下には判然としていない地霊エルデガイストすなわち、ウンディネ・ジルフェ・サラマンダー・コボルトを眷族とする大自然の精霊)が、壮大な哲学的な姿を出現させているのみであった。しかし、この五芒星呪文に関する法水の解説は、むしろ講演レクチュアに等しかった。それなので、ジリジリ緊迫の度を高めていた空気がしだいに緩んでいって、背中に陽をうけている二人の間には、ぽかぽかした雲のような眠気が流れはじめた。検事は皮肉な嘆息をして云った。
「とにかく、この一事だけは断っておこうよ――この席上が弾薬塔プルヴェル・トゥルムだということをね。とにかくそういう話は、いずれ薔薇園ローゼン・ガルテンでやってもらうことにしようじゃないか」
 ところが、次の瞬間法水の顔にサッと光耀がひらめいていて、突如鉄鞭のように、凄じいうなりが惰気を一掃したのである。彼は、甘そうにたばこを二、三度吸うと云った。
「冗談じゃないぜ、こんなに素晴らしい魔王の衣裳エルケーニッヒ・コスチュウムが、弾薬塔プルヴェル・トゥルム砲壁バルバカンの中にあってたまるもんか。支倉君、僕の魔法史的考察はついに徒労ではなかったのだ。散々さんざんぱら悩まされた五芒星呪文の正体が、ものもあろうに、ルイ十三世朝機密閣ブラック・キャビネット史の中から発見されたのだよ。いや言葉を換えて云おう。当時不即不離の態度だったけれども、新教徒の保護者グスタフス・アドルフス(瑞典スウェーデン王)と対峙していたのが、有名な僧正宰相リシュリュウだったのだ。実にこの事件の本体が、あの陰険きわまりない暗躍の中に尽されているのだよ。ところで支倉君、君は、リシュリュウ機密閣ブラック・キャビネットの内容を知っているかね。暗号解読家のフランソア・ヴィエトやロッシニョールは? 錬金魔法師兼暗殺者のオッチリーユは? つまり、問題はこの悪党僧正ブラック・モンクオッチリーユにあるのだが……ああ、なんという薄気味悪い一致だろうか。被害者の名も犯人の名もあの竜騎兵王を斃したリュッツェン役の戦歿者中に現われているのだがね

(註)一六三一年瑞典王グスタフス・アドルフスは、独逸ドイツ新教徒擁護のために、旧教聯盟とプロシァにおいて戦い、ライプチッヒ、レッヒを攻略し、ワルレンシュタイン軍とリュッツェンにて戦う。戦闘の結果は彼の勝利なりしも、戦後の陣中においてオッチリーユが糸を引いた一軽騎兵のために狙撃せられ、その暗殺者は、ザックス・ローエンベルグ侯のためその場去らずに射殺せらる。時に、一六三二年十一月十六日。

 瞬間検事と熊城は、自分ではどうにもならない眩惑の渦中に捲き込まれてしまった。犯人の名――それはすなわち、この事件の緞帳カーテンが下されるのを意味する。しかし、古今東西の犯罪捜査史をあまねく渉猟したところで、とうてい史実によって犯人が指摘され、事件の解決が下されたなどという神話めいたためしが、従来これまでにわずかそれらしい一つでもあったであろうか。それであるからして、二人はおどろき呆れ惑い、ことに検事は、猛烈な非難の色をうかべて、実行不可能の世界に没頭してゆく法水を、厳然と極めつけるのだった。
「ああまた、君の病的精神狂乱かね。とにかく、洒落しゃれはやめにしてもらおう。壺兜や手砲ハンド・キャノンで事件の解決がつくと云うのだったら、まず、そういう史上空前の証明法を聴こうじゃないか」
「勿論刑法的価値としては、完全なものじゃないさ」と法水はけむりなびかせて、静かに云った。「しかし、最も疑われてよい顔が、僕等を惑わしていた多くの疑問の中に散在しているんだ。つまり、その一つ一つから共通した因子ファクターが発見され、しかも、それ等をある一点に帰納し綜合し去ることが出来たとしたらどうだろう。またそうなったら君達は、あながちそれを、偶然の所産だけとは考えないだろうね」と云って、卓子テーブルをガンと叩き、強調するものがあった。「ところで僕は、この事件を猶太的犯罪ジュウイッシュ・クライムだと断定するが、どうだ!」
猶太ジュウ――ああ君は何を云うんだ?」熊城は眼をショボつかせて、からくもしゃがれ声を絞り出した。恐らく彼は、雷鳴のような不協和の絃のうなりを聴く心持がしたことであろう。
「そうなんだ熊城君、君は猶太ユダヤ人が、ヘブライ文字の※(アレフ、1-3-60)アレフからヘブライ文字「YOD」ヨッドまでに数を附けて、時計の文字盤にしているのを見たことがあるかね。それが、猶太人の信条なんだよ。儀式的の法典を厳格に実行することと、失われた王国ツィオンの典儀を守ることだ。ああ、僕だってそうじゃないか。どうして今までに、土俗人種学がこの難解きわまる事件を解決しようなどと考えられたろうか。とにかく、支倉君の書いた疑問一覧表を基礎にして、あの薄気味悪い赤い眼シリウス視差パララックスを計算してゆくことにしよう」と法水の眼の光が消えて、卓上のノートを開きそれを読みはじめた。

一、四人の異国楽人について
被害者ダンネベルグ夫人以下四人が、いかなる理由の下に幼少の折渡来したか、また、その不可解きわまる帰化入籍については、いささかの窺視きしも許されない。依然鉄扉のごとくに鎖されている。
二、黒死館既往の三事件
同じ室において三度にわたり、いずれも動機不明の自殺事件に対して、法水はまったく観察を放棄しているようである。ことに、昨年の算哲事件については、真斎を※(「りっしんべん+曷」、第4水準2-12-59)どうかつする具には供しているけれども、はたして彼の見解のごとく、本事件とは全然別個のものであろうか。法水が黒死館の図書目録の中から、ウッズの「王家の遺伝」を抽き出したのは、その古譚めいた連続を、彼は遺伝学的に考察しようとするのではないか。
三、算哲と黒死館の建設技師クロード・ディグスビイの関係
算哲は薬物室の中に、ディグスビイより与えらるべくして果されなかった、ある薬物らしいものを待ち設けていた。その意志を、一本の小瓶に残している。また法水は、棺龕カタファルコ十字架の解読よりして、ディグスビイに呪詛の意志を証明している。以上の二点を綜合すると、黒死館の建設前すでに、両者の間には、ある異様な関係が生じていたのではないだろうか。
四、算哲とウイチグス呪法
ディグスビイの設計を、算哲は建設後五年目に改修している。その時、デイ博士の隠顕扉や黒鏡魔法の理論を応用した古代時計室の扉が生れたのではないかと思われる。しかしながら、算哲の異様な性格から推しても、とうていそれ等中世異端的弄技物が、上記の二つに尽きるとは信ぜられぬ。そして、歿後直前に呪法書を焚いたことが、今日の紛糾混乱に因を及ぼしているのではないかと、推測するがいかが?
五、事件発生前の雰囲気
四人の帰化入籍、遺言書の作成と続いて、算哲の自殺に逢着すると、突如なまぐさ狹霧さぎりのような空気が漲りはじめた。そして、年が改まると同時に、その空気にいよいよ険悪の度が加わっていったと云われる。あながちその原因が、遺言書をめぐる精神的葛藤のみであるとは思われぬではないか。
六、神意審問会の前後
ダンネベルグ夫人は、死体蝋燭が点ぜられると同時に、算哲と叫んで卒倒した。また、その折易介は、隣室の張出縁に異様な人影を目撃したと云う。けれども、列席者中には、誰一人として室を出たものはなかったのである。そして、その直下に当る地上には、人体形成の理法を無視した二条の靴跡が印され、その合流点に、これもいかなる用途に供されたものか皆目見当のつかない、写真乾板の破片が散在していた。以上四つの謎は時間的には近接していても、それぞれ隔絶した性質を持っていて、とうてい集束し得べくもない。
七、ダンネベルグ事件
屍光と降矢木の紋章を刻んだ創紋――。まさに超絶的眺望である。しかも法水は、創紋の作られた時間が僅々一、二分にすぎぬと云う。さらに彼の説として、その二つの現象を、〇・五の青酸加里(ほとんど毒殺を不可能に思わせる程度の薬量)を含んだ洋橙オレンジが、被害者の口中に入り込むまでの道程に当てている。すなわち、不可能を可能とさせる意味の補強作用であり、その結果の発顕にほかならぬと推断している。しかし、彼の観察誤りなしとしても、それを証明し犯人を指摘することは、要するに神業ではないか。しかも、家族の動静には、一見の特記すべきものもなく、洋橙の出現した経路も全然不明である。
テレーズの弾条人形――。断末魔にダンネベルグ夫人は、この邪霊視されている算哲夫人の名を紙片にとどめた。そして、現場の敷物の下には、人形の足型が、扉を開いた水を踏んでまざまざと印されている。しかし、その人形には特種の鳴音装置があって、附添いの一人久我鎮子は、その鈴のような音を耳にしなかったと陳述しているのだ。勿論法水は、人形の置かれてあった室の状況に一抹いちまつの疑念を残しているけれども、それは彼自身においても確実のものではなく、すなわち、否定と肯定との境は、その美しい顫音せんおん一筋に置かれてあると云っても過言ではない。
八、黙示図の考察
法水がそれを特異体質図と推定しているのは、明察である。何故なら、自体の上下両端を挾まれている易介の図が、彼の死体現象にも現われているではないか。しかし、伸子の卒倒している形が、セレナ夫人のそれを髣髴ほうふつとさせるのは、何故であろうか。また法水が、象形文字から推定して、黙示図に知られない半葉があるとするのは、仮令たとい論理的であるにしても、すこぶる実在性に乏しく、結局彼の狂気的産物と考えるほかにない。
九、ファウストの五芒星呪文
十、川那部易介事件
法水の死因闡明せんめいは、同時に甲冑を着せしめたところに、犯人の所在を指摘している。それを時間的に追及すると、伸子にのみ不在証明アリバイがない。しかも伸子は、その咽喉のどえぐった鎧通よろいどおしを握って失神し、なお、奇蹟としか考えられない倍音が、経文歌モテットの最後の一節において発せられている。それ以外に疑問の焦点とでも云いたいのは、はたして犯人が、易介を共犯者として殺害したか否かであって、勿論容易な推断を許さぬことは云うまでもないのである。結局、その曲折紛糾奇異を超絶した状況から推しても、しだいに、伸子の失神を犯人の曲芸的演技とする点に綜合されてゆくけれども、しかし、公平な論断を下すなれば、依然として紙谷伸子は、ただ一人の、そして、最も疑われてよい人物であることは勿論である。
十一、押鐘津多子が古代時計室に幽閉されていた事
これこそ、まさしく驚愕きょうがく中の驚愕である。しかも、法水が死体として推測したものが、解し難い防温を施されて昏睡していた。勿論、彼女が何故に、自宅を離れて実家に起居していたか――という、その点を追及する必要は云うまでもないが、しかし、犯人が津多子を殺害しなかった点に、法水は危惧きぐの念を抱いて陥穽かんせいを予期している。けれども、易介が神意審問会の最中隣室の張出縁で目撃した人影と云うのは、絶対に津多子ではない。何故なら、当夜八時二十分に、真斎が古代時計室の文字盤を廻して、鉄扉を鎖したからである。
十二、当夜零時半クリヴォフ夫人の室に闖入したと云われる人物は
ここに易介の目撃談――宵に張出縁へ出現して、あのいかにも妖怪めいた不可視的人物が、夜半クリヴォフ夫人のへやにも姿を現わしたのだった。夫人の言によれば、それはまさしく男性であって、しかもあらゆる特徴が、身長こそ異にすれ旗太郎を指摘している。しかりとすれば、伸子が覚醒の瞬間にしたためた自署に、降矢木という姓を冠せている。それを、グッテンベルガー事件に先例のある潜在意識と解釈すれば、伸子を倒したとする風精ジルフェの正体には、最も旗太郎の姿が濃厚である。そして、その推定が、伸子の露出的な失神姿体と撞着するところに、この事件最大の難点が潜んでいるのではあるまいか。
十三、動機に関する考察
すべてが、遺産をめぐる事情に尽きている。第一の要点は、四人の異国人の帰化入籍によって、旗太郎の白紙的相続が不可能になった事である。次に、旗太郎以外ただ一人の血縁が、すなわち押鐘津多子を除外している点に注目すべきであろう。したがって、旗太郎対三人の外人の間には、すでに回復し難い程度の疎隔を生じているけれども、何よりこの一つの大きな矛盾だけは、どうすることも出来ない。すなわち、動機を持つ者には、現象的に嫌疑とすべきものがなく、伸子のごとき犯人を髣髴とさせる者には、その反対に動機の寸影すら見出されないのである。

 読み終ると、法水はそれを卓上に拡げて、まずその第七条(屍光と創紋のくだり)の上に指頭を落した。その頃には、欄間の小窓から入って来る陽差が、「倫敦ロンドン大火之図」の――ちょうどテムズ河の真上附近あたりにまで上っていて、頭上の黒煙に物々しい生動を起しはじめた。それでなくても検事と熊城は、唇が割れ唾液がかわいて、ただひたすらに、法水の持ち出した奇矯転倒の世界が、一つ大きな蜻蛉とんぼがえりを打って、夢想の翼を落してしまう時機を夢見るのだった。そういう異様に殺気立った空気の中で、法水は新しいたばこに火を点じ、おもむろに口を開いた。
「ところで、最初にあの不思議な屍光と創紋だが、問題は依然として、その循環論的な形式にあるのだ。あの洋橙オレンジがどういう経路を経て、ダンネベルグ夫人の口の中に飛び込んでいったのか――その道程が判然はっきりしない限りは、依然実証的な説明は不可能だと思うね。けれども、その屍光と創紋の発生に似た犯罪上の迷信が、有名な『猶太ユダヤ人犯罪の解剖的証拠論(ゴルトフェルト著)』の中に記録されているのだ」とその一冊を書架から引き出したが、それには猶太的犯罪風習が、簡略な例註として記されているのみだった。

 一八一九年十月の或る夜、ボヘミア領ケーニヒグレーツ在の富裕な農夫が、寝台の上で心臓を貫かれ、その後に室内から発火して、死体とともに焼き捨てられたという惨事が起った。そして、それには通行者の証言があって、ちょうどその夜の十一時半に、わずかに隙いた窓掛カーテンの間から、被害者が十字を切っているのを目撃したと陳述する者が現われてきた。そうなると、兇行時刻が十一時半以後となって、最も深い動機を持っていると目されていた、猶太ユダヤ人の一製粉業者に、計らずも不在証明アリバイが出来てしまった。したがって、事件はそれなり迷霧に鎖されてしまったのである。ところがその半年後になって、ようやくプラーグ市の補助憲兵デーニッケによって犯人の奸計が曝露され、やはり最初の嫌疑者である、猶太人の製粉業者が捕縛されるに至った。しかも、発覚の原因をなしたものは、ハムラビ経典の解釈から発している、猶太固有の犯罪風習にすぎなかった。すなわち、死体もしくは被害の個所を、周囲に蝋燭ろうそくを立てて照明すると、それで犯罪が、永久発覚しないという迷信が端緒だったのである。勿論その蝋燭が、火災の原因だったことは云うまでもないであろう。
ボヘミア周辺地図の図

 ああ開幕当初の場面に、法水はなんと生彩に乏しい例証を持ち出したことであろうか。けれども、続いて彼が、それに私見を加えて解答を整えると、偶然その独創の中から、さしも循環論の一隅に破られんばかりの光が差しはじめた。
「ところで、あの一文だけでは、憲兵ゲンダルムデーニッケの推理経路がいっこうに不明だけれども、僕はそれに解析を試みたのだ。死体を囲んだと云われる蝋燭の数は、その実五本だったのだよ。しかも、死体に十字を切らせるためには、それで死体を囲まずに、削ぎ竹のように片側の蝋を削いだ丈の短い四本を周囲まわりに並べて、その中央に、全長の半ばほどの蝋を取り除いて長い芯だけにした一本を置き、それを囲ませなければならなかった。何故なら、風鶏計かざみの四本の手の向きを互い違いにした場合に、どういう現象が起るか。つまりこの場合は、斜めに削いだ分の側を、互い違いの向きにしてならべたので、火が点ぜられると、熱せられた蝋の蒸気が傾斜を伝わって斜めに吹き上げる。したがって、それぞれに削いだ向きが異なっているので、その上方に逆三角形と三角形が向き合っている形デアボロ形の気流を起させるのだ。それが、中央の長い芯を廻転させて、その光の描く影で、死体の手に十字を切るような錯覚を現わしたのだよ。そうなって、屍光と創紋の生因を追求してゆくと、是が非にも、僕等は神意審問会まで遡って行かねばならぬような気がしてくるボヘミアのケーニヒグレーツで点された蝋燭の中にあるいはダンネベルグ夫人のみに現われた算哲の幻影が秘められているのじゃあるまいかね。ねえ支倉君、偶然の中からは、往々に数学的なものが飛び出してくるものだよ。何故なら、元来恒数コンスタントと云うものは、常に最初の出発点形式は仮定であり、しかる後に、常住不変の因数ファクターを決定するのだからね」と法水の顔に、いったんは混乱したような暗影が現われたけれども、彼はさらに語を次いで、屍光に関して、地理的にも奇妙な暗合のあるのを明らかにした。しかし、そういう隔絶した対照は、結果において紛乱を助長するものにすぎなかったのである。
「次に僕は、カトリック聖僧に関する屍光現象に注目したのだ。ところが、アヴリノの『聖僧奇蹟集』を読むと、新旧両教徒の葛藤が最もはなはだしかった一六二五年から三〇年までの五年ほどの間に、シェーンベルグ(モラヴィア領)のドイヴァテル、ツイタウ(プロシア)のグロゴウ、フライシュタット(高部アウストリア)のアルノルディン、プラウエン(サキソニー領)のムスコヴィテス――と都合四人が、死後に肉体から発光したという記録を残している。そこに熊城君、偶然にしてはとうてい解しきれない符合があるのだよ。何故なら、その四つの地点を連ねたものが、ほぼ正確な矩形くけいになって、それがケーニヒグレーツ事件を起した、ボヘミア領を取り囲んでいるからなんだ。ああ、その実数スカラーはなんだろうか。僕は、しゃべれば喋るほど判らなくなってくるのだが、しかし、死体を照らすという猶太ユダヤ人の風習だけは、それを、犯人の迷信的表象とすることが出来るだろうと思うのだがね」と法水は天井を振り仰いで、いかにも弱々しい嘆息を発するのだった。しかし、それを聴いて、検事の希望がまったく絶たれてしまった。彼は口元が歪むほどの冷笑を湛えて、背後の書架から、ウォルター・ハート(ウエストミンスター寺院の僧)の「グスタフス・アドルフス」を取り出した。そして、パラパラとページを繰っているうちに、何やら発見したと見えて、開いた個所<